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8月1日の補遺で拾ったNot Dead Yet のDian Colemanの自殺幇助合法化批判の論考が
同じ媒体で再掲されていたので、

暑いし(体を動かして何かをしようという気が起こらない)、
突然に時間がぽっかりできたので、気ままに訳してみた。


終末期の人への自殺幇助を合法化する法案の提唱者は
障害者団体の反対意見は的外れだと主張する。

しかし、障害者はたいていの場合は終末期ではないが
終末期の人はほとんどの場合、障害者である。

それならば、この複雑な問題に
障害のある人の視点が洞察を提供できる
多くの理由の一つがそこにはある。

障害のある人々と慢性病の人々は
死にゆく人をケアする(悲しいことに十分なケアになっていないことが多い)医療制度の
最前線に生きている。

我々は最初に危険を察知して警告を発する
「炭鉱のカナリア」だといってもよい。

自殺幇助のアドボケイト組織は自らのことを
「宗教右派」に対抗し自由を求めて闘う「思いやり深い進歩派」として描いてみせるが、
そこでは不都合な真実が無視されている。

それらは、障害者アドボケイトにはあまりにもなじみの深い真実である。例えば、

・誰かの余命が6ヶ月であるという予測はしばしば誤っている。

・死にたいという人はたいてい治療可能なうつ病である、と同時に/または、
十分な緩和ケアを受けられていない。

・医療費削減へのプレッシャーがかかる現在の政治状況では、
医師の幇助による自殺を「治療」に選択肢に含めるべきではない。

・高齢者と障害のある人々への虐待は増加しているが、発
見されないままになっていることが多く、
教唆があったとしても、見抜くことも予防することも事実上不可能である。
立法者が検討すべきなのは推進派の善意の意図ではなく、
自殺幇助法の文言と実施である。


誤った診断に基づいて死が避けられないと予測されながら
生きのびた経験を持つ障害者は数え切れないほどいるが、私自身その一人として、
終末期の予後の正確さによって決まるのが自殺予防ではなく
自殺幇助を認めるかどうかであるということに懸念を感じないではいられない。

自殺幇助法の規定によって出されるオレゴン州の年次報告書そのものが、
終末期でない人々に致死薬が処方されていることを示している。
自殺幇助の要請から実際に死ぬまでに最高1009日が経過しているのだから。
年次報告書が隠していることの1つが、
6ヶ月を超えて生きた人が具体的に何人いたか、という情報だが、
それらの人が致死薬の処方を希望した段階で
障害者ではあったが終末期ではなかったことは明らかである。
もう一つわれわれが知っているのは、
こういう場合にも、また自殺幇助の過程でその他の過誤があった場合にも、
幇助した医師には何も責任を問われていない、ということだ。

推進派はオレゴンの15年間のデータから、
任意性を保障するセーフガードが機能しているとも主張する。

どうして分かるのだろう? 
オレゴンの報告書に書かれているのは、
処方箋を書いた医師が報告している患者の自殺幇助希望の理由だけだし、
その理由にしても、州政府の申請書に挙げられている7つの理由の選択肢から
複数回答可能でチェックを入れたものに過ぎない。

その7つのうちの一つ、
他者への負担となっていると感じるから、という理由にチェックを入れた人は、
去年報告されている自殺幇助事例の57%だった(全報告例では39%)。

しかし、
家族介護者の負担を軽減できる在宅ケアの選択肢をディスクローズすることは
同法のもとでインフォームドコンセントには含められていないし、
ましてその選択肢のケアを提供することも予算措置も同法では義務付けられていない。

オレゴンの報告書は、
セーフガードがどの程度守られているのかは州にも掴めないことを認めているが、
中立の論文で個々の事例でセーフガードが機能していないことは報告されている。
(例えば、Hendin and Foley’s “Physician-Assisted Suicide in Oregon: A Medical Perspective,” Michigan Law Review, June 2008 を参照のこと)

