(前のエントリーから続く)
昨今は日本で大人気のMichael Sandel教授も
この論文でとりあげられた養女の目の整形手術について論じているらしく
Quelletteもサンデルを援用していますが、
子ども自身のニーズとは無関係に、親自身の目的によって
子どもの身体に手を加えて作り変えようとする親のことを
サンデルはこう呼びます。
the designing parents――。
(子をデザインする親)
そうした親を巡ってサンデルの言わんとすることは
さらにWilliam Mayという学者からの引用によって示されており、
親になるとは以下のことを教えられることだとして
「子どもを生まれたそのままに贈り物、ギフトとして尊重すること。
デザインする物体や、意思によって作り出すものや、我々の野心の道具としてではなく」
「親の愛とは、
子どもがたまたま持ち合せている性能や特性によるのではなく
ありのままの子どもを受け入れることによるもの」
その上で、子どもの発達を促し、健康に留意し、必要な治療を受けさせることと
「デザインする」こととの区別を説くサンデルの説を解説した上で、
Quelletteは、再びParham判決を引き、
医療における意思決定での親の決定権は
「子どものニーズを満たす親の義務」に基づくものであり、
「子どもの身体に対する所有権」に基づくものではない、と説いて
臨床現場の実態がそうなっていないことの問題を再確認します。
この後、では、どういうモデルがよいのかの検討に入っていくのですが、
親の権限を尊重しつつ、それがフリー・ハンドの権利ではないことを明確にするため、
Quelletteが提言するのは
「子どもの権利を信託された者」としての親と、その義務と権限。
Barbara Bennett Woodhouse、 Joel Feinberg, Elizabeth and Robert Scottによる
それぞれ3つの「信託者モデル」を解説した(煩雑なので、ここでは省略)上で、
3つのモデルに共通しているのは
親の権限ではなく、子どもの福祉を増進することに目的がおかれている点。
子を親の所有物としてではなく、権利を持ったひとりの人とみなしている点。
世話をされニーズを満たされることに対する子どもの基本的な権利を確認している点。
これらの原則によって子どもの権利と尊厳を守りつつ、
3つのモデルの利点を生かし、不備を補いながら、
同様の新たなモデルの構築を模索しているのがこの論文の最後の章で、
財産の信託者の義務と責務と、裁判所が関与すべき意思決定の範囲、
違法行為とされる範囲などを詳細に参照しながら、そのモデルを検討していくのですが
権限の範囲にしても、誰が第三者となるべきかという点にしても、
かなりぐらついているように思えて、この部分は私には良く分かりませんでした。
ちょっと未消化のまま書かれているという印象ですが、
Quelletteは、こうした考えをその後、著書にまとめたようですから、
そちらに期待して、読んでみたいと思います。
いずれにせよ、今の米国の医療において、
親子の関係を上下の所有関係と捉える旧来のヒエラルキー型家族モデルの中で
子の所有者としての親の権限をフリー・ハンドで認め、
それが「親の権利」と受け止められてしまうことへの疑義と、
親は子の所有者ではなく、
子どもが一人の人として持った権利を大人になって自分で行使するまでの間、
その権利を信託されているに過ぎないと捉えて、医療においても、
その範囲での意思決定の“権限”のみに制約する枠組みが必要……との提言は、
非常に大きな意味のあると思いました。
改めて、Ashley事件で Norman Fostやトランスヒューマ二ストらが
「親の決定権」を振りかざして批判を封じようと試みたこと、
07年の論争で、一般の世論の中にも、
「実際に介護していない者が口を出すな」と
介護をしている事実が全権白紙委任に結び付いてしまったことなどを振り返り、
これは必要な議論だ、と痛感します。
(シリーズ 完)
このシリーズは、以下の内容となっています ↓
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
Quellette論文(09) 2: Diekemaの「害原則」
Quellette論文(09) 3: 法の「非服従原則」
Quellett論文(09) 4:「所有しデザインする親」から「子の権利を信託された親」へ
