「ケアの倫理からはじめる正義論 支えあう平等」を読んで、
これまで、同じ重症障害のある娘をもつ親の立場で、
エヴァ・キテイの個人的な事情や思いについて知りたかったことが
いくらかはっきりしたので、整理してみる。
まず、キテイも私と同様に障害者運動について、
両義的な感情の間で引き裂かれているように見える。例えば、
……これまで、合衆国で障碍者コミュニティが獲得してきたことについて、わたしは本当に素晴らしいと思っています。……
……けれども、障碍者コミュニティで語られる多くのことは、自分たちの声で語ることのできる障碍者に合わせた語られ方をしてきました。たとえば、障碍者運動の有名な標語の一つに、「自分のことは、自分で語る!」があります。だけど、セーシャは、話せないのです。……セーシャは自分の声をもたないのです。
そうしたこともあり、わたしは、障碍者コミュニティのなかでは、こんなことを発言して、まるで批判的にふるまわざるを得ないのです。「あなた方は、障碍者一般について発言をしておられますが、私の娘のような障碍者もいることを、ぜひとも忘れないでください」と。……私は、障碍者の人々が時々、私は愛情に満ちているが、理解力のない親、つまり、過剰に防衛的だったり、受容力に欠ける、そうした親とみなしているように感じます。障碍者たちは、そうした親に対抗する形で、自分たちのアイデンティティを確立してきたのです。……わたしは、時間をかけてかれらの視点から物事を見ようと努力してきました。とくにかれらは、わたしの娘からは学べないことを教えてくれたからです。しかしながら、かれらもまた時には、理解力に欠けるような親の視点から物事を見ることを学ぶ必要があったのだと思います。というのも、そうした親であっても、自分自身のこと以上に、子どもの世話をしてきたのですから。
(p.94-95)
最後の数行については、障害者運動の側がどのように読むか、
ちょっと聞いてみたい気もするし、中には、そういう親の意識こそが
子どもへの抑圧に向かうのだと反発する人もいるのでは、という気がするけれど、
その辺りも含めて、
障害者運動が築いてきたものに感謝し、またそこから多くを学びつつも、
特に重症障害者の親の立場からは障害者運動に言いたいことが多くありもして、
悩ましく引き裂かれているところが、キテイと私はそっくりだなぁ……と思う。
ところで、
セーシャが生まれたのは著者が「大学院に行く前」のことで、1960年代。
大学院で何を専攻するかに迷っていた著者は、
セーシャが障碍を抱えていることがわかり始めると、科学の入門的な科目は、セーシャの状況についての苦悩から自分を解放するほど、刺激的ではないように思い始めました。わたしは、セーシャの問題を頭から取り除いてくれるような、なにか強烈なものが必要だったのです。……哲学とは、セーシャについて語らなくてもいい方法、セーシャの抱える困難を考えないでよい道の一つだったのです。
(p.102-103)
この段階でまだ住み込みの介護者ペギーはいないと思うのだけれど、
キテイはセーシャを産んでも、セーシャに障害があると分かっても、なお、
大学院に進み、セーシャから頭を離すために哲学に没頭できるだけの
物理的な環境があった、ということなんだろうか。
セーシャの子育ては一体だれが担っていたんだろう……?
