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BBCの障害者問題サイトOuch!で障害当事者で障害学研究者のTom Shakespeare
英国でもターミナルな状態の人には自殺幇助を認めるべきだと主張しています。

Shakespeareはこの文章で3つのナンセンスを指摘したいと述べていて、
その3つとは、

①現在、英国議会で審議されている the Coroners and Justice 法案は
ネットの安全性から殺人まで多様な条項を含み、
こんなに雑多なものを1つの法案にまとめて議論することはナンセンス。

②あれもこれも寄せ集めたこの法案に、
ターミナルな人への自殺幇助の合法化が含まれていないのはナンセンス。

国民の8割は賛成しているとの調査もあり、
反対しているのは主に自分たちの少数意見を押し付けたい宗教団体と
一部の緩和ケアの専門家である。

Oregon州の尊厳死法をモデルにすれば十分なセーフガードもあり、
人が苦痛を避けて、自分が選んだときに尊厳のある良い死を望むのは合理的な希望なのだから、
自殺幇助は合法化すべきである。

③障害者団体が自殺幇助の合法化に反対するのは
障害者のマジョリティが合法化に賛成していることを無視しておりナンセンス。

The Disability Rights Commissionの調査では回答者の6割が法改正に賛成したし
2004年のYouGov 調査でも障害のある回答者の8割は賛成した。
障害者が自殺幇助に反対しているわけではない。

自殺幇助が合法化されたら障害者には死ぬことを選べとプレッシャーがかかると
案じる人がいるが、セーフガードは十分だと思うし、
障害者だって自分で決める能力はあると思う。

もちろん障害者団体や障害者運動の活動家が
障害が死よりもひどい状態であるわけではないと主張するのは正しいし
Daniel Jamesのような人は生きるべく支援されなければならないから
自殺幇助はあくまで終末期の患者だけに限らなければならない。

しかし自殺幇助について多様な意見を持つ障害者の中でも
マジョリティは慎重に規制された上での終末期の自殺幇助には賛成している。
障害者団体は一般の障害者の民主的な意思を代表していないし、
これまでバランスの取れた議論を推進してこなかった。

自殺幇助合法化が議会で審議される機会には賛成すべきである。

Death by nonsense
By Tom Shakespeare
Ouch! , March 9, 2009


まず感じたことは、
Shakespeareが②の部分で使っている論理は皮肉にも、
彼自身が痛切に批判した“Ashley療法”問題で
父親やDiekema医師が"Ashley療法”を正当化し、
障害者団体からの批判を別問題に摩り替える口調そのものだということ。

「社会のマジョリティはAshley療法に賛成している。
反対しているのはこの問題を政治利用したい障害者団体だけだ」と。

そもそも
マイノリティの立場から社会に対して異議申し立てをしてきた障害学の学者が
国民のマジョリティが賛成していることや、
障害者もマジョリティが賛成していることを
自分の主張の論拠に引っ張り出すこと自体いかがなものかと思うし、

その文脈で「民主的」という言葉が使われていることにも
強い違和感を感じるのですが、

同時に
「障害者は自分で決める能力を持っている」という発言や
(disabled people are competent to decide for themselves)

世論調査でも障害者のマジョリティは自殺幇助の合法化に賛成だとする自分の主張が
調査に回答できない障害像の障害者を排除していることにまったく無自覚であることに

Ashley事件の時からずっと頭にくすぶっている疑問が重なってしまう。

障害学や障害者運動の活動家の人たちにとって「障害者」というのは、
知的障害を伴わない(または知的障害は軽度の)身体障害者のことに過ぎないのでしょうか。

障害があることは「いっそ死んだほうがマシ」な状態ではないのだと
強く主張しなければならない事態が出来しているのは
こんな文章を書けるShakespeareや軽度・中等度の身体障害者の身の上ではありません。

最重度の身体障害と非常に重い知的障害または認知障害
(または身障の重さからくるコミュニケーション障害)のある人の身の上に起きているのです。

そういう意味で、自殺幇助合法化の問題は
「無益な治療」法ヒト受精・胚法改正に見られる新たな優生思想
決して切り離された問題ではないと私は考えているので、

死の自己決定権が云々される一方で、
無益な治療論や新らたな優生思想も広がっている中、
影響力の大きな障害学の専門家に
そのことへの想像力がまったく欠落していることが
ものすごく悲しいし、腹立たしい。

自分で主張したり抵抗することのできない
重症知的障害者、重症重複障害者、認知症患者への想像力を欠いたまま
「障害者は自分で決めることができる」と言ってしまうのは

Diekema医師が言ったのと同じように
「Ashleyのような重症の障害児・者は
障害者運動ができるような障害者とは違う」と
障害者の間に線引きをすることではないのでしょうか。


ちなみに、この記事への最初のコメントは
「自殺幇助の合法化に賛成だという80%の人たちの何人が
ターミナルではない障害者のアドボケイトになってくれるというのだろう。
これまでだって健常者からは、自分がこういう身になったら……という勝手な想像で
障害者のQOLについて見当違いな決め付けがされて、我々は被害をこうむってきた」と。

また2番目のコメントは
全体として自殺幇助の合法化に賛成の論旨なのですが、
最後のところで「そもそも終末期にしか適用されないことが間違い。
どうせ死ぬなら、いつ死ぬかは大した違いじゃないはずなのに」

それぞれ別方向からですが、
いずれも、「すべり坂」の危険を考えさせるに十分なコメントだと思うし、

この直前のエントリーでも紹介したように、
現実に医療費削減と終末期医療での選択とはセットで語られていることも
忘れてはならないと思うのですが。


2009.03.15 / Top↑
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