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選ばないことを選び、生きられるだけ生きるのエントリーをアップした日に、
夕方のニュース番組で見た特集。

13年前、高校生だった時に校庭で落雷に遭って重い障害を負った男性が
生きていても何もできないのだから、いっそ死にたい。
死んで臓器移植のドナーになれば何かの役に立てる」と
考えるところまで一度は追い詰められたけれど、

その後のリハビリや父親のガンとの闘病、死去と様々な体験を通じて
少しずつ前向きに生きようとするようになっていった姿が紹介されていた。

そして、今の彼は
救ってもらった、この命も、いつかは終わる日が来る。
 その時まで、悔いの残らないような生き方をしたい」と。

この人もまた、選ばないことを選び、
生きられるだけ精一杯生きようとしているのだな、と思いつつ、この言葉を聴いた。

そして、
事故で寝たきりになり「2流の人間として生きるのは耐えられない」と
スイスのDignitasクリニックで幇助自殺を遂げた英国人の23歳のラグビー選手を思い出した。

私は彼の話を聞いた時からずっと、
「生きてみなければ分からないのに……」ということを考え続けている。

23歳のラグビー青年にも、この日本人男性と同じように、様々な葛藤を経た後に
「いつか終わる命なら生きられるだけ悔いのないように生きよう」と言える境地に
到達する可能性だってあったのではなかったか……と、改めて思う。

本当に彼が死にたいほどの絶望から這い出すことができないのかどうか、
彼自身がもっと先まで生きてみなければ分からないことだったのに、
両親は彼がそれまで生きてみるだけの時間を支える代わりに
「その絶望も分かる」とスイスに連れて行って死なせてしまった。

英国社会も、両親の行動に理解を示して罪には問わないこととした。

そんなふうに
「障害を負うのは、死すら認めてあげなければならないほどに
耐え難く不幸で苦しいこと」という認識を社会が共有してしまったら、

そこには「生きてみなければ分からない」という希望も可能性もなくなって
重い障害を負うことは「生きてみなくても、絶対に不幸」に決定付けられてしまう。

そんな社会で事故や病気で中途障害を負う人は誰も
当初の絶望から立ち直ったり、前向きさを取り戻したりすることもなくなるだろう。
「障害は負ったけど、生きてみたら、不幸なばかりでもなく、
それなりに楽しみや喜びもあった」と見つけていく人もいなくなるだろう。

そうでなくても
日本の高校生が突然重い障害を負った自分に絶望した時に、
「生きていても障害を負ったら何もできない」
「障害を負っても何かできるとしたら、
臓器移植のドナーになることだけ」という発想をしたと聞いた瞬間に、
私の背中には冷たいものが走った。

日本の普通の高校生が実際にこういう発想をしたのだという事実は、
よくよく考えてみなければならない。

その事実には、とてつもなく恐ろしいものが匂っている。

まさか、こういう絶望の中にいる人に対して、
「そうだよ。君の言うとおりだ。
もう何もできず社会に迷惑をかけるだけの存在になってしまった君にも
死んで臓器のドナーとして誰かの命を救い、社会の役に立つことができる」と
私たちの社会は既に、ささやき始めているのではないのか。

しかしその一方で、一時はこういう発想をした人が、
今は「命が終わる日まで、悔いのないように生きよう」としているのも事実だ。

その2つのことを、しっかり考えなければならない、と思う。
2009.05.06 / Top↑
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