テス・ジェリッツェンのミステリー「僕の心臓を盗まないで」(角川文庫)を読んだ。
原題は“Harvest”。
刈り取り──。
刈り取り──。
臓器を取る行為に、英語では農作物の“収穫”と同じ単語があてがわれる。
リストの順番をすっ飛ばすためなら高額の代金を支払う用意がある富裕層向けに
孤児や貧しい子どもたちの臓器を生きたまま刈り取る闇ルートで
移植臓器のドナーが“生産”されている、という話。
孤児や貧しい子どもたちの臓器を生きたまま刈り取る闇ルートで
移植臓器のドナーが“生産”されている、という話。
米国の臓器割り当てシステムがどういうふうに機能する“はず”なのか、について
作品中からボストンの総合病院の移植コーディネーターの説明を引いてみると、
作品中からボストンの総合病院の移植コーディネーターの説明を引いてみると、
システムそのものはかなり単純です。臓器を必要としている患者の順番待ちリストがあるんですが、地域単位と全国単位の二種類あって、全国版のほうは、臓器提供統一ネットワーク、略してUNOSと呼ばれています。地域リストを管理しているのはニュー・イングランド臓器銀行。どっちのシステムも、患者の必要度順になっています。資産や人種、社会的地位は一切関係ありません。関係があるのは、患者の状態がどれほど危機的かだけなんです。
(P.217)
(P.217)
ところが、現実には予定されていた患者の移植手術直前になって、
リストのトップの2人がすっとばされて、3番目の人に臓器が提供されてしまう。
リストのトップの2人がすっとばされて、3番目の人に臓器が提供されてしまう。
この3番目だったはずの患者が大金持ちの夫ヴィクター・ヴォスに深く愛されている奥さん。
スタッフは次のような会話を交わします。
「私の考えだが、ヴィクター・ヴォスが手配して、ドナーを登録させなかったんだろう。
心臓が直接、奥さんに渡るように」
「そんなことできるのか?」
「金さえあれば──たぶん」
(P.216)
心臓が直接、奥さんに渡るように」
「そんなことできるのか?」
「金さえあれば──たぶん」
(P.216)
しかも、臓器にくっついてきたはずの医師もドナーのカルテも、いつの間にか消えてしまう。
ドナー情報はもともと極秘なので、
そちらは最初あまり重要視されない。なぜなら
そちらは最初あまり重要視されない。なぜなら
ドナーのカルテは極秘。レシピエントのカルテとは、必ず別に保管される。さもないと患者の家族同士、連絡取り合ってしまうじゃないか。ドナー側は一生感謝されることを期待し、移植された側はそれを負担に思うか、罪の意識に苦しめられることになる。双方の気持ちが入り乱れてどろどろになってしまうんだよ。
(P.158)
(P.158)
ここ、臓器移植という医療の本質について、とても示唆的な箇所。
この移植の後から、病院の医師が不可解な自殺を遂げたり、
事件が次々に起こっていく。
事件が次々に起こっていく。
なかなか楽しめるミステリーなのですが、
文学作品というのは、さすがに、いろいろと象徴的で
文学作品というのは、さすがに、いろいろと象徴的で
そのヴィクター・ヴォスという人物の設定が、まず興味深い。
化学薬品からロボットまで何でも作っている会社の経営者で
経済誌の米国富豪ランキングで14位。
経済誌の米国富豪ランキングで14位。
つまり“科学とテクノ”で稼いでいる大金持ちで
弁護士だって相手がヴォスだと聞くと「顔色が何段階か蒼くなった」。
これほどのお金持ちは、そのまま権力者でもある。
弁護士だって相手がヴォスだと聞くと「顔色が何段階か蒼くなった」。
これほどのお金持ちは、そのまま権力者でもある。
なんだか、なぁ……読んでいると、この辺り、
シアトル子ども病院の医師らをAshley父が無理難題で振り回している図に
どうしても重なってしまう。
シアトル子ども病院の医師らをAshley父が無理難題で振り回している図に
どうしても重なってしまう。
仮にAshley父に関する当ブログの仮説に立って、重ねてみるとしたら、
彼自身は富豪ランキング14位というわけではなくて、
“ヴォス”の会社の幹部役員といった立場なのでしょうが、
それでも幹部となれば、背後に“ヴォス”が控えていることを病院は意識する。
“ヴォス”の会社の幹部役員といった立場なのでしょうが、
それでも幹部となれば、背後に“ヴォス”が控えていることを病院は意識する。
なにしろ背後に控える“ヴォス”は、A事件の場合、富豪ランキングのトップ。
病院にも巨額の資金を提供し共にグローバル・ヘルスのリーダーたらんと手を携えているとしたら、
そりゃ、トラの威でも十分。
病院にも巨額の資金を提供し共にグローバル・ヘルスのリーダーたらんと手を携えているとしたら、
そりゃ、トラの威でも十分。
相談された弁護士だって、相手の意を汲んで、
Ashleyは自分の意思で子どもを産むことはないのだから
子宮をとっちゃっても不妊手術には当たりませんよ……と
お望みの回答を出してあげるというものでしょう。
Ashleyは自分の意思で子どもを産むことはないのだから
子宮をとっちゃっても不妊手術には当たりませんよ……と
お望みの回答を出してあげるというものでしょう。
さらに、この作品には、次のような注目発言だって出てくる。
ジェレマイア・パー(spitzibara注:院長)の首だって危ないのよ。
きっと今もヴォスに食いつかれてる。考えてもみて。
