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ここ数日、あちこちから流していただく情報で
以下のようなところに「死の質 QOD」という言葉が登場した、ということを知った。

2013/08/02 社会保障制度改革国民会議・議事・資料
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokuminkaigi/dai19/gijisidai.html

当該箇所を立岩真也先生がarsviのサイトに抜いてくださっていて、
なるほど「尊厳ある死」という文言と一緒に登場している。

(ついでに言えば、この箇所の向かっている方向は
そういう言葉を使わないまま、実は、日本型「無益な治療」論の指標づくりと、
それによる、日本型(コスト論に基づいた)「無益な治療」論に向けた
「国民の合意」形成という名前の誘導なのでは? という印象)

「Ⅱ 医療・介護分野の改革」より
 医療の在り方については、医療提供者の側だけでなく、医療を受ける国民の側がどう考え、何を求めるかが大きな要素となっている。超高齢社会に見合った「地域全体で、治し・支える医療」の射程には、そのときが来たらより納得し満足のできる最期を迎えることのできるように支援すること-すなわち、死すべき運命にある人間の尊厳ある死を視野に入れた「QOD(クォリティ・オブ・デス)を高める医療」-も入ってこよう。「病院完結型」の医療から「地域完結型」の医療へと転換する中で、人生の最終段階における医療の在り方について、国民的な合意を形成していくことが重要であり、そのためにも、高齢者が病院外で診療や介護を受けることができる体制を整備していく必要がある。また、慢性疾患の増加は、低い確率でも相対的に良いとされればその医療が選択されるという確率論的医療が増えることにつながる。より有効でかつ効率的な医療が模索される必要があり、そのためには、医療行為による予後の改善や費用対効果を検証すべく、継続的なデータ収集を行うことが必要である。例えば、関係学会等が、日々の診療行為、治療結果及びアウトカムデータ(診療行為の効果)を、全国的に分野ごとに一元的に蓄積・分析・活用する取組を推進することが考えられ、これらの取組の成果に基づき、保険で承認された医療も、費用対効果などの観点から常に再評価される仕組みを構築することも検討すべきである。」


でも、「形成」しようというのは
あくまでも「医療の在り方」についての「国民的な合意」なんですよね。

まさか、
「そのときが来たらより納得し満足のできる最期」とか
「死すべき運命にある人間の尊厳ある死」とかについて
「国民的な合意」を形成しようなんていう無謀な話ではなくて――。

だって「死すべき運命にある人間」て、終末期の人のことというよりも
「どうせ人間はみんな死ぬんだから」とも読めたりするので、
その路線で「国民的な合意」形成を試みられたら
ものすごく怖いし……。

                   -----

ところで、最初はぜんぜんピンと来ていなかったのだけれど、
このQODをめぐるFBでの議論を読ませてもらって、
記憶の向こうから、もわぁ~っと蘇ってきたのが
ちょうど3年前にあった「死の質」世界ランキングという調査の話題。

当時のエントリーを探して読み返してみたら、
米国では2000年くらいから論文が出ていたりした。 ↓

「死の質」は英国が一位だという調査(2010/7/16)
「死の質」は果たして「生の質」の対極にある概念なのか(2010/7/16)
「死の質」について、もうちょっと(2010/7/17)
「ターミナル」診断に対する医療職の意識調査:“生の質”も“死の質”も本当はただ“医療の質”の問題では?(2010/7/17)


で、当時の私が、この問題についてモヤモヤするところを
思うように言葉にできないまま、上の3つのエントリーを書き、
(もやもや感、ぐるぐる観が満載の、はっきりしないエントリーですんません)

それと平行して当時やっていたツイッターでどうやらつぶやいてみたのが、
4つ目のエントリーにコピペしてあったこちら ↓

「良い死」だったとか「豊かな死」だったというのは、
あくまでも人の人生の一回性の中で主観的にしか決められないことだと思うし、
私は、その一回性の中でドロドロしたり、グルグルしたりしながら、
ギリギリのところで何かを選択するという、そのドロドロやギリギリからこそ
人が生きることにまつわるいろんなことの意味というものは生まれてくるのだと考えるのですが、
「死の質」という言葉がそこにもちこまれることによって、
死に方に外側からの客観的な評価の視点が持ち込まれてしまうんじゃないのか、
で、それは結局、切り捨ての新たなツールになっていくんじゃないのか……

