去年12月に行われた日本宗教連盟第4回宗教と生命倫理シンポでの
東大の島薗先生の挨拶と立命の立岩先生の発言部分が
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」のサイトに公開されています。
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」のサイトに公開されています。
立岩先生の発言から、日本尊厳死協会の井形昭弘会長の発言も容易に推測されて
たいへん興味深い内容です。
たいへん興味深い内容です。
感じたこと、考えること、言いたいこと、沢山ありすぎて
読んだのはずいぶん前のことなのに、まだまとまりがつかないので、
とりあえず、激しい不快を感じた井形会長の「ダンディな死」発言についてのみ。
読んだのはずいぶん前のことなのに、まだまとまりがつかないので、
とりあえず、激しい不快を感じた井形会長の「ダンディな死」発言についてのみ。
私は重い障害を持った子どもの母親としての個人的な体験から
障害や介護や医療を論じる際に不用意に美意識を持ち込むのはやめてほしい、と
ずっと考えて、ずっと、そう訴えてきました。
障害や介護や医療を論じる際に不用意に美意識を持ち込むのはやめてほしい、と
ずっと考えて、ずっと、そう訴えてきました。
私たち障害のある子どもの母親は
一人では到底担い切れない負担の重い子育てや介護を
ろくに支援もない社会から「あなたが母親なんだから」と背負わせられて
一人では到底担い切れない負担の重い子育てや介護を
ろくに支援もない社会から「あなたが母親なんだから」と背負わせられて
ぎりぎりのところに追い詰められながら、かろうじて日々を生き延びるのに必死になっていると
今度はその姿を指差して「なんて美しい母の愛」
「どんな苦難も愛があればこそ」と無責任に手をたたかれ、賛美されてきた。
今度はその姿を指差して「なんて美しい母の愛」
「どんな苦難も愛があればこそ」と無責任に手をたたかれ、賛美されてきた。
そうして「もう限界」「だれか助けて」との悲鳴を封じられてきた。
だから、「美意識の猿轡」は、もう、たくさん!
ずっと前に書いた2冊の本(詳細は「ゲストブック」に)のテーマも
結局はそういうメッセージだったし、
結局はそういうメッセージだったし、
また「介護保険情報」誌の2007年7月号でも
Ashley療法論争の続報としてダブルスタンダードについて書きましたが、
(arsviのAshley事件のページを担当してくださっている堀田さんのおかげで、
読み捨てられる宿命だった月刊誌の連載が復活し、こうして読んでもらえるようになりました)
Ashley療法論争の続報としてダブルスタンダードについて書きましたが、
(arsviのAshley事件のページを担当してくださっている堀田さんのおかげで、
読み捨てられる宿命だった月刊誌の連載が復活し、こうして読んでもらえるようになりました)
障害当事者も、障害児の家族も、世の中から
「にもかかわらず、弱音を吐かず、明るく強く生きる姿」を賛美され、それによって
無言のうちに「障害者らしく、障害児の親らしく、けなげに美しく生きよ」という
メッセージを送られています。
「にもかかわらず、弱音を吐かず、明るく強く生きる姿」を賛美され、それによって
無言のうちに「障害者らしく、障害児の親らしく、けなげに美しく生きよ」という
メッセージを送られています。
そのメッセージは、障害児・者や家族に向かって、あたかも
「人々に感動と勇気を与える社会のオアシスたれ」と言わんばかりで、
なんて勝手な言い草なんだろう……と、私はずっと反発してきました。
「人々に感動と勇気を与える社会のオアシスたれ」と言わんばかりで、
なんて勝手な言い草なんだろう……と、私はずっと反発してきました。
障害児・者や家族を社会のオアシスに祭り上げる人たちは
「愛と感動と勇気を、ありがとう。あなたのおかげで
自分がいかに恵まれて幸せかを教えてもらいました」と
たわけたことを平然とホザく。
「愛と感動と勇気を、ありがとう。あなたのおかげで
自分がいかに恵まれて幸せかを教えてもらいました」と
たわけたことを平然とホザく。
そして、妙にネチっこく「ぐわんばってね」と言って、肩を一つ、ぽん、と叩いたら、
しごく満足した顔になって、立ち去っていく。
しごく満足した顔になって、立ち去っていく。
でもね。
私たち親子は社会のオアシスになってあげるために生きているわけじゃない。
社会の方こそ、手前勝手に「ありがとう」なんてウルウルしていないで
それよりも、私たちが助けを必要とする時に現実の手を貸してください。
私たち親子は社会のオアシスになってあげるために生きているわけじゃない。
社会の方こそ、手前勝手に「ありがとう」なんてウルウルしていないで
それよりも、私たちが助けを必要とする時に現実の手を貸してください。
だいたい、障害があろうとなかろうと、
他人の目に美しく生きなければならない人なんて、いません。
人を感動させるような生き方をしなければならない人も、どこにもいません。
他人の目に美しく生きなければならない人なんて、いません。
人を感動させるような生き方をしなければならない人も、どこにもいません。
美意識とは、
その人の痛み・苦しみと無関係なところに立っている傍観者の贅沢に過ぎない。
その人の痛み・苦しみと無関係なところに立っている傍観者の贅沢に過ぎない。
だから、同じように、
他人の目に美しい死に方をしなければならない人なんて、どこにもいません。
他人の目に美しい死に方をしなければならない人なんて、どこにもいません。
私たちの誰ひとりとして、
その死に方がダンディかどうかを傍から云々される覚えはないはずです。
その死に方がダンディかどうかを傍から云々される覚えはないはずです。
日本尊厳死協会の会長が、安楽死議論の中に
「ダンディな死」という言葉で無責任な美意識を持ち込む――。
「ダンディな死」という言葉で無責任な美意識を持ち込む――。
それは、井形昭弘という個人が
「私は自分がダンディだと考える死に方をしたい」と
好き勝手な個人的理想を口にすることとは、決定的に違う――。
「私は自分がダンディだと考える死に方をしたい」と
好き勝手な個人的理想を口にすることとは、決定的に違う――。
そのことの意味に、井形会長が本当にまるきり無自覚だ……ということがあるだろうか。
Ashley事件でも「障害児の親の愛と献身」は
病院が世論を操作し、倫理委員会の機能不全を隠ぺいするための煙幕に使われました。
病院が世論を操作し、倫理委員会の機能不全を隠ぺいするための煙幕に使われました。
英国の慈悲殺擁護論でも「母親の愛と献身」が頻繁に振り回されて
そのウェットで甘ったるい情緒によって、
個々の事件の事実関係や当事者の実像をしっかり検証する必要から
多くの人の目を逸らせてしまいました。
そのウェットで甘ったるい情緒によって、
個々の事件の事実関係や当事者の実像をしっかり検証する必要から
多くの人の目を逸らせてしまいました。
障害や介護や医療の問題に無用な情緒と美意識が持ち込まれる時、
私は、そこには問題のすり替えや誘導の意図がぷんぷん臭うような気がする――。
私は、そこには問題のすり替えや誘導の意図がぷんぷん臭うような気がする――。
【関連エントリー】
「尊厳死を巡る闘争:医療機器の時代に」1(2008/3/2)
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