しかし同法には
セーフガード条項を調査する権限も監督する権限も含まれていないため、
結果として何も行われていないのである。

高齢者虐待の多くが発見されず報告されていないことは、よく知られている。
確かに、虐待の危険のない高齢者もいるだろう。
しかし、ニュー・ジャージー州では報告されているものもされていないものも含めて
毎年17万5千件以上の高齢者虐待が起こっていると推計されており、
多くの高齢者は安全ではない。

自殺幇助への教唆がないことを保障するために法は2人の証人を求めているが、
その2人は本人を直接知っている人物でなくともよく、
また一人が相続人であってもかまわない。法の文言では、
家族の誰かが自殺幇助を「選ぶ」ように提案したり強く勧めることを防ぐことはできない。
致死薬がいったん家に持ち込まれれば、
中立の人が承認として見届けることは必要とされていないのだから、
薬が飲まされた時に本人の同意があったかどうか、
いったい誰に分かるというのだろう?

医療は我々の誰もが必要とするものである。
家族が常に愛情に満ちて支えようとするわけでもないのが現実世界だ。
その両方に影響する公共施策を議論するに当たって、立法者には
自殺幇助の合法化によって大きな現実のリスクを負うことのない安全な人だけではなく、
すべての人のことを考慮する義務がある。

Opinion: N.J. assisted suicide proposal is dangerous prescription
Diane Coleman
N.J.com, August 10, 2013
2013.08.13 / Top↑
ニュースでほんの一部を聞いて、ちょっと気になっていた
9日の長崎市長の平和宣言の全文が長崎市のHPに公開されていることを知り、
読みにいって、改めて強い感銘を受けた。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/appeal/

長崎市は
この平和宣言への賛同者数を調査しているとのこと。
上記ページの宣言全文の後にクリック・ボタンがあります。


平成25年長崎平和宣言

 68年前の今日、このまちの上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていたまちは一瞬で廃墟となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち7万4千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱え続けています。
 このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。

 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
  非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。

 核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
 2009年4月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで、「核兵器が存在する限り、私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
 しかし、世界には今も1万7千発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。

 核兵器のない世界の実現を、国のリーダーだけにまかせるのではなく、市民社会を構成する私たち一人ひとりにもできることがあります。
 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意がこめられています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。
 若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
 あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。
 地域の市民としてできることもあります。わが国では自治体の90%近くが非核宣言をしています。非核宣言は、核兵器の犠牲者になることを拒み、平和を求める市民の決意を示すものです。宣言をした自治体でつくる日本非核宣言自治体協議会は今月、設立30周年を迎えました。皆さんが宣言を行動に移そうとするときは、協議会も、被爆地も、仲間として力をお貸しします。
 長崎では、今年11月、「第5回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」を開催します。市民の力で、核兵器廃絶を被爆地から世界へ発信します。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、未だ収束せず、放射能の被害は拡大しています。多くの方々が平穏な日々を突然奪われたうえ、将来の見通しが立たない暮らしを強いられています。長崎は、福島の一日も早い復興を願い、応援していきます。
 先月、核兵器廃絶を訴え、被爆者援護の充実に力を尽くしてきた山口仙二さんが亡くなられました。被爆者はいよいよ少なくなり、平均年齢は78歳を超えました。高齢化する被爆者の援護の充実をあらためて求めます。
 原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市と協力して核兵器のない世界の実現に努力し続けることをここに宣言します。

2013年(平成25年)8月9日
長崎市長 田上 富久


【11日追記】
核不使用声明 日本賛同せず 「なぜだ」鬼気迫る市長 (東京新聞 8月9日 夕刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013080902000230.html?ref=rank
2013.08.13 / Top↑
ミシガン州の多発性硬化症(MS)をわずらう女性、Sherri Muzherさん(43)が
今の状態で生きるよりも、まだ使えるうちに臓器を提供したいと希望し、

車椅子でテレビ番組に出演しては、不自由な言葉で
州に対して医師による自殺幇助(PAS)の合法化を求める発言を繰り返している。

「彼女の動機は心からのもので、自分の宿命をコントロールすると同時に
他の人たちを助けたいというのですから、本当に心を打つ話だと思います」と
同じ番組で法学者が語るなど、肯定的に受け止める声もあるものの、

