ここ数年、脳死や植物状態からの回復事例が相次いだり、
実は最少意識状態だったと植物状態の誤診ケースが次々に明らかになっています。
そうした事件それぞれの詳細は、以下のエントリーにリンク一覧があります。
Hassan Rasouliさん、「植物状態」から「最少意識状態」へ診断変わる(2012/4/26)
こうなってくると、
いずれ必ず、標題のようなことを言う人が出てくるだろうと思っていたし、
それは恐らくは、この辺りの誰かだろうとは予想していましたが、
やっぱり予想通りの人たちから予想通りの内容の発言――。
Journal of Medical Ethicsで
Dominic WilkinsonとJulian Savulescuが
「最少意識状態は植物状態よりもベターなのか」というタイトルのコメンタリーを書き、
昨年の英国女性Mの事件(エントリー後半にリンク)を取りあげて論じた後に、
NO と結論しているらしい。
BioEdgeによれば、その根拠は2点で、
① 意識があるだけ本人には苦痛である可能性があるし、
どうせ意味のあるコミュニケーションはとれない。
② 公平な資源の分配の観点から、
最少意識状態のまま生かしておくことには
カネがかかり過ぎる。
「仮に最少意識状態で生かされることに何がしかの利益があるとしても
(我々は利益が負担を上回ることには懐疑的だが)
限りある医療資源を他に回すことと比べれば、
その利益の影響は小さい」
Is it better to be minimally conscious than vegetative?
BioEdge, September 7, 2012
ここで2人が言っていることは、
08年のカナダのGolubchuk事件と
10年の同じくカナダのMaraachli事件で、
Peter Singerが言っていたことにそっくり ↓
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
ちなみに、昨年の英国での匿名女性Mの関連エントリーは以下。
(仮名がこちらの記事ではMargoとなっていますが同じ事件と思われます)
「生きるに値しないから死なせて」家族の訴えを、介護士らの証言で裁判所が却下(2011/10/4)
この訴訟については、戸田聡一郎氏が「現代思想」6月号「尊厳死」特集の
「意識障害における尊厳死で何が問われるか」という論文で取り上げておられます。
私も「介護保険情報」1月号の連載で書きましたが、
私がこの事件で特に注目したいのは、
当該患者さんの意識状態を正確に知っていたのは家族でも医師でもなく、
日々の介護に当たっていた直接処遇職員だった、ということ。
これは「アシュリー事件 メディカル・コントロールと新優生思想の時代」でも書いたし、
当ブログでもあちこちのエントリーで書いていますが、
その人に「意識」があるかどうか、その人が何をどのような分かり方で分かり、
どのような表現方法で感情や意思を表現することができているか、ということは
その人と日々の生活を共有している者にしか分からない。
(「どうせ何も分からない」と思っている人には共に暮らしていても
「その人は分かっている」ということが分からない)
この1点を主張することが当ブログの最も大きな目的の一つと言ってもいいくらいに、
私はずっとこのことを書き続けてきたような気がします。
理屈でそれを書いたエントリーも「ステレオタイプという壁」の書庫に沢山ありますが、
娘を含め重症重複障害のある人たちがどんなふうに「その人なりの分かり方」で
多くのことを知り、分かり、感じ、表現し、訴えながら、生きてそこに在るか、
その姿を少しでも描くことで、それを伝えたいと願って書いているのが
「A事件・重症障害児を語る方へ」という書庫のエントリーたちです。
ぜひ、一度のぞいてみてください。
アシュリー事件でも
「どうせアシュリーは赤ちゃんと同じで
自分が尊厳を侵されているかどうかすら分からないのだから、
本人に利益があるなら医学的には無用の侵襲を加えてもよい」という
論理が成り立っていたことや、
シャイボ事件を始め、私たちにはただの重症障害者だとしか思えない人たちが
これまでも植物状態だと言われて死なされてきたことを思い、
尊厳死や死の自己決定権議論が
ターミナルな人と、ターミナルでも何でもない重症障害者とを
ぐずぐずに混同したまま進められていく各国の議論のあり方を思い、
また「こういう状態の人をそのまま生かし続ける費用を考えると、
その費用を他に使うことの利益の方がよほど大きい」というモノの言い方が、
本人の最善の利益論をも否定しつつ、医療拒否の論拠として出てきつつあることを思えば、
脳死状態の人から植物状態の人へ、
ここで植物状態の人から最少意識状態の人へ、と移動させられていく「線引き」は、
その内にはさらに最少意識状態の人から重症障害児・者へと移動していくことは
間違いないのでは?
