(前のエントリーの続きです)
「考察」の冒頭、
Oulletteがまず整理するのは、
子どもの医療における親の決定権そのものは
障害者コミュニティも生命倫理学も同じく認めており、両者の見解が異なるのは
「親の決定権を制約すべきか」「制約するとしたらいつ、どのようにして」の点であること。
この2点について両者がコンセンサスに達するためには
親の判断力が信頼される必要があり、障害児の親に対する情報提供や教育も必要となるが、
コンセンサス以前に和解がなければならず、和解するためにはまず信頼が必要。
In my view, trust can be achieved only if all concerned acknowledge and understand the alliances, fears, and values at play in conflict. When it comes to acknowledging their own alliances, fears, and values with respect to disability issues in children, it seems to me that bioethics experts have some work to do.
信頼は、争議で問題になっている関係者すべての身内意識(?)、不安、価値観が認識・尊重された後にしか得られない。子どもにおける障害の問題でそのために努力すべきは、生命倫理学者の方だと私には思われる。
(p.184)
なぜならば、
Larson事件でもAshley事件でも、問題となっているのは、
障害者コミュニティが長年訴え続けてきた医療への不安と不信なのだから。
障害者は技術そのものを悪いと言っているわけではない。
技術を利用する意思決定が倫理的に間違っているから
その議論に障害者問題の専門家を含めることによって
障害のある子ども達のニーズについて親の理解を深めていこう、と主張しているのだ。
一方、生命倫理学者はもはや医療のインサイダーとなり、
医療の主流となっている価値意識を問うという本来の役割を果たすのではなく
むしろ医療判断を医療の専門家に委任する権威づけの役割を担っている。
そのため、人工内耳でもアシュリー療法でも、
子どもを「医療技術で簡単に修正する fixing」利益が
介入の医学的リスクを明らかに上回っているというのに、それを容認してしまう。
Concerns that the use of the intervention would be deemed abusive but for the disabled status of the child are dismissed with a medical justification: In medicine, physical difference justifies differential treatment. No ethical issues here.
当該介入の利用は虐待・濫用になるのでは、との懸念はあっても、障害があるということをもって正当化されてしまう。すなわち、医療においては、身体上の差異がその人への扱いの差異を正当化するのだ、したがって、ここには倫理問題は存在しない。というふうに。
(p.187)
そして、こうした正当化論が、成長抑制をめぐる議論で見られたように
法と法律家の存在を医療の専門性(integrity)への脅威とみなす一部の風潮とも繋がって、
(その司法忌避の代表は、当ブログがしつこく書き続けているように、かのNorman Fost)
In my view, the deference given the medical perspective in bioethics leaves gaps in bioethical analysis.
生命倫理学が医療の視点を偏重している限り、生命倫理分析には欠落した部分があり続けるだろう。
(中略)
So long as bioethicists continue to see disabilities as medical problems, “the medical remedy will likely make most sense.” The trouble is that medical remedies don not always make sense.
生命倫理が障害を医療で解決すべき問題と捉えている限り、「医療による解決策が最も理にかなったものと見えるだろう」。問題は、医療による解決策が必ずしも理にかなっていないことだ。
(p. 188 )
引用はSara Goering, 2010.
Goeringは07年5月の成長抑制シンポにも参加。
この章の最後には
人工内耳に関する聾者の組織からのポジション・ステートメントが追記されています。
ウ―レットさんに、spitzibaraから大きな大きな拍手喝采を――。
「考察」の冒頭、
Oulletteがまず整理するのは、
子どもの医療における親の決定権そのものは
障害者コミュニティも生命倫理学も同じく認めており、両者の見解が異なるのは
「親の決定権を制約すべきか」「制約するとしたらいつ、どのようにして」の点であること。
この2点について両者がコンセンサスに達するためには
親の判断力が信頼される必要があり、障害児の親に対する情報提供や教育も必要となるが、
コンセンサス以前に和解がなければならず、和解するためにはまず信頼が必要。
In my view, trust can be achieved only if all concerned acknowledge and understand the alliances, fears, and values at play in conflict. When it comes to acknowledging their own alliances, fears, and values with respect to disability issues in children, it seems to me that bioethics experts have some work to do.
信頼は、争議で問題になっている関係者すべての身内意識(?)、不安、価値観が認識・尊重された後にしか得られない。子どもにおける障害の問題でそのために努力すべきは、生命倫理学者の方だと私には思われる。
(p.184)
なぜならば、
Larson事件でもAshley事件でも、問題となっているのは、
障害者コミュニティが長年訴え続けてきた医療への不安と不信なのだから。
障害者は技術そのものを悪いと言っているわけではない。
技術を利用する意思決定が倫理的に間違っているから
その議論に障害者問題の専門家を含めることによって
障害のある子ども達のニーズについて親の理解を深めていこう、と主張しているのだ。
一方、生命倫理学者はもはや医療のインサイダーとなり、
医療の主流となっている価値意識を問うという本来の役割を果たすのではなく
むしろ医療判断を医療の専門家に委任する権威づけの役割を担っている。
そのため、人工内耳でもアシュリー療法でも、
子どもを「医療技術で簡単に修正する fixing」利益が
介入の医学的リスクを明らかに上回っているというのに、それを容認してしまう。
Concerns that the use of the intervention would be deemed abusive but for the disabled status of the child are dismissed with a medical justification: In medicine, physical difference justifies differential treatment. No ethical issues here.