病院の理事会はヴォスの金持ちの友達で一杯なの。
パーを馘にするくらい簡単。
(P.291)
きっと今もヴォスに食いつかれてる。考えてもみて。
病院の理事会はヴォスの金持ちの友達で一杯なの。
パーを馘にするくらい簡単。
(P.291)
シアトル子ども病院の理事会にも、
おそらくシアトルのお金持ちがずらりと並んでいることでしょう。
ランキング1位のシアトルの“ヴォス”さんとオトモダチで、
(その後この人は2位に転落したけど、A事件の時点では1位だった)
したがって、きっとAshley父ともオトモダチ……という人たちが。
おそらくシアトルのお金持ちがずらりと並んでいることでしょう。
ランキング1位のシアトルの“ヴォス”さんとオトモダチで、
(その後この人は2位に転落したけど、A事件の時点では1位だった)
したがって、きっとAshley父ともオトモダチ……という人たちが。
そして作品全体を通して最も象徴的だと思ったのは
最後のところで犯人の一人が臓器を買う人の心理を代弁する、以下のせりふ。
最後のところで犯人の一人が臓器を買う人の心理を代弁する、以下のせりふ。
想像してみることだ。我が子が死んでいくのを見ているのがどんなものか。
ありあまるほどの金を持ちながら、それでも順番を待つしかないと
思い知らされるのがどんなものか。
しかも、その子よりも前にいるのはアル中や麻薬患者だ。知能障害者だ。
生まれてこのかた一日も働いたことのない、福祉にたかる連中だ。
ありあまるほどの金を持ちながら、それでも順番を待つしかないと
思い知らされるのがどんなものか。
しかも、その子よりも前にいるのはアル中や麻薬患者だ。知能障害者だ。
生まれてこのかた一日も働いたことのない、福祉にたかる連中だ。
知能障害者……。
初めて見た、この表現。
初めて見た、この表現。
厳密に言えば、これは、たぶん、知的障害者と訳すべきところ、
翻訳者の方が障害者の分類にあまり詳しくなかったということなのでしょうが、
翻訳者の方が障害者の分類にあまり詳しくなかったということなのでしょうが、
でも、とても皮肉なことに、
知的障害者というよりも知能障害者というほうが、
トランスヒューマニストや“科学とテクノ万歳文化”の人たちの感覚を、より的確に表わしている。
知的障害者というよりも知能障害者というほうが、
トランスヒューマニストや“科学とテクノ万歳文化”の人たちの感覚を、より的確に表わしている。
―――――――――
病院だって人間の社会や経済のシステムの中にある以上、
こんなふうに“政治的な配慮”というやつから、ひとり逃れられるわけではないし、
こんなふうに“政治的な配慮”というやつから、ひとり逃れられるわけではないし、
そのことは医療や科学研究の世界に明るい人こそ、
この世界にも”ウラ”というものがあることを、身に沁みて、よく知っているはずだと思うのに、
この世界にも”ウラ”というものがあることを、身に沁みて、よく知っているはずだと思うのに、
生命倫理・医療倫理の議論が拠って立つ揺ぎない前提では、
医師個々人や病院の職業倫理とそれに基づく判断は決して
医療界や病院の政治・経済上の事情に影響されることなどなく、
また医師間や病院間の熾烈な競争をめぐる事情によっても左右されることなどない……“はず”だ
ということになっているのが不思議。
医療界や病院の政治・経済上の事情に影響されることなどなく、
また医師間や病院間の熾烈な競争をめぐる事情によっても左右されることなどない……“はず”だ
ということになっているのが不思議。
臓器が売買されていることを多くの人が事実として知っていながら、
臓器は売買などされていない“はず”だという前提で
「子どもの命を救うために、セーフガードさえあれば大丈夫」と
政治的な理由でもって、いとも簡単に法律が改変されていく不思議と同じように。
臓器は売買などされていない“はず”だという前提で
「子どもの命を救うために、セーフガードさえあれば大丈夫」と
政治的な理由でもって、いとも簡単に法律が改変されていく不思議と同じように。
倫理学者が「セーフガードさえあれば大丈夫」と太鼓判を押し、推し進めてきた最先端医療で
そのセーフガードがきちんと機能しているという領域は本当にあるのだろうか。
そのセーフガードがきちんと機能しているという領域は本当にあるのだろうか。
なんで、そこのところを検証する生命倫理学者は、いないんだろう?
私が無知なだけで、本当はいるのかもしれない。
圧倒的に少数だと思うけど。
私が無知なだけで、本当はいるのかもしれない。
圧倒的に少数だと思うけど。
でも、自分たちが「セーフガードさえあれば」と正当化し、実現させてきた医療で
実際にはセーフガードが機能せず、犯罪が起こり、弱者が食い物にされているのだとしたら、
実際にはセーフガードが機能せず、犯罪が起こり、弱者が食い物にされているのだとしたら、
生命倫理という学問には、
自分たちが提唱したセーフガードの効果を検証し、
自分たちがGOサインのお墨付きを与えたという事実について
とるべき責任があると思うのだけど──?
自分たちが提唱したセーフガードの効果を検証し、
自分たちがGOサインのお墨付きを与えたという事実について
とるべき責任があると思うのだけど──?
2009.09.01 / Top↑
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