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「弱者の居場所がない社会 ― 貧困・格差と社会的包摂」
阿部彩 講談社現代新書

プロローグでも述べたように、近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広くとらえ深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。
従来の貧困の概念は、ただ単に金銭的・物品的な資源(その人が持っているもの)が不足している状況を示したものであった。たとえば、所得が低い、所有物が少ない、大多数の人が楽しむ休暇やレクリエーションが金銭的な理由で楽しむことができない……などの状況を表したものであった。
これに対して「社会的排除」という概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(たとえば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての価値存在を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会の「関係」に着目した概念なのである。
(p.93)

日本の生活保護を始めとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で「就労支援」ばかりが強調されると、「働かざるもの、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。
繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまでも包摂の手段としての就労の支援なのである。
(p.111)


ここの最後の数行は、
少なくとも最近の報道からする限りは、
連立政権になってからの英国には当てはまらないような印象がある。

日本と同じような自己責任論による、
公的給付を代替えするための就労達成への努力を義務付けて、
それが達成されなければ一定期限で給付を切る方向に向かっているような?

従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。
社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。
(中略)
従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。
(中略)
そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的は維持御に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。
たとえば、なぜ、担任世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。……(中略)…
社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。
(p.124-126:ゴチックの個所、原文は傍点)


イギリス、ノッティンガム大学医学部の社会疫学者
リチャード・ウィルキンソン教授による「格差極悪論」を説明して、

格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
(p.127:ここのゴチックはspitzibara)


現在の日本の社会保険制度、
特に人々を労働市場に戻すことだけを目的とした就労支援など、

これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のようにふるまわなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。
社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。
(p.190)


しょーもないエピソードだけど、
何年も前に、ある場所にユニバーサル・デザインの公園を作る話があって、
その企画に関わっている人たちに障害のある子どもの親としての意見を、と言われて
夫婦で出掛けたことがあった。

そこには行政の人の他に、いわばコンサルのような立場の若い人がいて、
その人が、トイレもユニバーサルなものにして、
障害者も高齢者も男性も女性も子どもも
誰でも使えるようにするのだと力説した時に、

「だから安心して子どもも使えるように
女性の生理用品のゴミ箱は設置しません」
と宣言したのに度肝を抜かれた。

「じゃぁ、女性は使用済みの生理用品をどうするんですか?」
と、思わず、例によって真っすぐな口調で聞いてしまったのだけど、

むしろ相手にムッとされてしまい、
さも「だから無知なおばさんはダメなんだよ」とでもいったイライラ口調で、

「それは女性にはちゃんと自己責任で持ち帰ってもらわないと。
誰もが使える、すなわち子どもが使っても不快にならないトイレなんですから」。

「ユニバーサル・デザイン」もこうして排除の論理に繋がっていくなら
いったい何のためのユニバーサル・デザインなのよっ?

世の中には、たぶん、この手の話がウジャウジャしている。
そして、そういう話の根っこにある意識こそが「社会的排除」。

ちがう――?
2012.02.03 / Top↑
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