当該介入の利用は虐待・濫用になるのでは、との懸念はあっても、障害があるということをもって正当化されてしまう。すなわち、医療においては、身体上の差異がその人への扱いの差異を正当化するのだ、したがって、ここには倫理問題は存在しない。というふうに。
(p.187)
そして、こうした正当化論が、成長抑制をめぐる議論で見られたように
法と法律家の存在を医療の専門性(integrity)への脅威とみなす一部の風潮とも繋がって、
(その司法忌避の代表は、当ブログがしつこく書き続けているように、かのNorman Fost)
In my view, the deference given the medical perspective in bioethics leaves gaps in bioethical analysis.
生命倫理学が医療の視点を偏重している限り、生命倫理分析には欠落した部分があり続けるだろう。
(中略)
So long as bioethicists continue to see disabilities as medical problems, “the medical remedy will likely make most sense.” The trouble is that medical remedies don not always make sense.
生命倫理が障害を医療で解決すべき問題と捉えている限り、「医療による解決策が最も理にかなったものと見えるだろう」。問題は、医療による解決策が必ずしも理にかなっていないことだ。
(p. 188 )
引用はSara Goering, 2010.
Goeringは07年5月の成長抑制シンポにも参加。
この章の最後には
人工内耳に関する聾者の組織からのポジション・ステートメントが追記されています。
ウ―レットさんに、spitzibaraから大きな大きな拍手喝采を――。
2011.12.22 / Top↑
Oulletteの“Bioethics and Disability”の第4章「児童期」で取り上げられているのは
「Lee Larsonの息子たちの事件」と「アシュリー事件」の2つ。
前者は、
聴覚障害の子ども達が自己決定できない内からの、
親の判断による人工内耳埋め込み手術のケース。
09年か10年に、ある研究者の方と話をした時に、
アシュリー事件の議論は人工内耳の問題と通ずるものがある、というお話しで
その方が簡潔に解説してくださった人工内耳をめぐる議論が大変興味深かったので、
親の判断での障害児への侵襲的医療介入のケースとして
この2つの“療法”がここで取り上げられていることには、
なるほど~……と深く納得するものがあった。
とはいえ、私はまだこの問題については何も知らなくて、ちょっと荷が重いので
Lee Larsonの息子たちのケースについて書かれているパートは、今回はパス。
まだ読んでいません。
人工内耳の問題については ⇒ http://www.arsvi.com/d/ci.htm
Ashley事件については、まず事件の概要説明のパートで
前に論文を読んだ時と同じく、Oulletteの事実認識の甘さに、ちょっとイラつく。
検討したのが外部の人間を含めた常設の倫理委だと思い込んでいるし
ホルモン療法の期間を1年半だと書いているし、
Diekemaの詐術に、まるっきりたぶらかされている。
(いつも思うのだけど、学者さんは、ある事件について云々するなら、
基本的な事実関係を把握する作業を、まずしっかりやってほしい。
事実関係を正しく把握するために、資料をもっと丁寧にちゃんと読んでほしい。
学者さんたちは論文を書くことが仕事で、それを主目的にして資料を読むので
つい資料の読み方が、自分が言いたいことを論証するための材料探しに終わる
……ということはないんだろうか。
そうしてDiekemaやFostのように学問的誠実を投げ捨てたワケあり学者の術中にハマり
操作された情報を事実と信じて、まんまと鼻づら引き回されてしまったら、
いくら批判・反論しているつもりでも、その的は微妙に外れて矛先が鈍る)
なので、事件の概要でOulletteが書いていることは、ここでは省略。
「障害者コミュニティの見解」つまり批判についても、
当ブログでリアルタイムに拾ってきた通りなので、省略。
「生命倫理学の見解」でも、
内容的には大筋で当ブログが拾って来たのと同じだけれど、
議論の流れの整理の仕方が、とても興味深い。
Oulletteは大筋として
以下のように生命倫理学者間の議論の流れを捉えている。
真っ先に声を上げたのはお馴染みArt Caplanで、
当初はCaplanに続く学者の批判が多かったが、
「時が経ち、このケースが更に深く分析されるにつれて」
両親と医師や倫理委の判断を支持する声が広がり始めた。
特に大きく流れを変えたのは
影響力の大きなHastings Center Reportに
LiaoとSavulescuらが書いた成長抑制容認論文が掲載されたことだった。
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 1(2007/9/27)
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2(2007/9/28)
(Liaoらが権威ある雑誌で外科的介入との間に線引きをしたことが
“アシュリー療法”から特に成長抑制だけを取り出して容認する流れを作った……
というのが、Oulletteの捉え方なのですね。
DiekemaとFostなど関係者らが事件の真相の隠ぺいのために
意図的にそういう議論の流れを誘導した、というのではなく)
もっとも、06年の当初論文に既に潜んでいる隠ぺい工作の胡散臭さに
多少なりとも気づいてくれた唯一の学者さんだと私が推測しているJohn Lantosが、
乳房芽切除の隠ぺいや、具体的データの欠落、エビデンスを書いた論理展開などを