ホスピスが充実していて緩和ケアの質が仮に高いとしても、
だからといって個々の患者の「死の質」が高いことになるのかどうか、
という問題もあると思うのですが、

終末期の医療のいくつかのファクターによって評価された「死の質」が、
日本の記事のように、そのまま個々の患者の「死の豊かさ」として
翻訳されて流布されてしまうことには、それ以上の違和感があります。
じゃぁ、そこで何が飛び越えられてしまっているのか、ということ……

(最後のあたり、今の私の感覚を追加すると、
終末期医療のいくつかのファクターによって評価された
あくまでも医療的に達成された「死の質」のレベルの問題……とでもいうか。
あくまでも医療システムにおける指標の問題に過ぎない、というか。
ううう……うまく言えないので、この先はTBを見てください。)


で、当時、これだけ、もやもや・ぐるぐるする中から
やっと何がしか、「感想」めいたものにたどり着いて
それを4つ目のエントリーの最後に書いているのだけれど、

それを今こうして読み返してみたら
「平穏死」なんかについても同じことが言えるんじゃないのかなぁ、という気がしてきたので、
これもまた、以下にコピペしてみると、

こんなことをぐるぐる考えていたら、
今朝、ふっと頭に浮かんだことがあった。

この(各国の「死の質 QOD」)調査が対象としているのは
「死の質」でも「豊かな死」でもなくて、本当は
ただ、単に「40ヵ国の、緩和ケアの整備量と、ある一面から見た質」に過ぎないということ。

そこから、更に金魚のウンチ的に頭に浮かんできたこととして、

QOL(生活の質であれ生命の質であれ)とは
もしもどうしても使うつもりなのであれば「死の質」にしても
本来、「医療の質」を改善し、向上させるための指標として、医療の内部で、
医療職に対して、その実践を問い、医療の質を測るツールのはずではないのか、ということ。

それが、いつから、どのようにして、「医療が自らの質を問う指標」から
「医療に値するかどうか、医療が患者の質を問う指標」や、
「生き方や死に方を医療が評価して社会に提言するための指標」へと
転換させられていったのか、また転換させられていきつつあるのか。

そもそも緩和ケアの本来の理念が
患者さんが、その人の人生の一回性の中で死んでいくことを支える、というものだったはず。

そして、患者さんが人生の一回性の中で病むことの全体を見る医療が
たしか「全人的医療」と呼ばれて提唱されていたはず。

本当は、これら一切、「医療の質」の問題に過ぎないのでは――?


3年前に書いたこともまだ言葉足らずだし、
今もまだすっきりと言葉になっていない感じはあるのだけれど、

考えるべき問題は、
本当は「医療・介護のあり方」つまり「医療・介護の質」の問題のはずであって
巷でよく言の葉に上る「老いて、いかに死ぬか」というような
「死に方」まして「死に方の質」の問題でもなく、

さらに、一つの「あるべき死に方」像みたいなものを
国民に啓発・推進していく運動みたいな話でもないはずなのに、

そこが「尊厳死」「平穏死」の議論のように、
いつのまにか「医療・介護の質」の話から
患者サイドに向けた「あなたの死に方」だったり
めざすべき「あるべき死に方」の話に摩り替わってしまうようなことが
あちこちで起こっているだけに、

「死の質」などという言葉が社会保障制度の議論に登場することに、
それもまたいつの間にか国民に向けた啓発・推進の具にされるのでは、という
警戒感がどうしてもぬぐえない……んじゃないのかなぁ。

……と、
自分の中にある今回の「もやもや感」を、とりあえず整理してみる。


                  ―――――――

ちなみに、
某MLで教えていただいた関連の日本語論文は以下。

望ましい死の達成度と満足度の評価
宮下光令 

それから3年前の私のエントリー(3つ目のやつ)では
米国で2000年から論文があった事実を拾いつつ、
2003年のものしかリンクしていませんが、

2000年の「先駆的な」論文が以下だとのこと。
http://annals.org/article.aspx?articleid=713475
2013.08.13 / Top↑
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