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この本を読みながら、総体に
待ってました、よくぞ書いてくださいました、と
盛大な拍手を送りつつ、

著者が主として身体障害が中心症状である妻を介護している男性であるために、
やむをえないことなのではあるけれど、どうしても
配偶者を介護するケアラー、特に妻を介護する男性の立場で
書かれている限界は否めない。

私が唯一、「なんだよ、それは……」と不満を覚えたこととして、
障害児の親なら子どもの介護は苦痛ではないはずだとのステレオタイプな思い込みが、
著者の言葉から時に匂ってくること。

まぁ、確かに親や配偶者に比べれば
我が子の身体というのは、はるかに“異物”感はありませんが、
だからといって介護の負担を感じることなどないだろうと前提されるのは、飛躍が過ぎる。

同様に、親を介護している人とか
認知症の人、知的障害・精神障害のある人を介護している人とか、
夫を介護している女性の立場の読者にも、それぞれに
ちょっと食い足りない感じはあるかもしれない。

それが一番如実に表れているのがセックスに関する章。

セックスが介護者の悩みになるパターンは多様だとして、
著者はいくつかのパターンを挙げている。

例えば、男性介護者の場合、仕事をやめて家事やお世話仕事ばかりやっていると、
自分の男性性に対する自信が低下して、それがセックスに影響する。
このパターンは妻以外の介護にも当てはまるかもしれない。

次に、自分は性的には現役続行なんだけれども、
“子豚”の方がそういう身体状態ではなかったり、そういう気になれないパターン。

逆に、“子豚”の方は現役続行なんだけれども、
自分が愛した“子豚”がかつての姿でなくなったことや疲れ、その他の理由で
ケアラーの方がどうしてもそういう気になれないパターン。

一番悩ましいのは、このパターンで、
ケアラーとしては“子豚”のためを考えるのが自分の役割だと思うから
“子豚”が望めば、それに応えてあげるべきだと考えてしまうかもしれないけれども、
セックスは非常に微妙で繊細な営みなので、
いずれの側であれ、無理をしていると必ず相手にも伝わるし
ただでも介護を通じてややこしくなりがちな夫婦関係に
うまくいかなかったセックスが及ぼす精神的な影響は決して小さくない。

だから著者は、介護が必要となった生活でどちらかがセックスに抵抗を感じるなら
無理して「付き合う」ことは止めた方がいいのでは、とアドバイスする。

例えば、セックス・レスパイトというのを行政が用意してくれるとか
夫婦でやって来て「夫が奥さんの介護を引き受けるから、その間に
二人で別室にこもらない?」とささやいてくれる女友達が現れないものか……
なんて夢に見るけど、そんなことが起こった試しはない、とボヤいては
ああ、この辺りはモロ、男性介護者だなぁ……と微笑ませてくれつつ、

ケアラーの方が現役続行である場合の解決策として
例えば、風俗を利用するとか、誰かと恋愛する、恋愛抜きのセックス・フレンドを作る、などを
順次、検討していく。そして結局は、以下のようなメッセージに落ち着いていく。

ずっと昔の若い頃、セックスしたくてもできない時代ってあったよね。
それでもボクたち誰も、死ななかったよね。なら、今だって同じなんじゃないのかな。

介護生活だけでも複雑で大変なものをたくさん背負っているのに、そこに
たかだか性欲の処理のためだけに、夫婦以外とのややこしい人間関係のストレスまで
追加するのって、とんでもない冒険だと思わない? と。


私はこの章を読んで、いつか取材先で聞いた話を思い出さないでいられなかった。

若年性痴ほう症の男性を介護する妻から
「夫の性的暴力が高校生の娘に向けられそうになりました。
娘を守るために、その暴力は私が受けました」

もちろん、これはセックスの問題というよりも
「“身勝手な豚”の介護ガイド」 4のエントリーで触れた
“子豚”によるケアラーへの虐待の問題だと思う。

同じ取材先で聞いたもう1つのケース。
若年性痴ほう症にかかった女性の夫に介護能力が欠けていて、虐待が案じられたために
これでは無理だと考えた支援者が施設入所を提案した時に、夫から返ってきた言葉が
「じゃぁ、俺のこと(セックス)はどうしてくれるんだ?」