鋭く指摘したことはOulletteも書いたうえで、
Lantosの疑問には容認論者の誰も応えられなかったにも拘らず、生命倫理学者の間には
成長抑制療法については倫理的に容認可能とのコンセンサスができていった、
その根拠は「親の決定権」と「価値観の中立性」だった、と整理。
親の決定権と価値観の中立をめぐる議論の引用は
Lanie Friedman Ross, Merle Spriggs, Peter Singer, Hilde Lindermann 。
こうした概観を経て、この章の「考察」でもOulletteは、
生命倫理学は医療のバイアスにとりこまれてしまって
医療の在り方や考え方を問い直す学問としての役割を果たしていない、とズバリと指摘。
A事件での障害者らの批判に沿った主張を展開し、
3章と同じく、両者の和解に向けた会話を前提に
まず生命倫理学は医療の主流的な価値観を問いなおせと説いている。
詳細は次のエントリーで。
「Lee Larsonの息子たちの事件」と「アシュリー事件」の2つ。
前者は、
聴覚障害の子ども達が自己決定できない内からの、
親の判断による人工内耳埋め込み手術のケース。
09年か10年に、ある研究者の方と話をした時に、
アシュリー事件の議論は人工内耳の問題と通ずるものがある、というお話しで
その方が簡潔に解説してくださった人工内耳をめぐる議論が大変興味深かったので、
親の判断での障害児への侵襲的医療介入のケースとして
この2つの“療法”がここで取り上げられていることには、
なるほど~……と深く納得するものがあった。
とはいえ、私はまだこの問題については何も知らなくて、ちょっと荷が重いので
Lee Larsonの息子たちのケースについて書かれているパートは、今回はパス。
まだ読んでいません。
人工内耳の問題については ⇒ http://www.arsvi.com/d/ci.htm
Ashley事件については、まず事件の概要説明のパートで
前に論文を読んだ時と同じく、Oulletteの事実認識の甘さに、ちょっとイラつく。
検討したのが外部の人間を含めた常設の倫理委だと思い込んでいるし
ホルモン療法の期間を1年半だと書いているし、
Diekemaの詐術に、まるっきりたぶらかされている。
(いつも思うのだけど、学者さんは、ある事件について云々するなら、
基本的な事実関係を把握する作業を、まずしっかりやってほしい。
事実関係を正しく把握するために、資料をもっと丁寧にちゃんと読んでほしい。
学者さんたちは論文を書くことが仕事で、それを主目的にして資料を読むので
つい資料の読み方が、自分が言いたいことを論証するための材料探しに終わる
……ということはないんだろうか。
そうしてDiekemaやFostのように学問的誠実を投げ捨てたワケあり学者の術中にハマり
操作された情報を事実と信じて、まんまと鼻づら引き回されてしまったら、
いくら批判・反論しているつもりでも、その的は微妙に外れて矛先が鈍る)
なので、事件の概要でOulletteが書いていることは、ここでは省略。
「障害者コミュニティの見解」つまり批判についても、
当ブログでリアルタイムに拾ってきた通りなので、省略。
「生命倫理学の見解」でも、
内容的には大筋で当ブログが拾って来たのと同じだけれど、
議論の流れの整理の仕方が、とても興味深い。
Oulletteは大筋として
以下のように生命倫理学者間の議論の流れを捉えている。
真っ先に声を上げたのはお馴染みArt Caplanで、
当初はCaplanに続く学者の批判が多かったが、
「時が経ち、このケースが更に深く分析されるにつれて」
両親と医師や倫理委の判断を支持する声が広がり始めた。
特に大きく流れを変えたのは
影響力の大きなHastings Center Reportに
LiaoとSavulescuらが書いた成長抑制容認論文が掲載されたことだった。
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 1(2007/9/27)
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2(2007/9/28)
(Liaoらが権威ある雑誌で外科的介入との間に線引きをしたことが
“アシュリー療法”から特に成長抑制だけを取り出して容認する流れを作った……
というのが、Oulletteの捉え方なのですね。
DiekemaとFostなど関係者らが事件の真相の隠ぺいのために
意図的にそういう議論の流れを誘導した、というのではなく)
もっとも、06年の当初論文に既に潜んでいる隠ぺい工作の胡散臭さに
多少なりとも気づいてくれた唯一の学者さんだと私が推測しているJohn Lantosが、
乳房芽切除の隠ぺいや、具体的データの欠落、エビデンスを書いた論理展開などを
鋭く指摘したことはOulletteも書いたうえで、
Lantosの疑問には容認論者の誰も応えられなかったにも拘らず、生命倫理学者の間には
成長抑制療法については倫理的に容認可能とのコンセンサスができていった、
その根拠は「親の決定権」と「価値観の中立性」だった、と整理。
親の決定権と価値観の中立をめぐる議論の引用は
Lanie Friedman Ross, Merle Spriggs, Peter Singer, Hilde Lindermann 。
こうした概観を経て、この章の「考察」でもOulletteは、
生命倫理学は医療のバイアスにとりこまれてしまって
医療の在り方や考え方を問い直す学問としての役割を果たしていない、とズバリと指摘。
A事件での障害者らの批判に沿った主張を展開し、
3章と同じく、両者の和解に向けた会話を前提に
まず生命倫理学は医療の主流的な価値観を問いなおせと説いている。
詳細は次のエントリーで。
2011.12.22 / Top↑
(前のエントリーの続きです)
