昨日の以下のエントリーで取り上げた論文について、
某MLで神戸の新城拓也医師からご解説をいただき、
いただいた情報をエントリー末尾に追記しました。
「ガンで死が差し迫った段階を“診断”するツールは未だ存在しない」として、そこで起こる現象の整理を試みた調査(2013/5/22)
新城先生は10年間ホスピスに勤務の後、
昨年8月に神戸に在宅ケアのしんじょうクリニックを開業された緩和ケア医。
ブログとツイッターは時々読ませていただいていたのですが、
この論文に関連して先生ご自身がリンクしてくださった
予後予測についてのお考えが書かれたものが以下の2本。
僕が、尊厳死法案に反対する理由(2012年8月29日)
http://drpolan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-b8eb.html
今どきの在宅医療14 在宅医療の患者さんは長生き?「経験の檻」(2013年4月16日)
http://drpolan.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/14-ce20.html
私も昨日のエントリーの論文を読んだ時に
改めて「うへぇ」と思ったのは、
「死の直前7日間でも、そこで起こる様々な現象には
指標とするにはこんなにも科学的なエビデンスが示されておらず“診断”が難しいとしたら、
余命6カ月なんて、正確に予測できるわけがないのに……」だったのだけど、
新城医師は、上記8月のエントリーで、
昨日、尊厳死の法制化を認めない市民の会 に参加しました。かねてよりこの法案には不備が多いと感じていました。僕が法案に反対するのは、医師が患者が終末期と判断することに科学的根拠が乏しいという理由からです。
それに続いて、いつぞや「平穏死」推進の長尾和宏医師の
「いつが終末期かは患者が死んだ後に振り返ってからでなければ分からない」
という趣旨の発言と同様のことが書かれていて、
臨床医は自分が治療を行っている現在の時間においては
それが延命なのか過剰医療なのかは判断できない、と。
そして、
現時点ではまだ、医師による終末期の判定、すなわち予後の予測は占いの域を出ないというのが自分の臨床経験からの実感です。もしも、目の前の患者に対して、「終末期である」という診断を臨床医が下せるとしたら、命の線引きもうこの人は死んだと同然だ、生きている価値はないだろうという、一方的で個人的な価値観から判断しているに過ぎません。
ここで指摘されている感覚こそ、
末尾にリンクした長尾和宏医師が「植物状態ではない人」を「植物状態のような人」と称する時の
「どうせ」という感覚であり、
それは「平穏死」の対象者が長尾医師の著書でジワジワと広げられていっても、
この「どうせ」が無意識に共有されている限り、読者には気づかれないように、
とても危険なことなのでは……?
目の前の患者が終末期であるという、精度の高い、どこでも実施可能で、再現性のある診断技術が確立されないまま、この法案が適用されるのには、僕は反対です。
ここのところ、
昨日のエントリーで紹介した論文の考察でも、
最後に重要な課題として指摘されていた1つに、
「そんなツールは実現不可能なままになる可能性だってある」ということを考えさせられる。
また新城医師は、
今年4月16日のエントリーでは、
予後の予測はとても緩和ケアにとっては重要で、ケアの対応、今後起こりうることの想定も含めて、計画の目標の基礎になる。しかし、最近はこの予後の予測を繰 り返すことで違和感も感じている。それは予言者の様に患者さんの今後を占うことができるという、不遜のようなものが心に宿ることだと思う。
…(略)…実は、僕が在宅を始めて8ヶ月で発見した大きな見落としとは、言葉にすると小さな事に思えるけど、相手の力を信じることだ。
自分が今までの経験から見切った余命が全く当たらない。もうこれ以上は時間はないだろうと、苦痛なく穏やかに亡くなる様に治療を組み立てても、そこからなお 力をその身体に宿し、立ち上がり、笑顔で話しかけてくる患者さんを何人もみてしまった。
控えめに言うなら、今の僕には、患者さんの余命は分からない。医者には余命を的確に指摘することは出来ない、それが僕の経験からの真理である。
だから、在宅の患者さんは長生きで痛みもそれほど感じていないと主張し、
「経験の檻」に閉じこもる在宅医になり、そんな在宅礼讃で
在宅医療をイデオロギーにすることには加担したくない、との
新城医師の主張については、上記リンクから元エントリーへどうぞ。
そこに書かれていることは、昨日のエントリーで読んだ論文で
「理論と経験が相互に補完していることを考慮した理論構築が必要」とされていたことを、
一人の臨床家としての実践において誠実に模索していこうとする医師の努力の姿勢として
spitzibaraは読みました。
【関連エントリー】
「平穏死」提言への疑問 1(2013/2/11)
「平穏死」提言への疑問 2(2013/2/11)
「平穏死」提言への疑問 3(2013/2/11)
長尾和宏医師「平穏死」のダブル・スタンダード 1(2013/2/12)
長尾和宏医師「平穏死」のダブル・スタンダード 2(2013/2/12)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 4(2013/1/28)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 5(2013/1/29)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 6:「新しい医療の文化」とは「重心医療の文化」だった!!(2013/2/5)
