(前のエントリーからの続きです)
その2人のエッセイを受け、
Shakespeareの文章は事実を偽っていると指摘しているのが、米国の Not Dead Yet のStephen Drake 。
Shakespeareの文章は事実を偽っていると指摘しているのが、米国の Not Dead Yet のStephen Drake 。
Shakespeareはここ2年ほど、
たいていの場合「ターミナル」を定義しないまま、
ターミナルな人の自殺幇助の合法化を支持して盛んに発言し、
合法化に反対する障害当事者の活動家や障害者団体を批判しているが、
「Campbellは間違っている」と書いたShakespeareは間違っている。
あまりにも安易な論理と不正確な情報で書かれたエッセイで、
学者としてあまりにも不誠実である。
まず、Dignitasの“サービス”が支払いさえすれば無差別のものだということは
以前から周知の事実だったのであり、ターミナルでない英国人が含まれていたことは
いまさら驚いてみせるような事実ではない。
次に、スイスへ付き添っていった家族が罪に問われていないことが
法の不合理を証明するかのように説いているが、
家族に付き添われてスイスで死んだ人の全てがターミナルだったわけではなく、
その中には、Daniel Jamesの両親も含まれている。
Shakespeareは、ターミナルでない人に付き添っていく行為も
告発の対象外とせよと主張するのか。
そもそも彼の言う「ターミナルな状態」とは?
MS患者や、年齢とともに進行する慢性病の患者では、
どういう状態がターミナルで、どういう状態ならターミナルでないというのか?
しかし、ただの論理展開の戦術ですまないのは
彼がヨーロッパ各国の尊厳死法について事実を述べていないことだ。
オランダ、ベルギー、ルクセンブルクは自殺幇助と安楽死の対象を
ターミナルな病気に限定していない。
そんなことも調べずに書いたとしたら学者として許されることではない。
知っていて、読者をミスリードしているなら、それは知的な不誠実である。
どんな意見を持とうと個人の自由だが、
事実を偽るような不誠実は許されない。
Tom Shakespeare Makes a Less Than Honest Case For Assisted Suicide
NDY Blog, July 8, 2009
たいていの場合「ターミナル」を定義しないまま、
ターミナルな人の自殺幇助の合法化を支持して盛んに発言し、
合法化に反対する障害当事者の活動家や障害者団体を批判しているが、
「Campbellは間違っている」と書いたShakespeareは間違っている。
あまりにも安易な論理と不正確な情報で書かれたエッセイで、
学者としてあまりにも不誠実である。
まず、Dignitasの“サービス”が支払いさえすれば無差別のものだということは
以前から周知の事実だったのであり、ターミナルでない英国人が含まれていたことは
いまさら驚いてみせるような事実ではない。
次に、スイスへ付き添っていった家族が罪に問われていないことが
法の不合理を証明するかのように説いているが、
家族に付き添われてスイスで死んだ人の全てがターミナルだったわけではなく、
その中には、Daniel Jamesの両親も含まれている。
Shakespeareは、ターミナルでない人に付き添っていく行為も
告発の対象外とせよと主張するのか。
そもそも彼の言う「ターミナルな状態」とは?
MS患者や、年齢とともに進行する慢性病の患者では、
どういう状態がターミナルで、どういう状態ならターミナルでないというのか?
しかし、ただの論理展開の戦術ですまないのは
彼がヨーロッパ各国の尊厳死法について事実を述べていないことだ。
オランダ、ベルギー、ルクセンブルクは自殺幇助と安楽死の対象を
ターミナルな病気に限定していない。
そんなことも調べずに書いたとしたら学者として許されることではない。
知っていて、読者をミスリードしているなら、それは知的な不誠実である。
どんな意見を持とうと個人の自由だが、
事実を偽るような不誠実は許されない。
Tom Shakespeare Makes a Less Than Honest Case For Assisted Suicide
NDY Blog, July 8, 2009
私がこの3本を読んで個人的に感じたこと、考えたこととして、
・ CampbellもShakespeareも(特にShakespeareで)、
自分で意思を表現することの難しい障害者のことが頭から抜け落ちている。
自分で意思を表現することの難しい障害者のことが頭から抜け落ちている。
・ここ最近のいつからか、英国の議論はassisted dying に表現が切り替えられている。
(文末に関連エントリーへのリンク)
ここでも2人とも、assisted dying という表現を使っている。
・Campbellのエッセイへの読者コメントのトーンが、いつもながら、ひどい。
(文末に関連エントリーへのリンク)
ここでも2人とも、assisted dying という表現を使っている。
・Campbellのエッセイへの読者コメントのトーンが、いつもながら、ひどい。
「アンタがそう思うのは勝手だけど、だからといって、なぜアンタに
他人の自殺する権利にまで口を出す資格があるのよ」
他人の自殺する権利にまで口を出す資格があるのよ」
「誰も、アンタに死ねとは言ってないだろ。
死にたい人に死ぬ権利があるというだけなんだよ、すっこんでろ」といった
論旨とトーンのものが多い。
死にたい人に死ぬ権利があるというだけなんだよ、すっこんでろ」といった
論旨とトーンのものが多い。
障害者の視点からの社会への異議申し立てに対して、
