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シスター Dorothy Quinn 87歳。
NY 州Rochester郊外のSt. Joseph修道院のナーシング棟でケアされている。
一時は重態で酸素タンクにつながれ、足はむくみ、既に食欲もなかった。

心臓病の専門医は23種類もの薬を処方したが、老年医の選り分けによって
シスターはそのほとんどを飲まないことにした。

片方残っている乳房にしこりがあるが、マンモグラムも受けないことに決めた。
激しい治療に体が耐えられないと思うからだ。

その後、状態が改善し、週単位から月単位へと予後がよくなっても
Dorothyさんの望みは、生き続けることではなく、
趣味だったキルト作りがまたできるようになること。

「死は怖くはありません。死にそうになっていた時も怖くはありませんでした。
あるところまでくると自分で分かるんです。ああ、もう、あとは自然に任せよう、と(when to let it be)」

St. Josephでは、建物を1つ売却して、あらたに終末期ケア用の施設を作った。
現在40人がアシスティッド・リビングで、他の40人がナーシングホームと認知症ユニットで
ケアを受けている。

シスターたちは、希望すれば先端医療を受けることもできるが、
大半は病院でのアグレッシブな治療を望まず、
仲間のシスターたちに見守られて、ここで穏やかな死を迎えている。
最後に誰かが病院で亡くなったのは思い出せないほど前のことだ。

彼女らのプライマリー・ケアを担うのはRochester大学の老年医学の専門医 Dr. Robert C. McCann。

シスターたちとの長い付き合いの中で、
危機的事態に陥る前に長期のケア目標を設定することや、
栄養補給や呼吸器についてどうするか、といった判断など、
病院の集中治療室の忙しさの中では不可能な判断が可能となる。

より多くの治療をすることが、必ずしも、より良い治療ではないという姿勢、
より少なく行うことが、却って、より多くを行うことになる(less is more)ホスピスの理念が
ここでは病院に比べて受け入れられやすい。
それが、より良い選択に繋がっていく。

病院で見るよりも、彼女たちの方が良い死を迎えているのは、
哲学と流れに任せる姿勢(happenstance)のコンビネーションによるものだろうと、Dr. McCann。

シスターたちは信仰によって実存的な苦しみを免れているので、
苦しみも抑うつも少なく、終末期に使用する麻薬の量が通常の3分の1ほどでよい、という。

また、彼女らが高度な教育を受けていること、
引退後にも、積極的に活動を続けていることも影響している。
あるシスターはホームレスを支援する法律事務所を設立。
刑務所で初の女性チャプレンとして活躍した人もいる。
90代のあるシスターはアルツハイマー病の70代のシスターを見舞うことが日課だ。

人と人との大きなネットワーク。
知的刺激。
人生やスピリチュアルな信念と関わり続けること。

サクセスフル・エイジングと穏やかな死のために必要だと
数々の研究が挙げるファクターがここには全て揃っている。

McCann医師は、病院から直接修道院にやってくると、
両者のあまりの違いに頭がくらくらすることがあるという。
病院や集中治療室では、死は苦しく、非人間的になることがあり、無意味に高価でもある。
ここでは、人々に一番大切なものに焦点を絞って、
無用なものをちゃんと見分けることができるのに、と。

Stanford大学のthe Center on Longevityのディレクターである Laura L. Carstensen氏は
終末期医療の政策議論になると、すぐに安楽死か、それとも年齢で線引きした配給医療かと
2者択一で語られる傾向があるが、St. Josephの実践は反省材料になる、という。

「生きさせるために全ての手を尽くすか、さもなければ路上で野垂れ死にか」みたいな
アメリカ的「白か黒か」の発想をやめて、もっと丁寧な議論をするヒントがここにある、と。

Sisters Face Death With Dignity and Reverence
The New York Times, July 8, 2009


日本にも、仏教ホスピス「ビハーラ」の取り組みがある。

もう具体的な内容は覚えていないけど、ずっと前に読んだ
藤腹明子著「仏教と看護  ― 傍らに立つ(ウパスターナ)」という本は、とても心に響いた。

重症児の母親として体験した医療の中で、
どうして、この人たちは、いつも私たち親子の正面に立つのだろう、
なぜ正面の高いところから見下ろしながら、私たちに対峙するのだろう、
なぜ、傍らに、同じ方向を向いて、一緒に立ってくれないのだろう……と
いつも感じてきた寂しさに、応えてくれる医療がそこにあったからだろうと思う。

上記記事の中で、St. Josephの修道院長さんの言葉がとても印象的で
「私たちは生にも死にも同じ姿勢で臨んでいます。洞察というアプローチで」

これこそ、「納棺夫日記」で青木新門さんが書いていたことなんじゃないのかな。
つまり、生と死は別々のものではなく、生死という受け止め方。

7日の記事にmug*il*34さんがコメントで書いてくださった「生き死に」という捉え方。


同時に、思い出したのは、
Pediatrics誌6月号にDiekema、Fost両医師らが書いた成長抑制正当化論文の一説で
Ashleyに知的障害があるからといって侵襲してもいいのか、との批判に対して

Moreover,”doing nothing” in the situations under discussion cannot be assumed to lead to the best outcomes for these children.

それに、ここで問題になっている状況で「何もしないこと」が
このような子どもたちに最善の結果をもたらすことになるとは思えない。

「医療で何もしないこと」は、必ずしも「いっさい何もしないこと」ではないし

何か人間にとって役に立つことができるのは
医学を含めた科学とテクノロジーだけだと、思い上がらないでほしい。

一般の無知な大衆である私たちのほうも、そろそろ
科学とテクノロジーの可能性という閉じられた世界の中からものを見ている人たちと
同じ言葉で同じところから同じものを見ているような錯覚から抜け出して、

本来、私たちがいるところは、もっと広く開けた、もっと豊かな世界なのだということを思い出し、
薄っぺらい論理や”合理”を超えた、もっと深い”洞察力”を取り戻したほうがいいんじゃないだろうか。


2009.07.10 / Top↑
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