昨今は日本で大人気のMichael Sandel教授も
この論文でとりあげられた養女の目の整形手術について論じているらしく
Quelletteもサンデルを援用していますが、
子ども自身のニーズとは無関係に、親自身の目的によって
子どもの身体に手を加えて作り変えようとする親のことを
サンデルはこう呼びます。
the designing parents――。
(子をデザインする親)
そうした親を巡ってサンデルの言わんとすることは
さらにWilliam Mayという学者からの引用によって示されており、
親になるとは以下のことを教えられることだとして
「子どもを生まれたそのままに贈り物、ギフトとして尊重すること。
デザインする物体や、意思によって作り出すものや、我々の野心の道具としてではなく」
「親の愛とは、
子どもがたまたま持ち合せている性能や特性によるのではなく
ありのままの子どもを受け入れることによるもの」
その上で、子どもの発達を促し、健康に留意し、必要な治療を受けさせることと
「デザインする」こととの区別を説くサンデルの説を解説した上で、
Quelletteは、再びParham判決を引き、
医療における意思決定での親の決定権は
「子どものニーズを満たす親の義務」に基づくものであり、
「子どもの身体に対する所有権」に基づくものではない、と説いて
臨床現場の実態がそうなっていないことの問題を再確認します。
この後、では、どういうモデルがよいのかの検討に入っていくのですが、
親の権限を尊重しつつ、それがフリー・ハンドの権利ではないことを明確にするため、
Quelletteが提言するのは
「子どもの権利を信託された者」としての親と、その義務と権限。
Barbara Bennett Woodhouse、 Joel Feinberg, Elizabeth and Robert Scottによる
それぞれ3つの「信託者モデル」を解説した(煩雑なので、ここでは省略)上で、
3つのモデルに共通しているのは
親の権限ではなく、子どもの福祉を増進することに目的がおかれている点。
子を親の所有物としてではなく、権利を持ったひとりの人とみなしている点。
世話をされニーズを満たされることに対する子どもの基本的な権利を確認している点。
これらの原則によって子どもの権利と尊厳を守りつつ、
3つのモデルの利点を生かし、不備を補いながら、
同様の新たなモデルの構築を模索しているのがこの論文の最後の章で、
財産の信託者の義務と責務と、裁判所が関与すべき意思決定の範囲、
違法行為とされる範囲などを詳細に参照しながら、そのモデルを検討していくのですが
権限の範囲にしても、誰が第三者となるべきかという点にしても、
かなりぐらついているように思えて、この部分は私には良く分かりませんでした。
ちょっと未消化のまま書かれているという印象ですが、
Quelletteは、こうした考えをその後、著書にまとめたようですから、
そちらに期待して、読んでみたいと思います。
いずれにせよ、今の米国の医療において、
親子の関係を上下の所有関係と捉える旧来のヒエラルキー型家族モデルの中で
子の所有者としての親の権限をフリー・ハンドで認め、
それが「親の権利」と受け止められてしまうことへの疑義と、
親は子の所有者ではなく、
子どもが一人の人として持った権利を大人になって自分で行使するまでの間、
その権利を信託されているに過ぎないと捉えて、医療においても、
その範囲での意思決定の“権限”のみに制約する枠組みが必要……との提言は、
非常に大きな意味のあると思いました。
改めて、Ashley事件で Norman Fostやトランスヒューマ二ストらが
「親の決定権」を振りかざして批判を封じようと試みたこと、
07年の論争で、一般の世論の中にも、
「実際に介護していない者が口を出すな」と
介護をしている事実が全権白紙委任に結び付いてしまったことなどを振り返り、
これは必要な議論だ、と痛感します。
(シリーズ 完)
このシリーズは、以下の内容となっています ↓
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
Quellette論文(09) 2: Diekemaの「害原則」
Quellette論文(09) 3: 法の「非服従原則」
Quellett論文(09) 4:「所有しデザインする親」から「子の権利を信託された親」へ
2011.06.22 / Top↑
| Home |