たぶんとても近い障害像のミュウの乳幼児期を考えると、
とてもじゃないけれど子育てをしながら学問ができるような状況ではなく、
私たち夫婦は一日一日をかろうじて生き延びるだけで精いっぱいで、
ひーひー疲労困憊の極地だったのだけれど……。
同じように重症障害のある子どもの子育てでも
子どもが健康でさえあったら、研究生活と両立できるものなんだろうか。
確かに祖父母の協力を得て、
フルタイムで働きながら重症重複障害児を育てている女性は
私の身近にもいないわけではない。
私にはそれを可能とするだけの状況がなったのだと頭では分かっているけれど、
この点では、私の中にはずっと「私の頑張りが足りなかったのか」という
自問、自責がどうしようもなく根深く巣食っている。
それは、もしかしたら子育てや介護を理由に仕事をあきらめざるを得なかった女性に
共通の思いなのかもしれないのだけれど。
それから、2009年のカンファの際に
P・シンガーたちに障害者の生活そのものを見てほしいとキテイが企画したことについて
What Sorts of Peopleブログでキテイがコメントした際に、
「セーシャ達の住むコミュニティ」という表現を使っていて、
その時からセーシャが住んでいるのは施設なのか、そうではないのか、
もしかしたらグループホームのようなところなのか、ということが
私にはずっと気にかかっていたのだけど、
この本でもキテイは「コミュニティ」と「センター」という表現を使い、
「施設」という言葉は使っていない。
けれど、以下のような語りからも、
その他の個所で語られていることからも、
セーシャさんが暮らしているのは「○○センター」という名前の
施設に類する場所であるように想像される。
……セーシャを、いってみれば『隔絶したコミュニティ』に住まわせることについては、正当化が必要だとよく思います。それは、障碍者たちのコミュニティが求め闘ってきたこと、わたしもまた一般的に言えば信じていること、つまり地域での生活に反しています。
(p.116-117)
この個所に続けて、キテイはセーシャのような重症者のニーズに応えるには
いかにGHの小規模な資源では十分でないか、
そのセンターが「逆インクルージョン」を含めて、
いかにすばらしい取り組みをしているかを
熱を込めて語っている。
ミュウのような重症心身障害者のGHでの「自立生活」ビジョンについては
私もまったく同じような懸念を持っているから
語られていることそのものはカンペキに同意なのだけれど
(さらに言葉をもたず無抵抗な重症者のケア空間としては
GHの閉鎖性も私には気にかかっている)
それが一切「施設」という言葉を使わずに語られているところ、
なにか急いで埋めなければならないすきまでもあるかのように
ちょっとリキんで彼女が語っているように感じられるところに、
私は、キテイの
未だ乗り越えられていない罪悪感と痛みを見るような気がする。
それから、同じ重症障害のある子どもをもつ母親でありながら、
キテイのように生きることができなかった私には
彼女への嫉妬がどうしても胸に渦巻いてしまうので、
そのセンターがいかにすばらしいところであるかが力説されればされるだけ、
そのセンターはもしかしたら住み込みの介護者を雇えるような
富裕層の家族しか入ることのできない施設なのでは? と
我ながら醜いことを考えてしまう。
でも、そういう互いの間にある
諸々の前提条件のギャップを別にすれば、大筋、ああ、同じなんだなぁ……と。
特に、キテイが障害者運動に向けて
「ウチの子のような重症重複障害者のことが見えていない」と訴えていること、
同時に「親は敵かもしれないけど、それだけじゃないことを
あなた達も考えて」とも訴えているように見えることは、
私が『アシュリー事件』の12章で書いたこととまったく同じ――。
そのことに慰められる。
それに、インタビューの間の写真が何枚かあるのだけれど、
セーシャのことを語っているキテイの表情が
そこだけはなんとも言えず軟らかい笑顔で、すっごく、いい顔。
どんな生き方をして「今ここ」に至ったのであろうと、
私たち、こんなにも愛する娘がいる「おかあさん」なんですよね、キテイさん。
そう――。