ミシガン州は故Kevorkian医師のレガシーを引きずっており、
実現は難しいだろう、と上記の発言をした学者自身が予測。

Muzherさんはロー・スクールを卒業したマーケティングの専門家で
診断されたのは16年前。

寝たきりだが短時間なら車椅子にも座れる。

肺は痛んでいて移植にはもう使えないが、
心臓と腎臓を含む主要臓器はまだ健康だという。

「自分で決めることができるべきだし、
それが結果的に他の人たちを助けることになるなら
他人が文句を言うことはないでしょう?」

http://fox17online.com/2013/08/07/a-plea-for-assisted-suicide-terminally-ill-woman-wants-to-donate-organs/#axzz2bKAIp3bc

http://www.nydailynews.com/news/national/dying-michigan-woman-leave-donate-organs-article-1.1421125


キヴォーキアン医師が自殺幇助と臓器移植を結び付けようとしていたことについては
こちらのエントリーに ↓
K医師、98年に自殺幇助した障害者の腎臓を摘出し「早い者勝ちだよ」と記者会見(2011/4/1)


その他のKevorkian医師関連エントリー ↓
自殺幇助のKevorkian医師、下院出馬の意向(2008/3/14)
アル・パチーノ主演でKevorkian医師の伝記映画作成か(2009/5/27)
Dr. Deathをヒーローに祭り上げ、シャイボさんをヘイトスピーチで笑い物にするハリウッド(2010/3/25)
FENが「Kevorkian医師の半生記映画見て“死ぬ権利”考えよう」(2010/4/22)
Kevorkian医師「PASは医療の問題。政治も法律も関係ない」(2010/4/26)
CNN、Kevorkian医師にインタビュー(2010/6/16)
Kevorkian医師の半生記映画、主演のパチーノ共、エミー賞を受賞(2010/8/30)
Kevorkian医師、デトロイトの病院で死去(2011/6/4)


【その他の関連エントリー】
GA州のALS男性が「臓器提供安楽死」を希望(2010/7/25)
やっぱりCNNが飛びついたGA州ALS患者の「臓器提供安楽死」希望(2010/7/30)

その背景にあったのは、こちらの論文 ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)

他にも、こんな話も ↓
「執行後に全身の臓器すべて提供させて」と、OR州の死刑囚(2011/3/6)
「囚人を臓器ドナーに」は実施面からも倫理面からもダメ、とCaplan論文(2011/10/14)
ユタ州、囚人からの臓器提供を合法化(2013/4/29)


【11日追記 続報】
オーストラリアの安楽死反対運動のリーダーから反論。EPCのSchadenberg経由。
ベルギーの安楽死後臓器提供を連想しつつ、
「愛他的自殺幇助」の論理とサヴレスキュらの「臓器提供安楽死」提案の論理の共通性を指摘。
http://alexschadenberg.blogspot.jp/2013/08/altruistic-assisted-suicide-surely-you.html

まさに、上で書いたりリンクした通り。
2013.08.13 / Top↑
ここ数日、あちこちから流していただく情報で
以下のようなところに「死の質 QOD」という言葉が登場した、ということを知った。

2013/08/02 社会保障制度改革国民会議・議事・資料
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokuminkaigi/dai19/gijisidai.html

当該箇所を立岩真也先生がarsviのサイトに抜いてくださっていて、
なるほど「尊厳ある死」という文言と一緒に登場している。

(ついでに言えば、この箇所の向かっている方向は
そういう言葉を使わないまま、実は、日本型「無益な治療」論の指標づくりと、
それによる、日本型(コスト論に基づいた)「無益な治療」論に向けた
「国民の合意」形成という名前の誘導なのでは? という印象)

