2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
サビュレスキュがオックスフォード大学のサイトで仲間とやっている「実践倫理」というブログで
TDCS(transcranial direct current stimulation 経頭蓋的磁気刺激法 )について書いている。

TDCSについては
金井さんというニューロサイエンス研究者の方のブログに日本語で詳しい ↓
http://kanair.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/transcranial_di.html

脳に電極をつけて電流を流して刺激するという、割と単純な方法みたいで
DBSみたいに侵襲的なものではない模様。

もっとも研究はまだ初歩的な段階で
分からないことだらけのようだけど、

Savulescuによると、この方法によって
言語、数学、記憶、問題解決、集中、運動の能力までが
向上すると言われているんだそうな。

もちろんトンデモ・ヒューマニストのSavuちゃんだから
この技術を損傷された能力の回復のために使うことの方にはあんまり興味はなくて、
それよりも「健康な人間」のメンタルを強化し、学習能力の向上に使える、
「根本的に人間の認知機能をエンハンスする第一歩」と言って
たいそうワクワクしている様子。

ただ一応は倫理学者として、
いかなるテクノロジーにも利益がある反面、思わぬ副作用だってないとは限らないのだから
そこのところは慎重にまだまだ研究を待ってから、とも述べるし、

「薬の開発でやったよりマシな目標設定をしなければ」
「過去40年間の過ちから学ばなければ」とも述べる。

(ここで具体的には何が「過ち」だったのか書いていませんが、
向精神薬を「頭が良くなるスマート・ドラッグ」として煽ったことで
攻撃性や自殺念慮などの副作用で多くの犠牲者を出したことを言っているのでしょうか?)


さらに乱用・濫用の危険性もあるので、
具体的に特定のグループを対象としたさらなる研究によって
リスク・ベネフィットを検証する必要があると繰り返しつつ、

後半で主に彼が書いているのは2点。

① エンハンスメントには「公平じゃない」「平等じゃない」という批判が
いつもでてくるが、この技術にはその批判は当てはまらない。

なぜなら、これは努力もしないで学べるという話ではなく、
努力に対する成果がより大きくなる、という話なのだし、
もしも安全で効果があるとなれば、誰でも使えるし、
また誰でもが使えるようにすべきである。

② リスクもベネフィットも幼い子どもでは影響が大きすぎるため
幼児にはこの実験は行うべきではない、という声があるが、
自分としては不同意。

障害児と健常児とでは効果が異なってくるのだから、
障害児と成人とだけの実験では正常な子どもへのリスクも効果も知ることができない。

よって、正常な子どもでの実験は不可欠である。
少なくとも正常範囲で最も学習能力が低い子どもで実験する必要がある。

(障害児に対置して「ノーマルな子ども」という表現が用いられていることに注目。冒頭「健康な人」も)

自分の意見としては、
まずこのような最も能力の低い子どもで実験を始めて、
それで安全性が確認できれば、その上のレベルの子どもへと
実験対象を広げていくのが良いと思う。

こんなことを言うと、
能力の低い子どもを実験動物扱いするのかという批判が出てくるだろうし、
その気持ちは分からないでもないが、
この技術の恩恵を受け、技術を利用する者が
研究に参加すべきだということではないだろうか。

この技術を一般的な教育エイドとみなすならば、
ある意味では、どんな子どももみんなが研究に貢献すべきである。


・・・・・・・・

例えば、
「重症障害児に対する”アシュリー療法”は倫理的に正当化できるか」という問題が
「重症児以外にはやらないのだから倫理的に問題はない」と正当化されてしまうことに見られたように、

「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」御用達の生命倫理学者さんたちは
チャレンジされている論点そのものを前提にとりこむことでその論点をないものにするという
結論先取りの卑怯なマジック論法を操っているのではないのか、という疑問を
私はいつも感じるのだけれど、

ここでも、TDCSという技術のエンハンスメント利用を巡って
Savulescuは同じことをしていると思う。

まず、彼が生命倫理学者として指摘している論点は以下。

・技術そのもののリスク・ベネフィット。(この検討には、さらなる研究が必要)
・乱用・濫用を防ぎつつ良い研究は推進する規制の必要。
・この技術には不公平だとのエンハンスメント批判は当たらない。
・正常な子どもへのこの技術の応用の安全性や効果を知るには
 障害児と成人だけでなく正常な子どもでの実験が不可欠。
・だから最も学習能力の低い子どもから順次、実験していくのが良い。

しかし、これらすべての前提として、まず問われるべき
「TDCS技術のエンハンスメント利用は倫理的にどうか」という問いはどこに?

まるで、
「エンハンスメントに対する『不公平だ』という批判がこの技術には当たらない」ことをもって
「だから、この技術のエンハンスメント利用は正当化された」といわんばかりで、

それがまた
「成長抑制には子宮摘出や乳房摘出ほどの批判は出なかった」ことをもって
「だから成長抑制は倫理的に許容された」ことにして「だから実施原則を」と先走った
DiekemaとFostの論文に、そっくり。

それと同じことが②の点についても言えて、
Savulescuの論理には2つの問題があると思う。

まず、
「幼児をこの技術の実験対象にすることはリスクの大きさから考えて倫理的にどうか」に対して、
Savulescuは「正常な幼児を実験対象にすることはこの技術のエンハンスメント応用のために必要」。

彼の論理には
「実験の必要」が「幼児へのリスクの大きさ」を正当化するとの前提が織り込まれているけれど、
まさにそれが「実験の必要はリスクの大きさを幼児では正当化しないのでは」と
問われていたのだから、Savulescuはその問いに実際には全く答えておらず、
上で指摘した通りの「結論の先取り」を行っている。

更に、先の問いは障害の有無によって「幼児」を分けているわけではないのだけれど、
Savulescuの中には「この技術のエンハンスメント応用は当たり前」と同時に
「障害児は実験対象にしてもよい」との意識が余りにも根深いために
「幼児を実験対象にすることの是非」が彼の中では自動的に
「正常な子どもを実験対象にすることの是非」に置き換えられてしまっている。

どうも、(一部の)生命倫理学者さんたちの言うことは、いかがわしい。

Transcranial Direct Current Stimulation: Fundamental enhancement for humanity?
Julian Savulescu, PRACTICAL ETHICS, January 26, 2012


で、思うに、その
「研究の必要」が「倫理問題をスル―することを正当化する」という論理って、
どうも医学を含めた科学の世界独特の“常識”みたいなところがあるんじゃないか、と……。

生命倫理ってな、本来は、その狭い専門世界の“常識”を
その外の広い世界の常識でもって問い直すことが、
その使命だったはずなんでは、と思うのだけど、

いつのまにか、その狭い専門世界の“常識”の方を
むしろ外の世界に向かって正当化し、受け入れさせ、布教していく役割を
生命倫理学者さんたち(の一部? 大半?)は担ってしまっているのでは?
2012.02.03 / Top↑
Secret

TrackBackURL
→http://spitzibara.blog.2nt.com/tb.php/2830-c390fde7