(前のエントリーからの続きです)
② 一般の脳死判定は家族に知らせずに行われることもあり、
家族に内緒で臓器をとって移植に使った事例が実際にある、こと。
日本移植学会元理事長が自ら
30年代に家族に無断で眼球をとっていたことを認めている。
この「移植」という雑誌に1983年に掲載された文章は、
移植医療の関係者だけを対象に書かれて無防備なだけに、えげつないことこの上ない。
まさに「一般人とはかけ離れた移植医の『盗み』に対する感覚」(p.71)。
③ 臓器摘出時に筋弛緩剤や麻酔薬が使われることについて。
これについてはよく耳にすることだけど、
私は聞くたびに肌が粟立つような生理的な恐怖を覚える。
それは子どもの頃に見た
感覚も知能も正常なのに肉体が死んでしまった男が
生きたまま焼かれるまでの苦悩と苦痛を描いた楳図かずおの恐ろしい漫画を思い出すから ↓
楳図かずおの脳死?漫画(2008/4/3)
そして、Ashley事件や無益な治療論を追いかけながら
医療には「分かっていると証明できない」ことを平気で「わかっていない」と同じとする
ご都合主義で非科学的なところがあることを痛感してきたから ↓
「わかる」の証明不能は「わからない」ではない(2007/9/5)
その私の恐怖が、この本の 101ページから102ページにかけて裏付けられている。
万が一他人に分からないだけでドナーにされた人に多少でも意識があった場合には
「メスで体を切り裂かれる痛みを感じながらも表示できなかったために、
麻酔は不要とされ、筋弛緩剤だけの投与で済まされることになった、
そんな患者の存在も想定しなければなりません」
「麻酔薬を使用する理由は、短時間の心停止があっても、
その後に心臓マッサージなど蘇生処置と同じことを行うため、
痛みを感じる生体と同様と考えられること、場合によっては
蘇生して抵抗される可能性も否定できないからです」
ドナーは臓器を摘出されたら死ぬのだから、
万が一にも、そういう、あまりにもむごい断末魔のうちに死んでいったのだとしても
まさに「死人に口なし」。誰もそれを知ることはない。
だけど、それだけに、
万が一にも自分の家族が人生の最後の最後に、誰にも知られずに
そんな地獄のような苦しみを味わわなければならないとしたら……と、
私はどうしても考えてしまう。
④「臓器は社会資産」「脳が正常に機能しなくなったら死」発言。
これは09年7月の法改正議論の際の参考人質疑を
私自身、ビデオで見て衝撃を受けたので、くっきりと覚えている。
大阪大学大学院の高原史郎教授
「社会の資産としてのそういう臓器」
「いわゆる人格として、個人として成り立っているというのは、
やはり私は脳が正常に働いている状態だと思います」
福島豊前衆議院議員
「脳の状態が人の自己としての存在の一貫性を保てない状態になった場合は、
人の死とすべきである」
パーソン論は日本の移植医療の界隈にも着実に浸透している……。
ついでに非常に気になる情報として、
米国ヴァージニア州では「遷延性意識障害」を死と規定している、
メディケイドは「遷延性意識障害」となれば打ち切りとなる、とのこと。
そのほか、
・臓器移植医療にかかる費用は、1000万~2000万(詳細はp.116)
・腎臓移植に透析以上のQOL向上や延命効果があるとのエビデンスは今だに示されていない。
・ドナーカードがあり、脳死下で臓器提供をした直後に家族に聞くと
本人の意思を尊重したことへの満足感を口にすることが多いが、
その後、時間が経つにつれて、その時の決断への疑いや自責が出てくるのでは、と。
最後に、
この本を作った人たちが恐らくは痛切な皮肉を込めただろうと思われる、
東大大学院医学系研究所の会田薫子氏の2005年の文章からの
まことに天晴な引用を以下に――。
② 一般の脳死判定は家族に知らせずに行われることもあり、
家族に内緒で臓器をとって移植に使った事例が実際にある、こと。
日本移植学会元理事長が自ら
30年代に家族に無断で眼球をとっていたことを認めている。
この「移植」という雑誌に1983年に掲載された文章は、
移植医療の関係者だけを対象に書かれて無防備なだけに、えげつないことこの上ない。