「Ⅱ 医療・介護分野の改革」より
 医療の在り方については、医療提供者の側だけでなく、医療を受ける国民の側がどう考え、何を求めるかが大きな要素となっている。超高齢社会に見合った「地域全体で、治し・支える医療」の射程には、そのときが来たらより納得し満足のできる最期を迎えることのできるように支援すること-すなわち、死すべき運命にある人間の尊厳ある死を視野に入れた「QOD(クォリティ・オブ・デス)を高める医療」-も入ってこよう。「病院完結型」の医療から「地域完結型」の医療へと転換する中で、人生の最終段階における医療の在り方について、国民的な合意を形成していくことが重要であり、そのためにも、高齢者が病院外で診療や介護を受けることができる体制を整備していく必要がある。また、慢性疾患の増加は、低い確率でも相対的に良いとされればその医療が選択されるという確率論的医療が増えることにつながる。より有効でかつ効率的な医療が模索される必要があり、そのためには、医療行為による予後の改善や費用対効果を検証すべく、継続的なデータ収集を行うことが必要である。例えば、関係学会等が、日々の診療行為、治療結果及びアウトカムデータ(診療行為の効果)を、全国的に分野ごとに一元的に蓄積・分析・活用する取組を推進することが考えられ、これらの取組の成果に基づき、保険で承認された医療も、費用対効果などの観点から常に再評価される仕組みを構築することも検討すべきである。」


でも、「形成」しようというのは
あくまでも「医療の在り方」についての「国民的な合意」なんですよね。

まさか、
「そのときが来たらより納得し満足のできる最期」とか
「死すべき運命にある人間の尊厳ある死」とかについて
「国民的な合意」を形成しようなんていう無謀な話ではなくて――。

だって「死すべき運命にある人間」て、終末期の人のことというよりも
「どうせ人間はみんな死ぬんだから」とも読めたりするので、
その路線で「国民的な合意」形成を試みられたら
ものすごく怖いし……。

                   -----

ところで、最初はぜんぜんピンと来ていなかったのだけれど、
このQODをめぐるFBでの議論を読ませてもらって、
記憶の向こうから、もわぁ~っと蘇ってきたのが
ちょうど3年前にあった「死の質」世界ランキングという調査の話題。

当時のエントリーを探して読み返してみたら、
米国では2000年くらいから論文が出ていたりした。 ↓

「死の質」は英国が一位だという調査(2010/7/16)
「死の質」は果たして「生の質」の対極にある概念なのか(2010/7/16)
「死の質」について、もうちょっと(2010/7/17)
「ターミナル」診断に対する医療職の意識調査:“生の質”も“死の質”も本当はただ“医療の質”の問題では?(2010/7/17)


で、当時の私が、この問題についてモヤモヤするところを
思うように言葉にできないまま、上の3つのエントリーを書き、
(もやもや感、ぐるぐる観が満載の、はっきりしないエントリーですんません)

それと平行して当時やっていたツイッターでどうやらつぶやいてみたのが、
4つ目のエントリーにコピペしてあったこちら ↓

「良い死」だったとか「豊かな死」だったというのは、
あくまでも人の人生の一回性の中で主観的にしか決められないことだと思うし、
私は、その一回性の中でドロドロしたり、グルグルしたりしながら、
ギリギリのところで何かを選択するという、そのドロドロやギリギリからこそ
人が生きることにまつわるいろんなことの意味というものは生まれてくるのだと考えるのですが、
「死の質」という言葉がそこにもちこまれることによって、
死に方に外側からの客観的な評価の視点が持ち込まれてしまうんじゃないのか、
で、それは結局、切り捨ての新たなツールになっていくんじゃないのか……

ホスピスが充実していて緩和ケアの質が仮に高いとしても、
だからといって個々の患者の「死の質」が高いことになるのかどうか、
という問題もあると思うのですが、

終末期の医療のいくつかのファクターによって評価された「死の質」が、
日本の記事のように、そのまま個々の患者の「死の豊かさ」として
翻訳されて流布されてしまうことには、それ以上の違和感があります。
じゃぁ、そこで何が飛び越えられてしまっているのか、ということ……