「考察」の冒頭、ウ―レットが引いてくるのは
Philip Ferguson と Adrienne Asch の以下の言葉。
障害のある子どもが生まれるときに起こる最も重大なことは、子どもが生まれるということ。
ある夫婦が障害のある子どもの親になる時に起こる最も重大なことは、ある夫婦が親になるということ。
これを引きながら、ウ―レットは
MillerやGonzalesやその他の重病の乳児のケースで一番切実に感じるのは
親にとって、これは単に言論や議論の問題ではなく
リアルな経験であり痛みなのだということだ、と語る。
そして、リアルな体験に「これだけが正解」などないのだ、と。
ことほどさように、障害者らは個々のケースのリアリティの中で、
原理ではなく文脈でものを考えているのであり、
そのために時に矛盾しているように見えるだけなのだ、
親の決定権を事件によって認めなかったり支持したり、
立場を都合よく使い分けているから議論にならないと倫理学者は言うが、
彼らの立場は命の尊重という点で一致しているのだ、と。
そして、
……The central claim of disability experts is that misperceptions about life with disability have a detrimental effect on people with disabilities, particularly in the medical setting, where people with disabilities―especially babies with disabilities―have been isolated, victimized, and left to die based on incorrect assumptions about the potential for quality of life. The claim is historically accurate, and its currency is supported by empirical data and compelling theoretical analysis.
障害者問題の専門家が言っていることの核心とは、障害のある生についての誤った認識は、特に医療の場では障害者に悪影響を及ぼす、ということ。医療においては障害のある新生児が、将来のQOLについての不正確な予測に基づいて阻害され、ひどい扱いを受け、死ぬに任せて放置されているのだから。彼らのこの主張は歴史から見て正しいし、データや理論的分析によっても証明されている。
だから、医療の文化の中に根深い障害バイアスのエビデンスをきっちり出していく研究を
医療の意思決定について考えようとする人はやるべきだし、
特に、良い倫理には良い事実が必要だと主張している生命倫理学者こそ、やったらどうか。
(Norman Fostはその一人です。詭弁としての「良い倫理には(都合の)良い事実」)
John Lantos が指摘しているように、
理論的に医療判断を考えることと
苦しんでいる生身の乳児を目の前に考えることの間には距離があり、
現実には一方的な決定はほとんど行われていないし、
たいていの意思決定は粘り強い話し合いを経てコンセンサスによって行われている。
それならば、障害者問題の専門家を病院での意思決定や議論に含めることによって
無茶な一方的決定はそれほど行われないことや、実際に苦しむ子どもの姿や
現場の医療職が判断をめぐって苦悩する姿を見て、
治療停止の全てが障害者差別ではないことを彼らも理解するだろう、と
ウ―レットは提言する。
大きな“ブラボー” はこの後。133ページ。
Tom Kochのパーソン論(とは書いてないけど)批判を引用した後、
ウ―レットは、ばんっ、と書くんですね。
そもそも「生命倫理はピーター・シンガー問題を抱えている」のがいけない、と。
特に哲学者を中心に生命倫理学者はきちんとシンガーを糾弾せよ、と。
キミたちの親だってキミたちが死んでいた方が幸せだったんだよ、みたいなことを言われて、
そういう相手に面と向かって反撃を挑むのは障害者にとっては難儀なことなのだから
「生命倫理学者が繰り返し、大声で、力を込めて」シンガーを批判し、
「生命倫理学者の中の哲学者はシンガーの議論を取り上げて、
どこが間違っているかをきちんと説くべきだ」
そうした努力によって生命倫理が
シンガーが展開するアカデミックな思考実験から距離をとらなければ
障害当事者らとの生産的な議論は始まらない、のだから、と。
で、ここからの次なる大きな“ブラボー”は
医療制度改革と公平な医療資源の分配の必要に直面している時だけに、
この際“無益な治療”をめぐる哲学論議は凍結しよう、との提言。
そして障害当事者との会話を始めよう、と。
会話は信頼がなければ始まらない。
和解とコンセンサスを通じて医療争議を解決できるよう、
不安を抱えた弱者である障害者と医療の文化との間に
互いの信頼関係を構築しなければ。
全ての利益関係者がその会話に加わり、
全てのエビデンスが検討されるように。
この章の最後は
……But even where this is conflict, it should be apparent that disability experts have something to teach parents and medical professionals about the potential for quality of life of many people with many kinds of disabilities. If nothing else, there would be value in considering how to make those conversations a regular part of care in the NICU.
