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BMJの副編集長の論考に覚えた強い危機感について
未整理だけど、とにかく一応いますぐに書けること、書いておきたいことを。


Ashley事件で、担当医のGunther医師が自殺した時、
“Ashley療法”を擁護していたトランスヒューマニストから
「医師らを激しく批判した障害者らのせいだ」という非難の声が上がりました。
(詳細は「Gunther医師の自殺」の書庫に)

Diekema医師も、その後、意図的に
「子を想う愛情深い親」vs「政治的イデオロギーでそれを邪魔する障害者」の構図を作り出し、
世論に障害者アドボケイトへの反発をあおりました。
それによって世論の誘導にダメ押しを試み、
そして、彼の戦術には効果がありました。
(詳細は「Diekema講演(08年1月)」の書庫に)

同じことが、自殺幇助合法化議論でも繰り返されようとしているのではないか……と思う。

Diekema医師は2007年1月12日のLarry King LiveでJodi Tada氏に向かって
「Ashleyはあなたたちのように障害者運動できるような障害者とは違う」と言い、
「Ashleyは、どうせ赤ん坊と同じで何も分からないのだから」といい、
その「どうせ」と平気で言える感覚そのもので差別意識を暴露した。

Diekema医師のその後の巧妙な障害者たたきで簡単に煽られたのは、
彼の差別意識をもともと共有していた世間の人たちだった。

BMJの副編集長は
「そりゃ、障害者には早く死ねというプレッシャーがかかるだろうよ。
でも、それくらいのことが、なんなんだ?」

「障害者の生きる権利だと? ターミナルな人が死ねる自由の前に、
障害者の生きる権利が侵されるくらいのリスクが、一体なんなんだ?」と書き、

「それくらいのこと」と平気で言える感覚そのもので、
障害者に対する軽視と切り捨て意識を暴露している。

今でもネットで障害者への嫌悪や蔑視を撒き散らしている人たちの感覚を
世界的な権威のある医学雑誌の副編集長が裏書きし、励ましている。

彼の狙い通りに、
障害者への差別意識を裏書してもらった人たちは、
さらに自殺幇助合法化に向けて世論を過熱させるだろう。

同時に、ヘイトクライムを生む社会心理も根深くなる──。
たぶん、障害者の間の分断も大きくなる――。


       ――――――――――


自殺幇助合法化の“すべり坂”は、
必ずしも自殺幇助という問題の範囲内で起こるわけではなく、

出生前遺伝子診断の“すべり坂”も
代理母の“すべり坂”も
成長抑制の“すべり坂”も

そして恐らく、日本で脳死が一律に人の死とされることの“すべり坂”も、

必ずしも、それぞれ当該の技術の対象範囲や関係領域の中だけで起こるわけではないのだろうと思う。

その問題や技術と直接的には繋がりを持たない形で
間接的に、また複合的に、社会の空気や価値観に影響を及ぼし、
当該問題のそれぞれとは無関係な顔つきをした変化として
すでに起こっているのではないのか?

しかし、1つ1つの薬の副作用だけを問題にした実験で安全とされ認可されて
何種類もの薬の複合的な副作用については未知数のまま、
誰もそれを調査・研究する必要すら言わないのと同じように、

生命倫理の議論でも、 “すべり坂”リスクは
問題となっている技術の関係領域内でのみ議論され、
「セーフガードさえあれば大丈夫」と、いとも簡単に否定されていく。

それぞれの議論の根底にある「科学とテクノの簡単解決万歳」文化の論理と
その文化が隠し持っている能力至上の価値観とが間接的、複合的に社会に影響して、

それぞれの議論とは直接結びつかないところで、本当の“すべり坂”は、
既に取り返しの付かない急傾斜となって実現してしまっているという可能性には
誰も目を向ける必要を言わないまま──。


【追記】
本来は前のエントリーに追加すべき内容ですが、
前のエントリーは既に字数制限いっぱいで追記できないので、こちらに。

去年「認知症患者には社会や家族の負担にならないよう死ぬ義務がある」と発言したWarnock上院議員が
その発言を撤回しないまま、

「終末期の患者と障害者とは重複するにしても別概念だから
一緒にしてはならない」と主張するのはおかしい。

認知症患者は認知障害はあっても必ずしもターミナルなわけではないから、
そこを混同して認知障害があるというだけで死ぬ義務を主張しているのは彼女自身。
2009.09.06 / Top↑
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