昨日、今日と、また
ツイッターで「介護者の立場」で沢山つぶやいてしまったので、
以下に取りまとめ。
―――――――
「ケアの社会学」を読んでから、介護される者の権利と介護する者の権利には序列があるのか、そも「権利」が「優先順位」になじむのか、ということを考えて いる。それを考えていると、両者の権利がどこか被害者と加害者の権利みたいな2項対立の中に置かれてしまっているような気がしてくるのだけど
それぞれの権利やニーズを満たす責任を求める相手を、その2者関係の中に求めてしまう無意識が、そうした対立があるような錯覚を起こさせるのでは? 介護される者の権利やニーズを満たす責任は介護する者にのみ求めるべきではないし、
介護する者の権利やニーズを満たす責任も、その2者関係の外に求められるべきだという整理ができれば?
(ここへfiregardenさんから
「キテイさんの話はそういう整理ですよね」とのお返事をいただく。
この後、やり取りの中から介護者関連のspitzibara分のみ)
あー、結びついてなかったですが、そういえば・・・。と気づいて、ふっと思うんですけど、キテイさんが言っている「その人がおかあさんだから、おかあさんにも支援が必要」「みんなおかあさんの子だったんだから」の前に、「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?みたいな。
私のキテイさんの読み方が不十分だからかもしれないんですけど。70になっても80になっても我が子を家で介護し続けている親は「健康で文化的な生活」を送る権利を奪われている、というシンプルな事実は、どうして語られることがないのだろう、と。
おかあさんだから「おかあさん(介護者)の人権」の問題になってしまうけど、「おかあさんの人権」の問題はもともと「人の人権」の問題と何が違うのか、違わないはずじゃないのか、と。うぅ・・・まだ、うまく言えない。もうちょっと考えます。
介護者のニーズは二次的なものだというのが一度確認されてしまうと、生身の介護者の状態はうつろい変化するものだという当たり前の事実が見過ごされてしま いそうな気がする。自身が病や不自由を抱えても、それが「介護者の病」「不自由な介護者」の範疇に留まれば「2次的ニーズ」と扱われる、ような。
職場のストレスからうつ病になった人だと医師が診断書を書いて休職もあるけど、介護ストレスからうつ病になった介護者の、うつ病患者としてのニーズがとり あえず介護負担から離れて休むことにあるとしても、誰も「他に変わる人がいないから仕方がない」と考えて、それを疑わない。
そういう状態で自分でも「もうダメ」とはどうしても口にできず、そのホンネを周囲も察してあげることができないまま精神科受診だけでずるずる頑張っているうちに、自殺(未遂)にまでいってしまう人は実際にいる。子どもの殺害に至るプロセスにも、そういうことがあるんでは?
介護者の側から言えば、そして実際これは言いにくいことではあるけれど、「とにかくもう離して」と言うしかない心身の状況というのはある。介護される側へ の思いはあっても、それどころじゃなくなるほどに介護者の心身が擦り切れてしまう前に、程よく「小さなギブアップができる」支援があったら。
福岡で発達障害のある男の子が繊維筋痛症を患うお母さんに殺された事件の時に考えたことが「上手に小さなギブアップができる支援」だった。
上手に「小さなギブアップ」ができる支援(2008/10/1)
上手に「小さなギブアップ」ができる支援 2(2008/10/1)
それから、「小さなギブアップ」ではどうにもならない状況というものも現実問題としてある。親の老齢もその1。70になっても80になっても「小さなギブアップ」で頑張れというのは、80になっても90になっても「介護予防」励め、に近い。ならロボットスーツで?