衝突があるにせよ、親と医療職は、障害者問題の専門家から様々な障害を持つ様々な人々のQOLの可能性について学べるものがあるはずだ。なによりも、NICUにおける通常のケアの中に、こうした会話を組みこんでいく方策を考えることに価値があるのではなかろうか。
すなわちウ―レットは、
生命倫理学者に届く学者の言葉で、
繰り返し、これを言っているんじゃないか、と思う。
Nothing about us without us――。
「考察」の冒頭、ウ―レットが引いてくるのは
Philip Ferguson と Adrienne Asch の以下の言葉。
障害のある子どもが生まれるときに起こる最も重大なことは、子どもが生まれるということ。
ある夫婦が障害のある子どもの親になる時に起こる最も重大なことは、ある夫婦が親になるということ。
これを引きながら、ウ―レットは
MillerやGonzalesやその他の重病の乳児のケースで一番切実に感じるのは
親にとって、これは単に言論や議論の問題ではなく
リアルな経験であり痛みなのだということだ、と語る。
そして、リアルな体験に「これだけが正解」などないのだ、と。
ことほどさように、障害者らは個々のケースのリアリティの中で、
原理ではなく文脈でものを考えているのであり、
そのために時に矛盾しているように見えるだけなのだ、
親の決定権を事件によって認めなかったり支持したり、
立場を都合よく使い分けているから議論にならないと倫理学者は言うが、
彼らの立場は命の尊重という点で一致しているのだ、と。
そして、
……The central claim of disability experts is that misperceptions about life with disability have a detrimental effect on people with disabilities, particularly in the medical setting, where people with disabilities―especially babies with disabilities―have been isolated, victimized, and left to die based on incorrect assumptions about the potential for quality of life. The claim is historically accurate, and its currency is supported by empirical data and compelling theoretical analysis.
障害者問題の専門家が言っていることの核心とは、障害のある生についての誤った認識は、特に医療の場では障害者に悪影響を及ぼす、ということ。医療においては障害のある新生児が、将来のQOLについての不正確な予測に基づいて阻害され、ひどい扱いを受け、死ぬに任せて放置されているのだから。彼らのこの主張は歴史から見て正しいし、データや理論的分析によっても証明されている。
だから、医療の文化の中に根深い障害バイアスのエビデンスをきっちり出していく研究を
医療の意思決定について考えようとする人はやるべきだし、
特に、良い倫理には良い事実が必要だと主張している生命倫理学者こそ、やったらどうか。
(Norman Fostはその一人です。詭弁としての「良い倫理には(都合の)良い事実」)
John Lantos が指摘しているように、
理論的に医療判断を考えることと
苦しんでいる生身の乳児を目の前に考えることの間には距離があり、
現実には一方的な決定はほとんど行われていないし、
たいていの意思決定は粘り強い話し合いを経てコンセンサスによって行われている。
それならば、障害者問題の専門家を病院での意思決定や議論に含めることによって
無茶な一方的決定はそれほど行われないことや、実際に苦しむ子どもの姿や
現場の医療職が判断をめぐって苦悩する姿を見て、
治療停止の全てが障害者差別ではないことを彼らも理解するだろう、と
ウ―レットは提言する。
大きな“ブラボー” はこの後。133ページ。
Tom Kochのパーソン論(とは書いてないけど)批判を引用した後、
ウ―レットは、ばんっ、と書くんですね。
そもそも「生命倫理はピーター・シンガー問題を抱えている」のがいけない、と。
特に哲学者を中心に生命倫理学者はきちんとシンガーを糾弾せよ、と。
キミたちの親だってキミたちが死んでいた方が幸せだったんだよ、みたいなことを言われて、
そういう相手に面と向かって反撃を挑むのは障害者にとっては難儀なことなのだから
「生命倫理学者が繰り返し、大声で、力を込めて」シンガーを批判し、
「生命倫理学者の中の哲学者はシンガーの議論を取り上げて、
どこが間違っているかをきちんと説くべきだ」
そうした努力によって生命倫理が
シンガーが展開するアカデミックな思考実験から距離をとらなければ
障害当事者らとの生産的な議論は始まらない、のだから、と。
で、ここからの次なる大きな“ブラボー”は
医療制度改革と公平な医療資源の分配の必要に直面している時だけに、
この際“無益な治療”をめぐる哲学論議は凍結しよう、との提言。
そして障害当事者との会話を始めよう、と。
会話は信頼がなければ始まらない。
和解とコンセンサスを通じて医療争議を解決できるよう、
不安を抱えた弱者である障害者と医療の文化との間に
互いの信頼関係を構築しなければ。
全ての利益関係者がその会話に加わり、
全てのエビデンスが検討されるように。
この章の最後は
……But even where this is conflict, it should be apparent that disability experts have something to teach parents and medical professionals about the potential for quality of life of many people with many kinds of disabilities. If nothing else, there would be value in considering how to make those conversations a regular part of care in the NICU.