今から約一〇ねんくらい前、私の長男が足利日赤病院の眼科の胃腸をしていたときに、千葉大学の雨宮氏のグループが腎臓を取りにやってきた。旅館に泊まって患者さんが死ぬのを待っていて、死亡すると、息子の話によると、禿鷹のように全部もっていってしまったということを聞いて、なかなかやっているなと感心した。移植をやる人は非常に勇気と熱情をもってやらなければならない。非常に結構なことだと思った。腎臓は焼いてしまえば跡は残らないが、昭和三三年に角膜移植の法律ができた前の時代には、私たちが眼球を取ると、その後に義眼を入れた。義眼を入れて焼くと、義眼が残ってしまい、これには非常に困った。……(中略)……
われわれ五人の教授が死体損壊罪の下を潜りながら以上のようなことをやっているうちに、盛岡で今泉教授がついに摘発され、送検されてしまった。
(P.71-72に「移植」から抜粋)
まさに「一般人とはかけ離れた移植医の『盗み』に対する感覚」(p.71)。
③ 臓器摘出時に筋弛緩剤や麻酔薬が使われることについて。
これについてはよく耳にすることだけど、
私は聞くたびに肌が粟立つような生理的な恐怖を覚える。
それは子どもの頃に見た
感覚も知能も正常なのに肉体が死んでしまった男が
生きたまま焼かれるまでの苦悩と苦痛を描いた楳図かずおの恐ろしい漫画を思い出すから ↓
楳図かずおの脳死?漫画(2008/4/3)
そして、Ashley事件や無益な治療論を追いかけながら
医療には「分かっていると証明できない」ことを平気で「わかっていない」と同じとする
ご都合主義で非科学的なところがあることを痛感してきたから ↓
「わかる」の証明不能は「わからない」ではない(2007/9/5)
その私の恐怖が、この本の 101ページから102ページにかけて裏付けられている。
万が一他人に分からないだけでドナーにされた人に多少でも意識があった場合には
「メスで体を切り裂かれる痛みを感じながらも表示できなかったために、
麻酔は不要とされ、筋弛緩剤だけの投与で済まされることになった、
そんな患者の存在も想定しなければなりません」
「麻酔薬を使用する理由は、短時間の心停止があっても、
その後に心臓マッサージなど蘇生処置と同じことを行うため、
痛みを感じる生体と同様と考えられること、場合によっては
蘇生して抵抗される可能性も否定できないからです」
ドナーは臓器を摘出されたら死ぬのだから、
万が一にも、そういう、あまりにもむごい断末魔のうちに死んでいったのだとしても
まさに「死人に口なし」。誰もそれを知ることはない。
だけど、それだけに、
万が一にも自分の家族が人生の最後の最後に、誰にも知られずに
そんな地獄のような苦しみを味わわなければならないとしたら……と、
私はどうしても考えてしまう。
④「臓器は社会資産」「脳が正常に機能しなくなったら死」発言。
これは09年7月の法改正議論の際の参考人質疑を
私自身、ビデオで見て衝撃を受けたので、くっきりと覚えている。
大阪大学大学院の高原史郎教授
「社会の資産としてのそういう臓器」
「いわゆる人格として、個人として成り立っているというのは、
やはり私は脳が正常に働いている状態だと思います」
福島豊前衆議院議員
「脳の状態が人の自己としての存在の一貫性を保てない状態になった場合は、
人の死とすべきである」
パーソン論は日本の移植医療の界隈にも着実に浸透している……。
ついでに非常に気になる情報として、
米国ヴァージニア州では「遷延性意識障害」を死と規定している、
メディケイドは「遷延性意識障害」となれば打ち切りとなる、とのこと。
そのほか、
・臓器移植医療にかかる費用は、1000万~2000万(詳細はp.116)
・腎臓移植に透析以上のQOL向上や延命効果があるとのエビデンスは今だに示されていない。
・ドナーカードがあり、脳死下で臓器提供をした直後に家族に聞くと
本人の意思を尊重したことへの満足感を口にすることが多いが、
その後、時間が経つにつれて、その時の決断への疑いや自責が出てくるのでは、と。
最後に、
この本を作った人たちが恐らくは痛切な皮肉を込めただろうと思われる、
東大大学院医学系研究所の会田薫子氏の2005年の文章からの
まことに天晴な引用を以下に――。
……『無駄に死にたくない、誰かのためになりたい』という“善意”の一般市民がいる。しかし、彼らの善意が無知に基づいているとしたら、どうなのだろうか……一般市民が脳死について本当のことを知れば、ドナーが減りすっかり定着した臓器移植システムが揺らぐ、と心配する医療関係者がいるという。しかし、こうした懸念は本末転倒であるといわなければならない。
(p.173)
2011.11.03 / Top↑
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