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この前から、大統領生命倫理審議会の報告の一部を読みかじって、
生命倫理って治外法権的議論の土俵作りに過ぎないの? という疑問を抱くにつけ、

でも、医学をはじめ科学とテクノの応用と、法の関係について
私はまったく知識がないから、これ以上、考えようがないなぁ……と思っていたら、

こういう時って、シンクロニシティっていうんだっけ、
例の「まるで仕組まれたかのような偶然」が起こってくれるもの。

非常勤で英語を教えている大学の図書館が
「教職員でも学生さんでもご自由に」と、古くなった雑誌をずらっと並べてくれていた中に、
ジュリストのNo.1339(2007・8・1-15)特集「医療と法」を発見。

早速ありがたく頂戴して、めくってみたら
冒頭の「先端医学・生命科学研究と法」という京都大学の位田隆一教授の論文に
知りたかったことが、ちゃんと書かれていた。


医学研究を規律する規範の形態として、

最上位にくるのが拘束性の高い法律。
国家権力によって、その規律の効果が担保される。

その次のレベルにくるのが国の作る指針(ガイドライン)で
これには法律に基づくものと基づかないものとがあって、
前者は法律と同じ拘束力を持つ。

後者はどちらかといえば行政施策の円滑な運営のためのもので、
前者よりも拘束力は弱い。

さらにその下位に、専門家集団による自主規制としての指針(ガイドライン)がある。

これら、後者の2つのように法的拘束力を持たない、
法と法でないものとの中間的な存在のものを総称して「ソフト・ロー」と呼ぶ。
ソフト・ローは1970年代後半から国際法分野から出てきた考え方。

位田氏によれば「ソフト・ローの実効性は、それを遵守する側の意識に依存する」

国家の権力的な介入の意思と、
「患者の治療という高い価値」、「科学研究の自由という基本的人権」の相克の中で、
専門家集団の自律が機能し、ソフト・ローの実効性が保たれている限りは
ハード・ローによる規制の必要はない、というのが現在の考え方。

位田氏は、特に日本では、こうしたソフト・ローがうまく機能してきた、とも。

論文は、
クローン技術、ES細胞、ヒトゲノム・遺伝子解析それぞれの研究規制について概観した後
次のように書き、広義の生命倫理法体系が必要な時期だと提言している。


法は、一方で科学研究の自由を保護し、またその成果の応用を促進する役割があると同時に、研究に参加する試料提供者や患者の保護を図らなければならない。こうした研究の自由と提供者の保護の対峙の基盤には、人間の尊厳と人権という社会における基本的価値がある。この基本的価値の上にこそ、先端医学・生命科学研究はその意義を見いだし得るのであり、その尊重なくしては科学技術は成り立たない。


これを読んだのが、7日の夕方だった。
たまたま、その夜、昼間に行われた参議院厚労委員会の
臓器移植法改正の参考人質疑を国会のサイトで見ていたら、

参考人の米本昌平氏が、これに関連した発言をされた。

具体的な文言は違っているかもしれないけど、
だいたい、次のような趣旨の発言だったと思う。

メディカル・プロフェッションの独立性と、法による国家の統治構造との間には
何度も揺り戻しが起こってきた。

独立性を守ろうとするのであれば、メディカル・プロフェッション自身が
社会通念から認められる形で、専門家集団として、きちんと自己統治をするべきである。

つまり、米本氏は、臓器移植については、法改正を求める前に、
移植医療のサイドで、まずソフト・ローの整備をきちんとやりなさいよ、
社会通念を無視して突っ走ることはできませんよ、ということを
言われたのかな、と思いつつ聞いたのだけど、

(たとえば、週刊文春の今週号に柳田邦夫氏が書いておられる
柳田さん、もっと臓器をとりやすくできるように、法律を改正してくださいよ
といった移植医療の専門医の意識とか)

とりあえず、お2人の専門家から、
医学と科学の研究、そして、多分プラクティスにおいても、
医師や科学者の独立性と、国家権力による統治・介入との間に対立があるということを学べて、
改めて知識として頭にしっかり座った。


      -------

すると、やっぱり思い出すのは、Ashley事件からずうっと引っかかっている
2007年シアトル子ども病院生命倫理カンファで Norman Fost 医師が繰り返した主張。

「裁判所には医師を罰する実効性はないのだから無視して、拒みたい治療は拒め。
やりたいことがあったら、できなくなるだけだから裁判所には行くな」

「医療については医師が決めればいいのだ」

確かに、例えば、知的障害者の不妊手術でも、
裁判所の命令を必要とすると州法で規定されている州が多いとはいえ、
それこそ医療職の側の遵守が前提だから、
医師と家族との間に対立さえなければ、
ほっかむりでやってしまうことも可能なわけで
実効性・拘束性はないに等しい。

(米国では個々のケースの医療については州ごとの判断とされていますが、
じゃぁ、州法はソフト・ローに過ぎないのか。それとも
日本でいうハード・ローと、ソフト・ローの中間的なところに州法がある、ということ?)

現にAshleyへの侵襲は水面下で行われて2年も公表されなかったし、
公表された後にWPASの調査を受けて、子宮摘出の違法性を病院が認めたにもかかわらず、
誰も処罰されていないどころか、当該医師はまるで違法行為などなかったかのように無反省な行動を続け、

今回の成長抑制療法論文でも
裁判所の命令なしには行わないとするWPASとの合意を反故にして
病院内倫理委員会の承認さえあれば実施しても倫理的に問題は無いと主張している。

つまり「医療については病院が決めればいいのだ、裁判所はいらない」と。

Norman Fostは極めてトランスヒューマニスティックなスタンスの医師――。
Ashleyの父親は、おそらくはMicrosoftの幹部で、同じく科学とテクノの合理の申し子――。

Ashley事件と、その、これまでの展開は、
今の時代の向かっている方向の象徴のように感じられてならない。

もしかしたら科学とテクノは、
その急速な進歩と、科学とテクノ万能信仰の勢いを借りて
法の束縛から自由になろうと駄々をこね始めている──?

 
2009.07.11 / Top↑
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