衝突があるにせよ、親と医療職は、障害者問題の専門家から様々な障害を持つ様々な人々のQOLの可能性について学べるものがあるはずだ。なによりも、NICUにおける通常のケアの中に、こうした会話を組みこんでいく方策を考えることに価値があるのではなかろうか。
すなわちウ―レットは、
生命倫理学者に届く学者の言葉で、
繰り返し、これを言っているんじゃないか、と思う。
Nothing about us without us――。
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)
Gonzales事件の概要は非常に詳しくまとめられているので、
いずれ事実関係の整理をしたいとは思いますが、
これまでに以下のエントリーを書いているので
ここでは事件の詳細は省略します。
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
まずG事件に関する「障害者コミュニティの見解」
障害者がG事件で問題にした点として挙げられているのは
・親の決定権を侵害し医師に「神のような地位」を与えた。
・無益性概念に一貫性がない。
・法的検討が行われていない。
“無益な治療”論について問題にされているのは主として以下の3つ。
・医師の偏見
・カネが判断要因となっていること
・法の下で保障された平等な保護に違反する
医療の中に障害者に対するバイアスがあるという点は
障害学者のJames Werth , Carol Gill, ハーバード大法学者のMartha Fieldsなどが指摘している。
バイアスとカネの両方にまつわる典型例として
オレゴン州が1990年代初めに導入を試みて
保健省の障害者差別に当たりADA違反との指摘を受けて見送られた
メディケイドの配給制度Oregon Planがある。
(これについては別途エントリーでまとめてみたいと思います)
特にテキサスの無益な治療法TADAについては、
TADAが「不可逆」とする条件が以下の3つであることが問題視される。
(訳語はさほど吟味したものではありませんのでご了承ください)
a condition, injury, or illness:
(A) that may be treated but is never cured or eliminated.
(B) that leaves a person unable to care for or make decisions for the person’s own self; and
(C) that, without life-sustaining treatment provided in accordance with the prevailing standard of medical care, is fatal.
以下の状態、怪我、または病気
(A) 治療は可能かもしれないが、治癒することも取り除くこともできない。
(B) 身辺自立できない、または自己決定できない状態のままになり、かつ
(C) 一般的医療のスタンダードの範囲で提供される生命維持治療がなければ死ぬことになる。
視覚障害や知的障害などAには当てはまってもBとCには当てはまらない障害もあるが
一方で人工呼吸器依存の四肢まひ者や、経管栄養の障害者は全てに当てはまる可能性があり、
QOL尺度そのものが医療のバイアスだという主張。
しかし、この部分の最後にOulletteが指摘しているのは
仮にMiller事件に適用されたとすればともかくも
障害ではなくターミナルであることが問題だったGonzales事件では
TADAへのこうした批判は当たらない、という点。
最後には、
死にゆく乳児の治療がどうあるべきか、その問題でカネをどう考えるかについては
生命倫理学者も悩みながら最善の答えを見つけようと鋭意議論しているところだ、と。
(ね。「ちょっと、アンタどういうつもりよ」と思いますよね、こういう書き方をされると)
次にG事件に関する「生命倫理学の見解」
こちらは、無益性概念をめぐる議論から解説が始まる。
医師には無益な治療を提供しなければならない義務はないが
“無益な治療”概念の有効性については生命倫理学者の間でも議論されている。
これまでに試みられた定義は3つで、
① 狭義の無益性の定義
A proposed treatment is futile only when “incapable of producing the desired physiologic effect in a patient.
狙った通りの効果を患者に生理的に生じされることができなければ、その治療は無益。
ニューヨークのTask Force on Life and Lawなどが
QOL指標などの主観が交じることを避けるために採用した。
②質的無益性
生理学的な効果のみでなく、
一人の人としての患者が利益を得て、それを享受できなければ無益、とするもの。
この個所で、すーんごく興味深い、まさにショーチョ―的だぁ……と思ったことは、
その例として挙げられている、Crossleyという人の論文からの引用で、
a gastrostomy tube for an elderly and severely demented woman.
高齢で重度の認知症の女性への胃ろう。
「女性」???????????????
じいさんとばあさんじゃ同じ状態でも無益性が異なるのね。無意識に????????
③量的無益性
治療すれば利益はあるんだけれども、その可能性が小さすぎて無益と考えられるもの。
例えば骨髄移植以外に助かる道がないがん患者がいたとして、
移植が成功して助かる確率が1000分の1だという場合。
Truogが11月10日の講演で引用していたSchneiderman(とJecker)の
「過去100例で効果がなかったら無益」という基準にOulletteも
質的無益性定義の試みとして言及している。
しかし、いずれの定義も病院間、医師間で無益性が一貫するには寄与せず、
議論の流れは、生命倫理委員会など権力の乱用を防ぎ患者を守る手続き重視へと移る。
G事件で使われたTADAも、このセーフガード精神による多層手続きモデルである。
(ね。こんなの言われたら「おい……」と思いますよね)
ただTADAは何が「医学的に不適切」かを定義していないし、
倫理委の検討に基準を定めているわけでもない。
Art Caplanが言っているように、
無益性概念の有用性議論は結局のところ
「医療職のインテグリティ」と「患者の自己決定権」の対立であり、
TADAは「患者の自己決定権」よりも「医療職のインテグリティ」を採用し
Lainie RossはEmilioの母親の決定権を支持する。
(この人は救済者兄弟でもAshley事件でも親の決定権論・家族の利益勘案論者です
それぞれエントリーはありますが、リンクはあしからず省略)
Truogは、無益な治療論そのものは正当化できるとしても
G事件での倫理委の判断は間違いだったと批判。
その内容は当ブログで批判論文を読んだ通りなので、こちらを↓
TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)省略。
-------
ここまで読んで、私が一番不満だったのは、
生命倫理学者の言い分や議論にだけウ―レットが
「背景」や「経過」や「状況」をカウントしていて
障害者コミュニティの言い分にはそれらがカウントされていないこと。
これは誰かと誰かの言い合いになったら、よくあることで、
自分のしたことについては「状況や経緯から止むを得なかった」と状況判断が伴うけど、
相手のすることについては「そういう人だから」と相手の人格に帰してしまいがち……
ということと重ねると、やっぱウ―レットって生命倫理学者の方に自己同視してるじゃん?