自分自身の人生を生きたい思いをこんなにも捨てがたい私たちだけど、
だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない。
そう――。
もしも苦しみながらも自分なりに誠実に生きようとしてきた一人の人間の中で
「重い障害のある子どもの親であること」と
「自分自身の人生を生きようとする私」とが両立されず、
その人が両者の間で引き裂かれたまま生きるしかないなら、
それはその人自身の責任や問題ではないんじゃないだろうか。
それは、本当は一人ひとりの親の問題ではなく、
その責が親に負わされてしまう社会の側の問題なんじゃないんだろうか。
そのことをエヴァ・キテイは「愛の労働」あるいは依存とケアの正義論で書いたのだと思う。
そして、私も私なりに、そのことを、
「私は私らしい障害児の親でいい」や「海のいる風景」で書いてきたのだと思う。
これまで、同じ重症障害のある娘をもつ親の立場で、
エヴァ・キテイの個人的な事情や思いについて知りたかったことが
いくらかはっきりしたので、整理してみる。
まず、キテイも私と同様に障害者運動について、
両義的な感情の間で引き裂かれているように見える。例えば、
……これまで、合衆国で障碍者コミュニティが獲得してきたことについて、わたしは本当に素晴らしいと思っています。……
……けれども、障碍者コミュニティで語られる多くのことは、自分たちの声で語ることのできる障碍者に合わせた語られ方をしてきました。たとえば、障碍者運動の有名な標語の一つに、「自分のことは、自分で語る!」があります。だけど、セーシャは、話せないのです。……セーシャは自分の声をもたないのです。
そうしたこともあり、わたしは、障碍者コミュニティのなかでは、こんなことを発言して、まるで批判的にふるまわざるを得ないのです。「あなた方は、障碍者一般について発言をしておられますが、私の娘のような障碍者もいることを、ぜひとも忘れないでください」と。……私は、障碍者の人々が時々、私は愛情に満ちているが、理解力のない親、つまり、過剰に防衛的だったり、受容力に欠ける、そうした親とみなしているように感じます。障碍者たちは、そうした親に対抗する形で、自分たちのアイデンティティを確立してきたのです。……わたしは、時間をかけてかれらの視点から物事を見ようと努力してきました。とくにかれらは、わたしの娘からは学べないことを教えてくれたからです。しかしながら、かれらもまた時には、理解力に欠けるような親の視点から物事を見ることを学ぶ必要があったのだと思います。というのも、そうした親であっても、自分自身のこと以上に、子どもの世話をしてきたのですから。
(p.94-95)
最後の数行については、障害者運動の側がどのように読むか、
ちょっと聞いてみたい気もするし、中には、そういう親の意識こそが
子どもへの抑圧に向かうのだと反発する人もいるのでは、という気がするけれど、
その辺りも含めて、
障害者運動が築いてきたものに感謝し、またそこから多くを学びつつも、
特に重症障害者の親の立場からは障害者運動に言いたいことが多くありもして、
悩ましく引き裂かれているところが、キテイと私はそっくりだなぁ……と思う。
ところで、
セーシャが生まれたのは著者が「大学院に行く前」のことで、1960年代。
大学院で何を専攻するかに迷っていた著者は、
セーシャが障碍を抱えていることがわかり始めると、科学の入門的な科目は、セーシャの状況についての苦悩から自分を解放するほど、刺激的ではないように思い始めました。わたしは、セーシャの問題を頭から取り除いてくれるような、なにか強烈なものが必要だったのです。……哲学とは、セーシャについて語らなくてもいい方法、セーシャの抱える困難を考えないでよい道の一つだったのです。
(p.102-103)
この段階でまだ住み込みの介護者ペギーはいないと思うのだけれど、
キテイはセーシャを産んでも、セーシャに障害があると分かっても、なお、
大学院に進み、セーシャから頭を離すために哲学に没頭できるだけの
物理的な環境があった、ということなんだろうか。
セーシャの子育ては一体だれが担っていたんだろう……?
