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(前のエントリーから続く)

この論文でとりあげられる4つのケースのうち、

最後のAshleyケースについてはともかくとして、
私がいちばん興味深く読んだのは③の脂肪吸引のケース。

Brooke Batesという12歳の女の子。Quelletteによればこの段階での最年少。
親の要望で整形外科医が35ポンド分の死亡と水分を吸引。
その結果を親子は奇跡だと称して喜んだが、効果は続かず
Brookeは1年もしないうちに元の体重になる。
すると今度は、両親は胃のバンディング手術を希望。
米国の医師らが断ると、メキシコに連れて行った。

興味深いと思った点は、
こうした“簡単解決”技術の利用には、
目的志向型の思考回路にどんどんはまり込んでいって
技術によって得られる効果に意識が焦点化され、
それが自己目的的化してしまう危険性があるのかもしれない、と
前から漠然と感じていたことをはっきり意識させてくれたこと。

例えば本来の希望は「きれいになりたい」とか「そのために痩せたい」であり、
そこには運動するとか食生活を見直すなど他の選択肢だって沢山あるはずだし、
そうした希望そのものの設定の仕方を疑問視してみる考え方もあるはずなのに、
いったん“簡単解決”技術を頼ることによって、技術を通じて解決する方向へと
直線的に突き進む隘路にハマりこんでいく……。

それは、希望や本来の目的に応じて適切な解決策を考えるというよりも、
むしろ技術のポテンシャルの方が目的やニーズを規定していくような……。

(例えば、「ロボット技術が育児に応用可能になりそうだ」という段階から
「オムツは親よりもロボットが替えた方が衛生的で、サンプルからデータもとれれば理想的」と
ロボットの機能の方から育児行動の目的を規定し直していく児童精神科医のように)

ちなみに、米国整形外科学会の報告によると、
2007年に13歳から19歳の子どもの脂肪吸引は4960例とのこと。


Quelletteが問題視するのは
これら4つのケースのいずれも裁判所に判断がもちこまれていないこと。

現行法では、憲法と判例法により、
親の決定権が法によって保護されているかのようにも思え、
こうした4つのケースにおける親の意思決定は
子どもが通う学校や教会を親が選び決めるのと同じような扱いになっている。

昨今の家族法分野の議論では
親と子の関係を伝統的なヒエラルキー・モデルから
自己決定できる存在として子どもを尊重する他のモデルへのシフトが起こりつつあるのに、

医療法は、ある種の医療を除いて基本的にヒエラルキー・モデルをとっている。
しかし、医療においても議論がないわけではない。

そこで、Quelletteが実にさりげなく持ちだしてくるのが、
私にはもうウハウハしてしまうほど面白かったことに、
Ashley事件の担当倫理学者、Diekemaの「害原則」論なのですね。

彼の「害原則」は文末にリンクしたように
当ブログも2007年段階で拾っているのですが、
Diekema医師はAshley事件が論争になるまでは、むしろ慎重な姿勢の倫理学者です。

彼が03年に書いた障害者の強制不妊に関する論文は実に理にかなったものだし、

子どもの医療を巡る意思決定についても、
利益対リスクや害を比較考量する「本人の最善の利益」論では
子どもを十分に守ることができないとして、
まず子どもに及ぼされ得る「害」だけを検討し、
「害を及ぼさないこと」を最優先する意思決定モデルを用いるべきだと
2007年のシアトルこども病院の生命倫理カンファで説いています。
これが彼の説く「害原則」harm principle。

(この原則によれば、
Ashleyの両親の要望を彼は認めてはならなかったはずなのですが)

Quelletteの論文で初めて知ったのだけど、
彼は害原則について2004年に論文も書いているようです。

しかし害原則だけでこれら Shaping ケースを制限することには限界があると
Quelletteは言います。

その理由は以下の3点。

①害原則判断は必然的に個別の介入またはケースごとに行われるものである。

②医療が行われない場合には有効だけれど、過剰に行われるケースでは機能しにくい。

(Diekemaの上記プレゼンも、確かに、親の医療拒否ケースが前提でした。
でも、その中で彼は親が医療を要望してきた場合を想定して、
親の希望に沿ってあげるとしたら「通常の臨床の範囲内で」と一定の基準を示しています。
これもまた、AshleyケースでDiekema本人が逸脱した基準なのですが)

③害原則は、害さえ及ばなければ親の決定権の範囲との前提に立っており、
問題の本質に対応していない。


この最後の点をQuelletteは最も重視しているのですが、これは私もAshley事件で、
正当化の根拠とされた「利益対リスク」論の盲点だと考えました。
確かに「害原則」にもQuelletteの指摘の通り、同じ盲点があります。

Quelletteは、これらの考察から
子どもの身体に手を加えることを親の「権利」と捉えることそのものが
法や道徳の議論の根底にある原理に沿わない、と主張するのです。

彼女の言う、その法や道徳の原理とは、
「人は所有財産ではない、それゆえ、人は尊敬と尊厳に値するのであり、」
誰であれ他者の身体に完全な支配を行使する権利を有する者はいない」。

それを裏付けるものとして Quellette が次に引っ張ってくるのは
法における「非服従(nonsubordination)の原則」。

それに関する議論は次のエントリーで。


【関連エントリー】
「最善の利益」否定するDiekema医師(前)(2007/12/29)
「最善の利益」否定するDiekema医師(後)(2007/12/29)
2011.06.22 / Top↑
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