……と思うわけです。どうしても。
でも、これ、振り返って考えるに、たぶん作戦。だとしたら、成功しているんじゃないだろうか。
生命倫理学のサイド寄りの視点で書かれることで生命倫理側にこの本が読まれやすくなるだろうし、
同時に、障害者運動の主張がどのように眺められているかが描かれているとも言える。
そして「考察」でウ―レットが主張するのは、このシリーズの最初のエントリーで引用したように
生命倫理学はこうした皮相的な捉え方をやめて「障害者の言葉ヅラの背景にあるものに思いを致せ」。
それだけじゃない。
ウ―レットは「考察」で、さらに、ばしっと実にブラボーな提言を次々と繰り出していく。
大きく要点だけ挙げると、
・医療の中に障害者に対する倍あるがあることは歴史的事実である
・生命倫理はその事実を研究し、エビデンスをきちんと出せ。
・障害者と会話を始め、和解に向けて信頼構築の努力を背よ。
・そのためにも机上の思考実験でトンデモな主張をするシンガーとの間に、距離とれ。
・医療改革と資源の平等が問題になっている時だけに“無益な治療”概念を棚上げせよ。
・医療の意思決定をめぐる議論に障害者を参加させよ。
次のエントリーで「考察」を。
Gonzales事件の概要は非常に詳しくまとめられているので、
いずれ事実関係の整理をしたいとは思いますが、
これまでに以下のエントリーを書いているので
ここでは事件の詳細は省略します。
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
まずG事件に関する「障害者コミュニティの見解」
障害者がG事件で問題にした点として挙げられているのは
・親の決定権を侵害し医師に「神のような地位」を与えた。
・無益性概念に一貫性がない。
・法的検討が行われていない。
“無益な治療”論について問題にされているのは主として以下の3つ。
・医師の偏見
・カネが判断要因となっていること
・法の下で保障された平等な保護に違反する
医療の中に障害者に対するバイアスがあるという点は
障害学者のJames Werth , Carol Gill, ハーバード大法学者のMartha Fieldsなどが指摘している。
バイアスとカネの両方にまつわる典型例として
オレゴン州が1990年代初めに導入を試みて
保健省の障害者差別に当たりADA違反との指摘を受けて見送られた
メディケイドの配給制度Oregon Planがある。
(これについては別途エントリーでまとめてみたいと思います)
特にテキサスの無益な治療法TADAについては、
TADAが「不可逆」とする条件が以下の3つであることが問題視される。
(訳語はさほど吟味したものではありませんのでご了承ください)
a condition, injury, or illness:
(A) that may be treated but is never cured or eliminated.
(B) that leaves a person unable to care for or make decisions for the person’s own self; and
(C) that, without life-sustaining treatment provided in accordance with the prevailing standard of medical care, is fatal.
以下の状態、怪我、または病気
(A) 治療は可能かもしれないが、治癒することも取り除くこともできない。
(B) 身辺自立できない、または自己決定できない状態のままになり、かつ
(C) 一般的医療のスタンダードの範囲で提供される生命維持治療がなければ死ぬことになる。
視覚障害や知的障害などAには当てはまってもBとCには当てはまらない障害もあるが
一方で人工呼吸器依存の四肢まひ者や、経管栄養の障害者は全てに当てはまる可能性があり、
QOL尺度そのものが医療のバイアスだという主張。
しかし、この部分の最後にOulletteが指摘しているのは
仮にMiller事件に適用されたとすればともかくも
障害ではなくターミナルであることが問題だったGonzales事件では
TADAへのこうした批判は当たらない、という点。
最後には、
死にゆく乳児の治療がどうあるべきか、その問題でカネをどう考えるかについては
生命倫理学者も悩みながら最善の答えを見つけようと鋭意議論しているところだ、と。
(ね。「ちょっと、アンタどういうつもりよ」と思いますよね、こういう書き方をされると)
次にG事件に関する「生命倫理学の見解」
こちらは、無益性概念をめぐる議論から解説が始まる。
医師には無益な治療を提供しなければならない義務はないが
“無益な治療”概念の有効性については生命倫理学者の間でも議論されている。
これまでに試みられた定義は3つで、
① 狭義の無益性の定義
A proposed treatment is futile only when “incapable of producing the desired physiologic effect in a patient.