これも上のケースと同じく、セックスに留まらない虐待の問題だろうと思う。
(ただ、そういうことがあった翌日は妻の表情が和らいでもいたりするので
一概に外部の人間が「虐待」と決めつけることもできにくい微妙なものがある、とも
支援者の方は話されていました)

やはり夫婦介護におけるセックスの問題はそれだけ大きいのだと痛感するし、

この春に聞いた講演で、春日キスヨ氏が
「男性介護者の会に出てくるような夫は少なくとも妻を愛している。
妻を愛し、自覚的に介護を担おうとしている。
でも世の中には、愛しあっている夫婦だけではない。
本当に深刻な問題は、愛のない夫婦の介護生活で起きている」と
言われていたことも、つくづくと思い返された。

それだけに、この本の全体を通じて感じられ、
セックスの章に至って、ひたひたと、しみじみと感じられるのは、
著者は本当に妻を愛しているんだなぁ……ということ。

まぁ、そういう人だからこそ書ける本なわけで。

だから、この本のセックスの章には、
“子豚”をレイプするような介護者はぜんぜん想定もされていない。

それは本当にこの本の冒頭で著者が言った通りで、
自分のことを“身勝手な豚”だと感じて、そのことに苦しみ、
その苦しみゆえにこんな本を手に取ってみるようなケアラーは
もともと“身勝手な豚”になりきれるような人じゃない。

ホンモノの身勝手なブタは、
最初からこんな本を手に取ろうなどとは考えつきもしない。

だから、もちろん、この本では対処も解決もできない
もっともっと深刻な問題が介護にはいっぱい潜んではいるんだけれども、
それでも、やっぱり、

いや、それならば、なおさらに、
愛のある介護をしているからこそ自分を“身勝手な豚”だと感じて
苦しんでいるケアラーに、エールを送りたいじゃないか。

男性介護者の会に出てくるような
妻を愛していて、自覚的に介護を担おうとしている愛すべき男性たちにこそ
この本のメッセージをエールとして送りたいじゃないか。

そんな気がした。


そういう表現はこの本のどこにもないけれど、
セックスの章に並んで、おカネに関する章にも強く表れていて、
ある意味、この本全体を通じて描かれているのは、いわば「ケアラーの哲学」なのだと思う。

それは、私自身の解釈と言葉でまとめると、
「思い通りにならない人生と、思うに任せぬことの多い日々の生活の中で、
前向きな工夫をしつつ、与えられた人生を精いっぱい楽しく豊かに生きていくための哲学」。

自分の努力で変えられることは変える努力と工夫をし、社会からも可能な限りの助けを得ながら、
どうしても変えられないことは受け入れて、それなりに幸福に生きていくための哲学――。

そのための具体的なアドバイスも盛り込みつつ、全体としては、
自分の心の枠組みを組み替えて、心のあり方を整えよう、と著者は説いているんだと思う。

そうすれば、思い通りにならない人生と思われたものだって、そんなに悪いものじゃない。
案外、今の生活ならではの豊かさ、楽しさだってあるじゃないか、と。

どこか仏教の教えに通じていくものも感じるし、
「思い通りにならない人生、能力を失った生は生きるに値しない」という価値観を隠し持った
「科学とテクノの簡単解決文化」や功利主義へのデトックスにもなりそうな、

「ケアラーの哲学」は「生きることの哲学」にも、通じていくのかもしれない。


あー、でも、そこは、もちろん、
心の持ち方一つで過酷な介護生活が乗り来られる、なんて
お気楽なことを著者は説いているわけでは、ない。

男性介護者だけじゃなく、配偶者のケアラーだけでもなく、
様々な立場で様々な“子豚”を頑張っている介護しているケアラーが
自分を大切にしながら、燃え尽きないための、

日本ではまだまだ届けられることの少ない、大切なメッセージ――。

「“身勝手な豚”の介護ガイド」は、そんな本でした。
2011.07.24 / Top↑
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