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以下のエントリーで紹介した論文の著者らに、
脅迫状が送られるなどの騒ぎになっているらしく、

中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)


掲載誌の編集長であるSavulescuを始め、あちこちから
「一般人には理解しがたいかもしれないが、知的な議論をしているだけ」的な
発言が目につくことから、グルグルしてみた一連のツイート。


3月1日

Savulsecuが「”出生後中絶”論文はトゥリーやハリスの新生児殺しの主張と同じで、ただ家族利益でもOKとしたところが新しいだけ」と書いたことに、ハリスが「自分はあくまでも知的議論を展開したまでで政策として提言したことはない」。セコい。http://blogs.bmj.com/medical-ethics/2012/02/29/john-harris-clarifies-his-position-on-infanticide/

自分は頭がいいのだとゴーマンかいた胡坐の上で、論理のパズルに興じておいて、でも医療倫理も生命倫理も現場の医療とはまったく無世界だからね、とでも? そういや認知症患者には延命治療するなと説いておいて、「自分の母親となると別」だった人もいましたっけね。

じゃぁ、ハリスは去年「臓器売買を認めろと説いた」のも、あれは知的な議論に過ぎなくて、政策提言をしたわけじゃないのかな。⇒Harris「臓器不足排除が最優先」の売買容認論は「私を離さないで」の世界にあと一歩」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63037403.html

As Editor of the journal・・・Savulescuが編集委員長ってこと? この前のAJOBの利益相反スキャンダルを思い出した。⇒「AJOB巡るスキャンダルには幹細胞治療や日本の医療ツーリズムも“金魚のウンコ” 」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64752863.html

Savulescuの「中絶反対狂信者らが・・・」文章を読んでいると、功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうな気がして、それが一番イヤだ。

この両者とも、強権的な操作、コントロール指向はそっくり。、本当は片方がメディカル・コントロール、もう一方が政治と司法による支配と差別の強化と、方法論が違うだけで、方向性は合致している気がしてならない。

この前ホロコーストがトラウマになってきたドイツで最近はイスラム教徒への差別意識が高まっているという話を読んでhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64787822.html気になったけど、Savulescuが引用している「出生後中絶論文」批判にもちらっとその気配が滲んでいる。


3月2日

Savulescu が great と言ってツイートしている例の論文を巡る言論の自由擁護論。http://blog.indexoncensorship.org/2012/03/01/abortion-bmj-free-expression-infanticide-medical-ethics/ 

(↑ここだったと思うけど、ざっとあちこちに目を通した際に、「議論の一貫性consistencyを問題にしているのであり」が目についた。つまり「中絶が是」なら「新生児殺し」も是でないと論理一貫性がない、とか、学問的にはそういう問題なんだ、と説いた個所が目についたことから ↓)

consistency とは言われますけど、一定の人については「殺す」ことばかりが議論され、一定の人については「命を救う」ことばかり、または「欲望を満たしてあげること」ばかりが問題となるという意味では、これら議論を取り囲む大きな不均衡もあるわけで……。

”出生後中絶”論文に関してSavulescuおすすめの論考。https://theconversation.edu.au/theres-no-good-argument-for-infanticide-5672 お? クイーンズランドの方なのね……。

これも同じく。すぐ読めないので、とりあえずのメモとして。 http://blog.practicalethics.ox.ac.uk/2012/03/concern-for-our-vulnerable-prenatal-and-neonatal-children-a-brief-reply-to-giubilini-and-minerva/

consistencyということで言えば、まだコスト論が露骨になる前に(ex.07年ゴンザレス事件)、”無益な治療”停止の正当化だった「人工呼吸 が患者に無益な苦痛を強いている」が、今は臓器確保のための人工呼吸が「十分な鎮静と沈痛がされれば患者の損失はない」と裏返ることの不思議。

consistencyということで言えば、ゴンザレス事件の頃には「コストではない。あくまでも患者の最善の利益」と正当化された治療停止が、事件が続 き議論が繰り返されるにつれて、そこにじわじわとコスト論が紛れ込まされて、いつからか「社会のコストを考えるべき」無益な治療論へと化ける怪。

グラデーションまがいの変質を起こせば、変質そのものがバレないいだろうとでもいうがごとくに。じわじわと変質するのだって議論に一貫性がないという点では立派なinconsistencyのはずなんだけど。あ、これもAshley事件の正当化論の変質マジックと同じ。
2012.03.14 / Top↑
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