(最後のあたり、今の私の感覚を追加すると、
終末期医療のいくつかのファクターによって評価された
あくまでも医療的に達成された「死の質」のレベルの問題……とでもいうか。
あくまでも医療システムにおける指標の問題に過ぎない、というか。
ううう……うまく言えないので、この先はTBを見てください。)


で、当時、これだけ、もやもや・ぐるぐるする中から
やっと何がしか、「感想」めいたものにたどり着いて
それを4つ目のエントリーの最後に書いているのだけれど、

それを今こうして読み返してみたら
「平穏死」なんかについても同じことが言えるんじゃないのかなぁ、という気がしてきたので、
これもまた、以下にコピペしてみると、

こんなことをぐるぐる考えていたら、
今朝、ふっと頭に浮かんだことがあった。

この(各国の「死の質 QOD」)調査が対象としているのは
「死の質」でも「豊かな死」でもなくて、本当は
ただ、単に「40ヵ国の、緩和ケアの整備量と、ある一面から見た質」に過ぎないということ。

そこから、更に金魚のウンチ的に頭に浮かんできたこととして、

QOL(生活の質であれ生命の質であれ)とは
もしもどうしても使うつもりなのであれば「死の質」にしても
本来、「医療の質」を改善し、向上させるための指標として、医療の内部で、
医療職に対して、その実践を問い、医療の質を測るツールのはずではないのか、ということ。

それが、いつから、どのようにして、「医療が自らの質を問う指標」から
「医療に値するかどうか、医療が患者の質を問う指標」や、
「生き方や死に方を医療が評価して社会に提言するための指標」へと
転換させられていったのか、また転換させられていきつつあるのか。

そもそも緩和ケアの本来の理念が
患者さんが、その人の人生の一回性の中で死んでいくことを支える、というものだったはず。

そして、患者さんが人生の一回性の中で病むことの全体を見る医療が
たしか「全人的医療」と呼ばれて提唱されていたはず。

本当は、これら一切、「医療の質」の問題に過ぎないのでは――?


3年前に書いたこともまだ言葉足らずだし、
今もまだすっきりと言葉になっていない感じはあるのだけれど、

考えるべき問題は、
本当は「医療・介護のあり方」つまり「医療・介護の質」の問題のはずであって
巷でよく言の葉に上る「老いて、いかに死ぬか」というような
「死に方」まして「死に方の質」の問題でもなく、

さらに、一つの「あるべき死に方」像みたいなものを
国民に啓発・推進していく運動みたいな話でもないはずなのに、

そこが「尊厳死」「平穏死」の議論のように、
いつのまにか「医療・介護の質」の話から
患者サイドに向けた「あなたの死に方」だったり
めざすべき「あるべき死に方」の話に摩り替わってしまうようなことが
あちこちで起こっているだけに、

「死の質」などという言葉が社会保障制度の議論に登場することに、
それもまたいつの間にか国民に向けた啓発・推進の具にされるのでは、という
警戒感がどうしてもぬぐえない……んじゃないのかなぁ。

……と、
自分の中にある今回の「もやもや感」を、とりあえず整理してみる。


                  ―――――――

ちなみに、
某MLで教えていただいた関連の日本語論文は以下。

望ましい死の達成度と満足度の評価
宮下光令 

それから3年前の私のエントリー(3つ目のやつ)では
米国で2000年から論文があった事実を拾いつつ、
2003年のものしかリンクしていませんが、

2000年の「先駆的な」論文が以下だとのこと。
http://annals.org/article.aspx?articleid=713475
2013.08.13 / Top↑
バーモント州が自殺幇助を合法化(米)

 米国バーモント州で、5月14日、終末期の人に一定の条件付きで医師による自殺幇助を認める法案が議会を通過。11年に当選した際、選挙公約に自殺幇助合法化を挙げていたピーター・シュムリン知事は20日に署名し、「終末の選択法(the End of Life Choices law)」が成立、即日施行された。