某MLで神戸の新城拓也医師からご解説をいただき、
いただいた情報をエントリー末尾に追記しました。
「ガンで死が差し迫った段階を“診断”するツールは未だ存在しない」として、そこで起こる現象の整理を試みた調査(2013/5/22)
新城先生は10年間ホスピスに勤務の後、
昨年8月に神戸に在宅ケアのしんじょうクリニックを開業された緩和ケア医。
ブログとツイッターは時々読ませていただいていたのですが、
この論文に関連して先生ご自身がリンクしてくださった
予後予測についてのお考えが書かれたものが以下の2本。
僕が、尊厳死法案に反対する理由(2012年8月29日)
http://drpolan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-b8eb.html
今どきの在宅医療14 在宅医療の患者さんは長生き?「経験の檻」(2013年4月16日)
http://drpolan.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/14-ce20.html
私も昨日のエントリーの論文を読んだ時に
改めて「うへぇ」と思ったのは、
「死の直前7日間でも、そこで起こる様々な現象には
指標とするにはこんなにも科学的なエビデンスが示されておらず“診断”が難しいとしたら、
余命6カ月なんて、正確に予測できるわけがないのに……」だったのだけど、
新城医師は、上記8月のエントリーで、
昨日、尊厳死の法制化を認めない市民の会 に参加しました。かねてよりこの法案には不備が多いと感じていました。僕が法案に反対するのは、医師が患者が終末期と判断することに科学的根拠が乏しいという理由からです。
それに続いて、いつぞや「平穏死」推進の長尾和宏医師の
「いつが終末期かは患者が死んだ後に振り返ってからでなければ分からない」
という趣旨の発言と同様のことが書かれていて、
臨床医は自分が治療を行っている現在の時間においては
それが延命なのか過剰医療なのかは判断できない、と。
そして、
現時点ではまだ、医師による終末期の判定、すなわち予後の予測は占いの域を出ないというのが自分の臨床経験からの実感です。もしも、目の前の患者に対して、「終末期である」という診断を臨床医が下せるとしたら、命の線引きもうこの人は死んだと同然だ、生きている価値はないだろうという、一方的で個人的な価値観から判断しているに過ぎません。
ここで指摘されている感覚こそ、
末尾にリンクした長尾和宏医師が「植物状態ではない人」を「植物状態のような人」と称する時の
「どうせ」という感覚であり、
それは「平穏死」の対象者が長尾医師の著書でジワジワと広げられていっても、
この「どうせ」が無意識に共有されている限り、読者には気づかれないように、
とても危険なことなのでは……?
目の前の患者が終末期であるという、精度の高い、どこでも実施可能で、再現性のある診断技術が確立されないまま、この法案が適用されるのには、僕は反対です。
ここのところ、
昨日のエントリーで紹介した論文の考察でも、
最後に重要な課題として指摘されていた1つに、
「そんなツールは実現不可能なままになる可能性だってある」ということを考えさせられる。
また新城医師は、
今年4月16日のエントリーでは、
予後の予測はとても緩和ケアにとっては重要で、ケアの対応、今後起こりうることの想定も含めて、計画の目標の基礎になる。しかし、最近はこの予後の予測を繰 り返すことで違和感も感じている。それは予言者の様に患者さんの今後を占うことができるという、不遜のようなものが心に宿ることだと思う。
…(略)…実は、僕が在宅を始めて8ヶ月で発見した大きな見落としとは、言葉にすると小さな事に思えるけど、相手の力を信じることだ。
自分が今までの経験から見切った余命が全く当たらない。もうこれ以上は時間はないだろうと、苦痛なく穏やかに亡くなる様に治療を組み立てても、そこからなお 力をその身体に宿し、立ち上がり、笑顔で話しかけてくる患者さんを何人もみてしまった。
控えめに言うなら、今の僕には、患者さんの余命は分からない。医者には余命を的確に指摘することは出来ない、それが僕の経験からの真理である。
だから、在宅の患者さんは長生きで痛みもそれほど感じていないと主張し、
「経験の檻」に閉じこもる在宅医になり、そんな在宅礼讃で
在宅医療をイデオロギーにすることには加担したくない、との
新城医師の主張については、上記リンクから元エントリーへどうぞ。
そこに書かれていることは、昨日のエントリーで読んだ論文で
「理論と経験が相互に補完していることを考慮した理論構築が必要」とされていたことを、
一人の臨床家としての実践において誠実に模索していこうとする医師の努力の姿勢として
spitzibaraは読みました。
【関連エントリー】
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長尾和宏医師「平穏死」のダブル・スタンダード 1(2013/2/12)
長尾和宏医師「平穏死」のダブル・スタンダード 2(2013/2/12)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 4(2013/1/28)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 5(2013/1/29)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 6:「新しい医療の文化」とは「重心医療の文化」だった!!(2013/2/5)
2013.05.23 / Top↑
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