たぶんとても近い障害像のミュウの乳幼児期を考えると、
とてもじゃないけれど子育てをしながら学問ができるような状況ではなく、
私たち夫婦は一日一日をかろうじて生き延びるだけで精いっぱいで、
ひーひー疲労困憊の極地だったのだけれど……。
同じように重症障害のある子どもの子育てでも
子どもが健康でさえあったら、研究生活と両立できるものなんだろうか。
確かに祖父母の協力を得て、
フルタイムで働きながら重症重複障害児を育てている女性は
私の身近にもいないわけではない。
私にはそれを可能とするだけの状況がなったのだと頭では分かっているけれど、
この点では、私の中にはずっと「私の頑張りが足りなかったのか」という
自問、自責がどうしようもなく根深く巣食っている。
それは、もしかしたら子育てや介護を理由に仕事をあきらめざるを得なかった女性に
共通の思いなのかもしれないのだけれど。
それから、2009年のカンファの際に
P・シンガーたちに障害者の生活そのものを見てほしいとキテイが企画したことについて
What Sorts of Peopleブログでキテイがコメントした際に、
「セーシャ達の住むコミュニティ」という表現を使っていて、
その時からセーシャが住んでいるのは施設なのか、そうではないのか、
もしかしたらグループホームのようなところなのか、ということが
私にはずっと気にかかっていたのだけど、
この本でもキテイは「コミュニティ」と「センター」という表現を使い、
「施設」という言葉は使っていない。
けれど、以下のような語りからも、
その他の個所で語られていることからも、
セーシャさんが暮らしているのは「○○センター」という名前の
施設に類する場所であるように想像される。
……セーシャを、いってみれば『隔絶したコミュニティ』に住まわせることについては、正当化が必要だとよく思います。それは、障碍者たちのコミュニティが求め闘ってきたこと、わたしもまた一般的に言えば信じていること、つまり地域での生活に反しています。
(p.116-117)
この個所に続けて、キテイはセーシャのような重症者のニーズに応えるには
いかにGHの小規模な資源では十分でないか、
そのセンターが「逆インクルージョン」を含めて、
いかにすばらしい取り組みをしているかを
熱を込めて語っている。
ミュウのような重症心身障害者のGHでの「自立生活」ビジョンについては
私もまったく同じような懸念を持っているから
語られていることそのものはカンペキに同意なのだけれど
(さらに言葉をもたず無抵抗な重症者のケア空間としては
GHの閉鎖性も私には気にかかっている)
それが一切「施設」という言葉を使わずに語られているところ、
なにか急いで埋めなければならないすきまでもあるかのように
ちょっとリキんで彼女が語っているように感じられるところに、
私は、キテイの
未だ乗り越えられていない罪悪感と痛みを見るような気がする。
それから、同じ重症障害のある子どもをもつ母親でありながら、
キテイのように生きることができなかった私には
彼女への嫉妬がどうしても胸に渦巻いてしまうので、
そのセンターがいかにすばらしいところであるかが力説されればされるだけ、
そのセンターはもしかしたら住み込みの介護者を雇えるような
富裕層の家族しか入ることのできない施設なのでは? と
我ながら醜いことを考えてしまう。
でも、そういう互いの間にある
諸々の前提条件のギャップを別にすれば、大筋、ああ、同じなんだなぁ……と。
特に、キテイが障害者運動に向けて
「ウチの子のような重症重複障害者のことが見えていない」と訴えていること、
同時に「親は敵かもしれないけど、それだけじゃないことを
あなた達も考えて」とも訴えているように見えることは、
私が『アシュリー事件』の12章で書いたこととまったく同じ――。
そのことに慰められる。
それに、インタビューの間の写真が何枚かあるのだけれど、
セーシャのことを語っているキテイの表情が
そこだけはなんとも言えず軟らかい笑顔で、すっごく、いい顔。
どんな生き方をして「今ここ」に至ったのであろうと、
私たち、こんなにも愛する娘がいる「おかあさん」なんですよね、キテイさん。
そう――。
自分自身の人生を生きたい思いをこんなにも捨てがたい私たちだけど、
だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない。
そう――。
もしも苦しみながらも自分なりに誠実に生きようとしてきた一人の人間の中で
「重い障害のある子どもの親であること」と
「自分自身の人生を生きようとする私」とが両立されず、
その人が両者の間で引き裂かれたまま生きるしかないなら、
それはその人自身の責任や問題ではないんじゃないだろうか。
それは、本当は一人ひとりの親の問題ではなく、
その責が親に負わされてしまう社会の側の問題なんじゃないんだろうか。
そのことをエヴァ・キテイは「愛の労働」あるいは依存とケアの正義論で書いたのだと思う。
そして、私も私なりに、そのことを、
「私は私らしい障害児の親でいい」や「海のいる風景」で書いてきたのだと思う。
2012.11.05 / Top↑
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