そして、敢えて追記しておくならば、
Wilkinson と Savulescuは、ここ数年の発言から推測すれば、臓器不足の解消策として
安楽死希望者と無益な治療論で切り捨てられる重症障害者の”有効利用”を狙っている ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」とSavulescuの相方が(2011/3/2)
脳死者減少が必至なら倫理の線引き変更も必至?「人為的脳死後臓器提供安楽死」も?(2012/2/14)
「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilskinson 1(2012/2/22)
「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilskinson 2(2012/2/22)
実は最少意識状態だったと植物状態の誤診ケースが次々に明らかになっています。
そうした事件それぞれの詳細は、以下のエントリーにリンク一覧があります。
Hassan Rasouliさん、「植物状態」から「最少意識状態」へ診断変わる(2012/4/26)
こうなってくると、
いずれ必ず、標題のようなことを言う人が出てくるだろうと思っていたし、
それは恐らくは、この辺りの誰かだろうとは予想していましたが、
やっぱり予想通りの人たちから予想通りの内容の発言――。
Journal of Medical Ethicsで
Dominic WilkinsonとJulian Savulescuが
「最少意識状態は植物状態よりもベターなのか」というタイトルのコメンタリーを書き、
昨年の英国女性Mの事件(エントリー後半にリンク)を取りあげて論じた後に、
NO と結論しているらしい。
BioEdgeによれば、その根拠は2点で、
① 意識があるだけ本人には苦痛である可能性があるし、
どうせ意味のあるコミュニケーションはとれない。
② 公平な資源の分配の観点から、
最少意識状態のまま生かしておくことには
カネがかかり過ぎる。
「仮に最少意識状態で生かされることに何がしかの利益があるとしても
(我々は利益が負担を上回ることには懐疑的だが)
限りある医療資源を他に回すことと比べれば、
その利益の影響は小さい」
Is it better to be minimally conscious than vegetative?
BioEdge, September 7, 2012
ここで2人が言っていることは、
08年のカナダのGolubchuk事件と
10年の同じくカナダのMaraachli事件で、
Peter Singerが言っていたことにそっくり ↓
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
ちなみに、昨年の英国での匿名女性Mの関連エントリーは以下。
(仮名がこちらの記事ではMargoとなっていますが同じ事件と思われます)
「生きるに値しないから死なせて」家族の訴えを、介護士らの証言で裁判所が却下(2011/10/4)
この訴訟については、戸田聡一郎氏が「現代思想」6月号「尊厳死」特集の
「意識障害における尊厳死で何が問われるか」という論文で取り上げておられます。
私も「介護保険情報」1月号の連載で書きましたが、
私がこの事件で特に注目したいのは、
当該患者さんの意識状態を正確に知っていたのは家族でも医師でもなく、
日々の介護に当たっていた直接処遇職員だった、ということ。
これは「アシュリー事件 メディカル・コントロールと新優生思想の時代」でも書いたし、
当ブログでもあちこちのエントリーで書いていますが、
その人に「意識」があるかどうか、その人が何をどのような分かり方で分かり、
どのような表現方法で感情や意思を表現することができているか、ということは
その人と日々の生活を共有している者にしか分からない。
(「どうせ何も分からない」と思っている人には共に暮らしていても
「その人は分かっている」ということが分からない)
この1点を主張することが当ブログの最も大きな目的の一つと言ってもいいくらいに、
私はずっとこのことを書き続けてきたような気がします。
理屈でそれを書いたエントリーも「ステレオタイプという壁」の書庫に沢山ありますが、
娘を含め重症重複障害のある人たちがどんなふうに「その人なりの分かり方」で
多くのことを知り、分かり、感じ、表現し、訴えながら、生きてそこに在るか、
その姿を少しでも描くことで、それを伝えたいと願って書いているのが
「A事件・重症障害児を語る方へ」という書庫のエントリーたちです。
ぜひ、一度のぞいてみてください。
アシュリー事件でも
「どうせアシュリーは赤ちゃんと同じで
自分が尊厳を侵されているかどうかすら分からないのだから、
本人に利益があるなら医学的には無用の侵襲を加えてもよい」という
論理が成り立っていたことや、
シャイボ事件を始め、私たちにはただの重症障害者だとしか思えない人たちが
これまでも植物状態だと言われて死なされてきたことを思い、
尊厳死や死の自己決定権議論が
ターミナルな人と、ターミナルでも何でもない重症障害者とを
ぐずぐずに混同したまま進められていく各国の議論のあり方を思い、
また「こういう状態の人をそのまま生かし続ける費用を考えると、
その費用を他に使うことの利益の方がよほど大きい」というモノの言い方が、
本人の最善の利益論をも否定しつつ、医療拒否の論拠として出てきつつあることを思えば、
脳死状態の人から植物状態の人へ、
ここで植物状態の人から最少意識状態の人へ、と移動させられていく「線引き」は、
その内にはさらに最少意識状態の人から重症障害児・者へと移動していくことは
間違いないのでは?
そして、敢えて追記しておくならば、
Wilkinson と Savulescuは、ここ数年の発言から推測すれば、臓器不足の解消策として
安楽死希望者と無益な治療論で切り捨てられる重症障害者の”有効利用”を狙っている ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」とSavulescuの相方が(2011/3/2)
脳死者減少が必至なら倫理の線引き変更も必至?「人為的脳死後臓器提供安楽死」も?(2012/2/14)
「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilskinson 1(2012/2/22)
「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilskinson 2(2012/2/22)
2012.09.10 / Top↑
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