嫌悪感や反発が露骨になってきている感じがしてならない。
嫌悪感や反発が露骨になってきている感じがしてならない。
でも、考えてみれば、これ、今の日本の臓器移植法改正議論と同じ論理だな、と。
「臓器あげたくないという人にまで提供しろとは言っていない。
したくなければ、したくないと意思表示すればいいだけのこと。
適当なセーフガードがあれば、それで何の問題があるのだ?」
「臓器あげたくないという人にまで提供しろとは言っていない。
したくなければ、したくないと意思表示すればいいだけのこと。
適当なセーフガードがあれば、それで何の問題があるのだ?」
反対している人が言っているのは、個々のケースで起こることだけでなく
そのことが社会の価値観に及ぼす影響まで含めて懸念しているということ、
そのことが社会の価値観に及ぼす影響まで含めて懸念しているということ、
個人の選択権が喧伝されることが個人の選択を超えた社会の圧力となっていくことの懸念を
分からないのか、分かっていて分からないフリをするのか……。
分からないのか、分かっていて分からないフリをするのか……。
・Shakespeareは区別すべきことを区別せず、グズグズのまま議論している。
一番引っかかったのは以下の部分。
As a supporter of disability rights, I back the right of disabled people to have control over the time and manner of their death, so they can avoid unbearable suffering and achieve dignity in dying. Being disabled in itself is no reason to die, but for many of those who have terminal illness, controlling the circumstances of their death becomes very important.
「障害」=「ターミナルな病気」ではないのだから、
この部分だけで、相当な自己矛盾をきたしている。
この部分だけで、相当な自己矛盾をきたしている。
これ以外のところでも、文脈によって
「障害者とターミナルな人」と言ったり、「ターミナルな人」だけに触れていたり、
いったいどういう障害像または病状の人への自殺幇助を合法化しろと言っているのか
はっきりしない。
「障害者とターミナルな人」と言ったり、「ターミナルな人」だけに触れていたり、
いったいどういう障害像または病状の人への自殺幇助を合法化しろと言っているのか
はっきりしない。
しかし、もしも「障害がある人がターミナルになった場合」のみを言っているのであれば、
「ターミナルな人」というだけで、そこに含まれるのだから、
「ターミナルな人」というだけで、そこに含まれるのだから、
わざわざ「障害者とターミナルな人」と両者に触れている以上、彼は
「障害はあるがターミナルではない」人も対象に含めているのだと思う。
「障害はあるがターミナルではない」人も対象に含めているのだと思う。
しかし、その状態で死ぬことに尊厳があるとする彼の主張は、
ターミナルではなくとも「障害のある状態で生きること」には尊厳がないと言い始めている
多くの人の価値観に組することにならないか?
ターミナルではなくとも「障害のある状態で生きること」には尊厳がないと言い始めている
多くの人の価値観に組することにならないか?
もう1つ、この問題で意見が分かれているのは障害者も健常者も同じだと
話を簡単に一般化していいのか、という点。
話を簡単に一般化していいのか、という点。
社会には障害者への差別がない、既に解消されていると考えるのでなければ、
障害者の間でだって意見が分かれているのは健常者の間で分かれているのと同じだ、とは
言えないのでは?
障害者の間でだって意見が分かれているのは健常者の間で分かれているのと同じだ、とは
言えないのでは?
奪われてきたから、それを取り戻すべく主張され獲得されてきた障害者の自己決定権と
死の時期と死に方とを自分で決めてもよいとする死の自己決定権は地続きではなく、
前者の延長上に後者があるわけではないと思う。
死の時期と死に方とを自分で決めてもよいとする死の自己決定権は地続きではなく、
前者の延長上に後者があるわけではないと思う。
結局、Shakespeareの主張は
「障害者にも死の自己決定権を」というよりも
「障害者だからこそ死の自己決定権を」と聞こえて、
「障害者にも死の自己決定権を」というよりも
「障害者だからこそ死の自己決定権を」と聞こえて、
「障害のある生は、社会の姿勢や支援によらず、苦しく生きるに値しない」と
今の英米の社会がじわじわと広げている価値観を裏付けることになるような気がする。
今の英米の社会がじわじわと広げている価値観を裏付けることになるような気がする。
・Stephen Drakeの文章の中に、オランダの障害新生児の安楽死に関する情報が出ています。
ざっと読んだだけでは、よく分からないのですが、
いずれ、ちゃんと読みたいと思うので、メモとして以下にリンクを。
ざっと読んだだけでは、よく分からないのですが、
いずれ、ちゃんと読みたいと思うので、メモとして以下にリンクを。
【関連エントリー】
Tom Shakespeareが「自殺幇助合法化せよ」(2009/3/15)
「自殺幇助」なんと今度は「幇助死」に化けたぞ(2009/6/24)
「死の幇助」とは本来ホスピスケアのことだった?(2009/6/24)
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