「介護保険情報」(社会保険研究所)という雑誌に
大阪大学大学院の堤修三教授の「パンセ - 社会保障をめぐって」という連載があって、
大阪大学大学院の堤修三教授の「パンセ - 社会保障をめぐって」という連載があって、
時には途中でドロップしそうなほど難解なこともあるのだけど、
論理的で鋭利な刃物のような批判の筆さばきを、いつも楽しみに読んでいる。
論理的で鋭利な刃物のような批判の筆さばきを、いつも楽しみに読んでいる。
昨日、仕事の都合で今年の3月号を引っ張り出したついでにめくってみたら、
前にも読んだはずの「パンセ」に改めて新鮮に響いてくる言葉があった。
前にも読んだはずの「パンセ」に改めて新鮮に響いてくる言葉があった。
この回のタイトルは「無名で有用の人々 有名で無用の人々」。
昨今の官僚バッシングについて書かれた文章で、
(ちなみに堤氏は介護保険創設に功績の大きかった元厚生官僚)
前半の文意は、
(ちなみに堤氏は介護保険創設に功績の大きかった元厚生官僚)
前半の文意は、
官僚は官僚機構の一員に過ぎず、個々の官僚にそれほどの権限があるわけではない。
通達も職名で発するのだから官僚とは本来無名の人である。
そこを勘違いする官僚がいると、世の中に迷惑が及ぶ。
官僚個人の責任を追及できるシステムを望むなら、上位者を政治任命にする方法を
官僚機能の変革として国民が慎重に選択することは可能だ。
通達も職名で発するのだから官僚とは本来無名の人である。
そこを勘違いする官僚がいると、世の中に迷惑が及ぶ。
官僚個人の責任を追及できるシステムを望むなら、上位者を政治任命にする方法を
官僚機能の変革として国民が慎重に選択することは可能だ。
でも、この文章が面白いのは後半で、
一方、大学教員は匿名で論文を書くなどありえない有名の人であるが
書いた論文が現実社会の何かの決定に直接結びつくわけではないから、
自分の仕事が無用であることに耐えなければならない。
それに耐えられない人が時に政府の審議会などに積極的に出て行って政策にコミットし、
引き換えに研究者としての自由な立場を失うのだ、と。
書いた論文が現実社会の何かの決定に直接結びつくわけではないから、
自分の仕事が無用であることに耐えなければならない。
それに耐えられない人が時に政府の審議会などに積極的に出て行って政策にコミットし、
引き換えに研究者としての自由な立場を失うのだ、と。
思わず笑ってしまったのは以下の言葉で、
自分の興味のあることを自分の名前で書いて、
それが直ちに有用であるなどという、旨い話があるわけないではないか。
それが直ちに有用であるなどという、旨い話があるわけないではないか。
大学教員も無用者の自覚を持って自在の仕事をし
それが万一、有用に繋がることがあれば、
得難い僥倖と考えるべきだろう。
それが万一、有用に繋がることがあれば、
得難い僥倖と考えるべきだろう。
ついでに、ブロガーって「無名で無用の人々」だよね……と考えて、笑ってしまった。
引用の関係で、ちょこちょこ実名は出してはいるけど、
私はまったく無名のライターだから、
このブログも無名の人がやっている無用のブログなのだけど、
私はまったく無名のライターだから、
このブログも無名の人がやっている無用のブログなのだけど、
それでも始めた当初は
自分が勝手に興味を持って調べているうちに行き当たったAshley事件の“真相”に
どうにも許せない……こんなの放っておけない……みんなに知らせなきゃ……
なんて、むちゃくちゃ肩に力を入れて気負いこんでいた。
自分が勝手に興味を持って調べているうちに行き当たったAshley事件の“真相”に
どうにも許せない……こんなの放っておけない……みんなに知らせなきゃ……
なんて、むちゃくちゃ肩に力を入れて気負いこんでいた。
Ashley事件の真相が隠蔽され、問題の本質が摩り替えられ、一般化されていくのを、
何とか、とめられるのではないか、と、どこか本気で考え、願ってもいたし。
何とか、とめられるのではないか、と、どこか本気で考え、願ってもいたし。
一方では「ペリカン文書」が頭の隅っこにチラついて、
新しいエントリーをアップするたびに胃が痛くなるほど恐ろしくて
手も震えんばかりの緊張でガチガチで。
