2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
Debby Purdy さんが求めている方向で法の明確化を実現する法改正案を
このたび英国議会に提出する 2人の議員の一人 Charlie Falconer 氏が
改正案の理念や内容を説明する文章をTimesに寄せている。

概要はこれまで当ブログで拾ってきたものと同じ論理に沿ったもので、
だいたい以下のような感じ。

現在の英国法では自殺希望者を海外へ連れて行く行為は違法とされている。
実際にはそれで罪に問われた人はいないし
23歳の元ラグビー選手がDignitasで自殺した事件で
両親が警察の取調べは受けたものの、それ以上の追及を受けなかったことで
そうした行為は罪に問われないとの前例もできたわけだけれど、
依然として法において犯罪であることには違いはない。

Purdyさんが言うように、
有罪とされるリスクは依然としてあるのだから、
そこを明確化しなければならない。

改正案の趣旨は、
愛する人の人生の最後を支えるべく海外のクリニックに付き添う人を
自殺幇助を合法とする国での自殺を可能とし、それを支援する目的の場合に限って
保護しようとするもの。

セーフガードも設けた。
それぞれ無関係な医療職2人によって
自殺希望者がターミナルであることと意思決定能力があることの2点が確認される必要。
さらにこのような形で自殺を希望するとの書面による意思表示が
身近な友人でも親族でも介護者でもなく
その人の死から利益を得ることのない独立した証人立会いの下で書かれていること。

A more civilized approach to suicide
Escorting a loved one on the final journey to a Dignitas clinic should not be a criminal offence
By Charlie Falconer
The Times, June 3, 2009

この記事の内容で見る限り、
セーフガードとして付いた条件は米国オレゴンやワシントンの尊厳死法の条件を参考にしており、
将来の自殺幇助そのものの合法化へのステップであることが明らかですが、

反面、自殺希望者が「ターミナル」であることを求めつつ
オレゴンやワシントン州の尊厳死法のように「余命6ヶ月以内」とまでは厳密ではない、
「耐え難い苦痛がある」との条件がはずされている、
幇助自殺希望の意思表示が一定期間をあけて再確認されることを求めていない、など
それらに比べて、はるかに厳密さを欠いたものとなっています。

また、かなり気になる記述として、

This amendment does not affect our approach to palliative care. People should be able to access high-quality end-of-life care. On the whole, those travelling abroad to die are not doing so because of a failure of modern medicine to alleviate their physical suffering. They are doing so because they want to take understandable control over the time and manner of their own deaths. Better palliative care is not going to prevent increasing numbers of people wanting to go abroad to die. There is no hiding from this fact.

幇助自殺は死ぬ時期と死に方を自分で決めたいという話であり、
緩和ケアが苦痛を十分にとりきれない現在医療の欠陥が問題だというような話ではない、
良質な緩和ケアへのアクセスは保障されるべきだが、
緩和ケアが改善されたからといって海外で死にたい人が減るわけではない、と。

つまり、これは死の自己決定権、コントロールの問題だというわけですね。


実はBBCのインタビューでPurdyさんも
将来の「動けない体で自分ではどうすることもできない痛み」を想像すると
そうなるよりも先に死にたいと語っています。

Purdyさんの言う「自分ではどうすることもできない痛み」という表現は、
確かにコントロールの問題なのだけれど、
ここで彼女が言っているのは「痛みのコントロール」であり
Falconer議員の言うように「死ぬ時と死に方のコントロール」ではないことに注意したい。

自殺幇助希望者が苦しんでいるのは「現状」ではなく、
むしろ将来自分が経験することを想像して、それが自分には耐えられないと感じるので、
そのリスクから自分を守ろうとしている先取り不安なのだ、とのOregonからの調査報告もあります。

この研究を発表した著者らは
自殺希望者から相談を受けたら、
まず医師は患者の「自分ではどうすることもできない」という感じを
拭い去る努力をしなければならないと説いています。

この「自分ではどうすることもできない」という部分を
Purdyさんの「自分ではどうすることもできない痛み」という言葉と重ねて考えると、
自殺希望者が求めているコントロールの対象は
Falconer議員がいう死ぬ時と死に方ではなく、
痛みであり症状のコントロールではないでしょうか。

それならば「痛みのコントロール」が可能であれば
「死ぬ時期と死に方のコントロール」は不要ということになり、
緩和ケアが十分に行われれば自殺希望者は減少するはず。

すなわちFalconer議員の上記の主張は否定されることになります。

        ―――――――――――――

私は最近よく考えるのですが、

余命が6ヶ月以内と非常に限られていて、なおかつ耐え難い苦痛がある人に限って、
意思決定能力があると確認されれば医師による自殺幇助を認めるという
既存の各国の尊厳死法の理念を

死ぬ時と死に方が既に決定付けられてしまった人に対して
消極的安楽死から、さらに一歩踏み出した積極的安楽死として
医師による自殺幇助を位置づけたものと考えるならば、

それは、むしろ「死ぬ時と死に方を自分で決める権利」としての死の自己決定権とは
逆方向のものなのではないでしょうか。

「死の自己決定権」を主張する人の多くは
「余命6ヶ月以内で耐えがたい苦痛がある人」という要件を
いとも簡単に無視して自殺幇助合法化の議論を進めてしまうけれど、

それは本当は別の問題、問題のすり替えではないのか、という気がする。


自殺幇助希望者の増加はもはや防げないのかもしれない……とは私も考えるけれど、

でもそれはFalconer議員が言うように、緩和ケアが無力だからでも
希望者の動機が痛みの緩和と無関係だからでもなく、

本来は逆方向の理念であるはずの積極的安楽死の問題を死の自己決定権の問題に飛躍させ、
問題を摩り替えてしまった対象者なんでもありのグズグズの議論
どんどん広がっているから、その影響できっと増加するのだろうな……と
想像するのであり、

そのグズグズの議論が向かう、さらに先にあるのは
Giderdale事件に見られるような「自殺幇助希望の代理決定としての慈悲殺」であり、
無益な治療論との合流なのだろうな……と想像すると、なんだかやりきれない気分になる。
2009.06.03 / Top↑
Secret

TrackBackURL
→http://spitzibara.blog.2nt.com/tb.php/652-6141d995