すでに医師による自殺幇助を認める法律があるオレゴン州とワシントン州では共に住民投票によって合法化が決まったのに対して、バーモント州は立法議会によって決まった米国で最初の州となった。米国ではここしばらく、多くの州の議会で同様の法案提出が相次いでおり、4月にはコネチカット州、モンタナ州、5月末にはメイン州で否決されたが、まだ7州で審議中という。

 米国以外でも、オーストラリアのニュー・サウスウェールズ州議会が医師による自殺幇助合法化法案を否決。アイルランドでは多発性硬化症(MS)患者、マリー・フレミング(59)が死の自己決定権を求めて起こした裁判で、判事は死ぬ権利は存在しないと判決した。フレミングは立法府に対しても合法化を訴えたが、エンダ・ケニー首相もこれを拒否。一方、英国では5月20日、かねてより合法化推進派の最先鋒であるファルコナー上院議員が議会に法案を提出し、大物医師らからも連名で法案を支持する声明がTimes紙に寄せられた。いずれの国でも、メディアが大きく取り上げて激しい論争となっている。

身体障害者への医療差別

マサチューセッツ州のベイステイト医療センターのタラ・ラグ医師らが、米国内科学会誌3月号で興味深い調査結果を報告している。肥満した半身まひの架空の患者を想定して、米国の4市で様々な診療科の256の医療機関に診察予約の電話をかけたところ、22%が受け入れられないと答えた。理由に挙げられたのは「患者を車いすから診察台に移すことができない」「建物がアクセス不能」など。高さ調節の可能な診察台またはトランスファー用のリフトがあると答えたのは、わずか9%だった。

この調査について、ある医師がニューヨーク・タイムズに「医師の診察室での障害と差別」と題した論考(5月23日)を寄せた。米国障害者法ADAの制定から23年になろうとするのに障害者は適切な医療を受けることができていないと指摘、医療サイドのADA理解や意識の改善と、物理的な環境整備にかかるコスト面での対応が必要だと説いている。

知的障害者への医療差別

 英国の知的障害者アドボケイト団体、メンキャップは、知的障害者への医療差別の問題と取り組んできた。2007年には衝撃的な報告書『無関心による死』を刊行し、保健省の費用による非公開の実態調査の実施につながった。

その調査結果が3月19日に報告されたところによると、NHS病院での知的障害者の死亡件数のうち37%は死を避けることができたケースと考えられる。年間1238人の知的障害児者が、適切な医療を受けられないために落とさなくてもよいはずの命を落としていることになる。調査に当たった専門家らは、今後もデータ収集を続け、深刻なケースでは調査を行えるよう、知的障害者死亡率調査委員会という全国組織の立ち上げを提唱している。

 メンキャップは一貫して医療差別解消に向けたキャンペーンを行っており、このほど医療専門職と各種医学会と協働で「医療差別をなくす憲章」を作成した。冒頭に書かれているのは「障害ではなく、その人を見てください」「知的障害のある人はみんな、医療を受ける平等な権利があります」「すべての医療専門職は知的障害のある人々に提供する医療において合理的な配慮をする義務があります」「すべての医療専門職は知的障害のある人々に高い水準のケアと治療を提供し、その命の価値を重んじなければなりません」。

その後、病院サイドの視点で「私たちは○○します」と書かれた9つのチェックボックスのついた宣言が並んでおり、各病院ごとにチェックを入れた「憲章」を掲示してもらおう、という趣旨。そこで宣言されているのは、例えばスタッフへの知的障害の啓発研修や、家族や介護者の意見の尊重などだが、私が特に興味深いと思ったのは「私たちの病院に知的障害のある人々のためのリエゾン・ナースを置きます」という項目だ。これは知的障害者に限らず、精神障害者、難病患者、高齢者、認知症の人々にも通じていく「憲章」なのではないだろうか。

「死の自己決定権」が仮に成立するならば、その前提には、誰もが平等に医療を受けられる権利がまず保障されていなければならないはずだ。

連載「世界の介護と医療の情報を読む」
『介護保険情報』2013年7月号
2013.08.13 / Top↑