新しいエントリーをアップするたびに胃が痛くなるほど恐ろしくて
手も震えんばかりの緊張でガチガチで。
当時このブログを読んでくれる人は1日にせいぜい5人くらいだったのだけど。
しかも5人のうち毎日1人は必ずウチの配偶者で、もう1人が心優しい編集者さんで。
(あと1は、もちろん自分で)
しかも5人のうち毎日1人は必ずウチの配偶者で、もう1人が心優しい編集者さんで。
(あと1は、もちろん自分で)
配偶者が、この前「今でこそ明かすが」という口調で打ち明けたところによると、
会社でわざわざ複数のPCからチェックしてカウントを上げてくれたこともあったらしい。
まるで「最後の一葉」みたいだ。
会社でわざわざ複数のPCからチェックしてカウントを上げてくれたこともあったらしい。
まるで「最後の一葉」みたいだ。
自分としては、それなりに、ものすごいことを書いていると思っているのに
誰にも相手にされないことに一人で鬱々していた時期もあった。
誰にも相手にされないことに一人で鬱々していた時期もあった。
ちょっとカウントが増えた日には、なんとなく気分が浮き立って、
誰も来てくれない日には、自分が無意味なことに一人で必死になっているバカに思えて落ち込み、
何かの拍子にわっとカウントが非日常的なレベルに跳ね上がると、
世の中の人たちみんなから認めてもらったような錯覚を起こして嬉しがった。
誰も来てくれない日には、自分が無意味なことに一人で必死になっているバカに思えて落ち込み、
何かの拍子にわっとカウントが非日常的なレベルに跳ね上がると、
世の中の人たちみんなから認めてもらったような錯覚を起こして嬉しがった。
そんな、いろんな体験を経て、それでも2年以上やっていれば、
日本語と英語の2つのブログを通じていろんなことを知り、いろんな人と出会った。
ブログを通じて見えてくるものが当時とは比べ物にならないほど広がった今、
日本語と英語の2つのブログを通じていろんなことを知り、いろんな人と出会った。
ブログを通じて見えてくるものが当時とは比べ物にならないほど広がった今、
他人の目にどう思われているかではなく、常に自分自身の目で、どうなのか。
問題にすべきはそれだけだ、と考えることを学んだ。
少なくとも、そう考えようと努めることを学んだ。
少なくとも、そう考えようと努めることを学んだ。
「誰にやれと言われてやっていることでもないんだからさっ」というのが
いつのまにかブログ関連で落ち込むことがあった際の口癖になった。
いつのまにかブログ関連で落ち込むことがあった際の口癖になった。
それでも今でも時々、ブログの魔力には気をつけなければ……と自戒するのは
やっぱりカウントに左右されている自分の気分に気づく時。
やっぱりカウントに左右されている自分の気分に気づく時。
このブログに何らかの役割があると考えて、
それを果たそうと力み、“がんばって”しまっている自分に気づく時。
それを果たそうと力み、“がんばって”しまっている自分に気づく時。
自分がしてきた仕事が正当に認められないとボヤく心の声に気づく時。
有名であれ、無名であれ、人はみんな、
自分のやっていることは有用な仕事なのだと考えたがっている。
自分のやっていることは有用な仕事なのだと考えたがっている。
そこへ、
自分の好きなことをやっていて、それがそのまま有用であるなどという
旨い話があるわけないではないか、と、卑しいスケベ心を見透かす、みごとな一喝……
自分の好きなことをやっていて、それがそのまま有用であるなどという
旨い話があるわけないではないか、と、卑しいスケベ心を見透かす、みごとな一喝……
――ぶははっ。 まったく、その通りだ。
無名な人が無用のことをやっている。
無名な人が無用のことをやるからこその自在さで──。
無名な人が無用のことをやるからこその自在さで──。
自在であることの得がたさと、
自在でいられることの爽快感に、
「ほら」と指差して気づかせてもらったことの爽快感──。
自在でいられることの爽快感に、
「ほら」と指差して気づかせてもらったことの爽快感──。
ブロガー、ぜんぜん悪くないかも。
2009.08.06 / Top↑
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