【「ケアの社会学」関連エントリー】
上野千鶴子「ケアの社会学」を読む 1(2011/12/27)
上野千鶴子「ケアの社会学」を読む 2(2011/12/27)
【エヴァ・キテイ関連エントリー】
哲学者エヴァ・キティ氏、11月に来日(2010/10/12)
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
ACからEva Kittayそして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
【キティ氏のAshley事件に関する発言エントリー】
Eva KittayとMichael Berube:障害のある子どもを持つ学者からのSigner批判(2010/10/13)
Eva Kittayの成長抑制論文(2010/11/7)
Eva Kittayさんに成長抑制WGのことを聞いた!(2010/11/12)
「成長抑制でパンドラの箱あいた」とEva Kittay氏(2010/11/28)
ツイッターで「介護者の立場」で沢山つぶやいてしまったので、
以下に取りまとめ。
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「ケアの社会学」を読んでから、介護される者の権利と介護する者の権利には序列があるのか、そも「権利」が「優先順位」になじむのか、ということを考えて いる。それを考えていると、両者の権利がどこか被害者と加害者の権利みたいな2項対立の中に置かれてしまっているような気がしてくるのだけど
それぞれの権利やニーズを満たす責任を求める相手を、その2者関係の中に求めてしまう無意識が、そうした対立があるような錯覚を起こさせるのでは? 介護される者の権利やニーズを満たす責任は介護する者にのみ求めるべきではないし、
介護する者の権利やニーズを満たす責任も、その2者関係の外に求められるべきだという整理ができれば?
(ここへfiregardenさんから
「キテイさんの話はそういう整理ですよね」とのお返事をいただく。
この後、やり取りの中から介護者関連のspitzibara分のみ)
あー、結びついてなかったですが、そういえば・・・。と気づいて、ふっと思うんですけど、キテイさんが言っている「その人がおかあさんだから、おかあさんにも支援が必要」「みんなおかあさんの子だったんだから」の前に、「おかあさんは一人の人間」じゃダメなの?みたいな。
私のキテイさんの読み方が不十分だからかもしれないんですけど。70になっても80になっても我が子を家で介護し続けている親は「健康で文化的な生活」を送る権利を奪われている、というシンプルな事実は、どうして語られることがないのだろう、と。
おかあさんだから「おかあさん(介護者)の人権」の問題になってしまうけど、「おかあさんの人権」の問題はもともと「人の人権」の問題と何が違うのか、違わないはずじゃないのか、と。うぅ・・・まだ、うまく言えない。もうちょっと考えます。
介護者のニーズは二次的なものだというのが一度確認されてしまうと、生身の介護者の状態はうつろい変化するものだという当たり前の事実が見過ごされてしま いそうな気がする。自身が病や不自由を抱えても、それが「介護者の病」「不自由な介護者」の範疇に留まれば「2次的ニーズ」と扱われる、ような。
職場のストレスからうつ病になった人だと医師が診断書を書いて休職もあるけど、介護ストレスからうつ病になった介護者の、うつ病患者としてのニーズがとり あえず介護負担から離れて休むことにあるとしても、誰も「他に変わる人がいないから仕方がない」と考えて、それを疑わない。
そういう状態で自分でも「もうダメ」とはどうしても口にできず、そのホンネを周囲も察してあげることができないまま精神科受診だけでずるずる頑張っているうちに、自殺(未遂)にまでいってしまう人は実際にいる。子どもの殺害に至るプロセスにも、そういうことがあるんでは?
介護者の側から言えば、そして実際これは言いにくいことではあるけれど、「とにかくもう離して」と言うしかない心身の状況というのはある。介護される側へ の思いはあっても、それどころじゃなくなるほどに介護者の心身が擦り切れてしまう前に、程よく「小さなギブアップができる」支援があったら。
福岡で発達障害のある男の子が繊維筋痛症を患うお母さんに殺された事件の時に考えたことが「上手に小さなギブアップができる支援」だった。
上手に「小さなギブアップ」ができる支援(2008/10/1)
上手に「小さなギブアップ」ができる支援 2(2008/10/1)
それから、「小さなギブアップ」ではどうにもならない状況というものも現実問題としてある。親の老齢もその1。70になっても80になっても「小さなギブアップ」で頑張れというのは、80になっても90になっても「介護予防」励め、に近い。ならロボットスーツで?
【「ケアの社会学」関連エントリー】
上野千鶴子「ケアの社会学」を読む 1(2011/12/27)
上野千鶴子「ケアの社会学」を読む 2(2011/12/27)
【エヴァ・キテイ関連エントリー】
哲学者エヴァ・キティ氏、11月に来日(2010/10/12)
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
ACからEva Kittayそして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
【キティ氏のAshley事件に関する発言エントリー】
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Eva Kittayの成長抑制論文(2010/11/7)
Eva Kittayさんに成長抑制WGのことを聞いた!(2010/11/12)
「成長抑制でパンドラの箱あいた」とEva Kittay氏(2010/11/28)
2012.02.07 / Top↑
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