狙った通りの効果を患者に生理的に生じされることができなければ、その治療は無益。
ニューヨークのTask Force on Life and Lawなどが
QOL指標などの主観が交じることを避けるために採用した。
②質的無益性
生理学的な効果のみでなく、
一人の人としての患者が利益を得て、それを享受できなければ無益、とするもの。
この個所で、すーんごく興味深い、まさにショーチョ―的だぁ……と思ったことは、
その例として挙げられている、Crossleyという人の論文からの引用で、
a gastrostomy tube for an elderly and severely demented woman.
高齢で重度の認知症の女性への胃ろう。
「女性」???????????????
じいさんとばあさんじゃ同じ状態でも無益性が異なるのね。無意識に????????
③量的無益性
治療すれば利益はあるんだけれども、その可能性が小さすぎて無益と考えられるもの。
例えば骨髄移植以外に助かる道がないがん患者がいたとして、
移植が成功して助かる確率が1000分の1だという場合。
Truogが11月10日の講演で引用していたSchneiderman(とJecker)の
「過去100例で効果がなかったら無益」という基準にOulletteも
質的無益性定義の試みとして言及している。
しかし、いずれの定義も病院間、医師間で無益性が一貫するには寄与せず、
議論の流れは、生命倫理委員会など権力の乱用を防ぎ患者を守る手続き重視へと移る。
G事件で使われたTADAも、このセーフガード精神による多層手続きモデルである。
(ね。こんなの言われたら「おい……」と思いますよね)
ただTADAは何が「医学的に不適切」かを定義していないし、
倫理委の検討に基準を定めているわけでもない。
Art Caplanが言っているように、
無益性概念の有用性議論は結局のところ
「医療職のインテグリティ」と「患者の自己決定権」の対立であり、
TADAは「患者の自己決定権」よりも「医療職のインテグリティ」を採用し
Lainie RossはEmilioの母親の決定権を支持する。
(この人は救済者兄弟でもAshley事件でも親の決定権論・家族の利益勘案論者です
それぞれエントリーはありますが、リンクはあしからず省略)
Truogは、無益な治療論そのものは正当化できるとしても
G事件での倫理委の判断は間違いだったと批判。
その内容は当ブログで批判論文を読んだ通りなので、こちらを↓
TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)省略。
-------
ここまで読んで、私が一番不満だったのは、
生命倫理学者の言い分や議論にだけウ―レットが
「背景」や「経過」や「状況」をカウントしていて
障害者コミュニティの言い分にはそれらがカウントされていないこと。
これは誰かと誰かの言い合いになったら、よくあることで、
自分のしたことについては「状況や経緯から止むを得なかった」と状況判断が伴うけど、
相手のすることについては「そういう人だから」と相手の人格に帰してしまいがち……
ということと重ねると、やっぱウ―レットって生命倫理学者の方に自己同視してるじゃん?
……と思うわけです。どうしても。
でも、これ、振り返って考えるに、たぶん作戦。だとしたら、成功しているんじゃないだろうか。
生命倫理学のサイド寄りの視点で書かれることで生命倫理側にこの本が読まれやすくなるだろうし、
同時に、障害者運動の主張がどのように眺められているかが描かれているとも言える。
そして「考察」でウ―レットが主張するのは、このシリーズの最初のエントリーで引用したように
生命倫理学はこうした皮相的な捉え方をやめて「障害者の言葉ヅラの背景にあるものに思いを致せ」。
それだけじゃない。
ウ―レットは「考察」で、さらに、ばしっと実にブラボーな提言を次々と繰り出していく。
大きく要点だけ挙げると、
・医療の中に障害者に対する倍あるがあることは歴史的事実である
・生命倫理はその事実を研究し、エビデンスをきちんと出せ。
・障害者と会話を始め、和解に向けて信頼構築の努力を背よ。
・そのためにも机上の思考実験でトンデモな主張をするシンガーとの間に、距離とれ。
・医療改革と資源の平等が問題になっている時だけに“無益な治療”概念を棚上げせよ。
・医療の意思決定をめぐる議論に障害者を参加させよ。
次のエントリーで「考察」を。
2011.12.18 / Top↑
米国の法学者、アリシア・ウ―レット(Alicia Oullette)が6月に出した
“BIOETHICS AND DISABILITY Toward a Disability-Conscious Bioethics”について
これまで以下の4つのエントリーを書いてきました。
(いったんQと思いこんだら何度見てもQとしか見えず、まだ訂正できていないので
大半のエントリーがQuelletteのままになっていますが、正しくはOulletteです)
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件:Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)
8月に概要を書いたところで、馴染みがあることだし、次は
「乳幼児期」のGonzales事件と「児童期」のAshley事件を一気に、と意気込んだのですが、
前者のG事件の個所を途中まで読んだところで中断し、そのままになっていました。
Oulletteの書き方は成長段階ごとに2つ程度の事件を取り上げ、
それぞれについて「概要」「障害者コミュニティの見解」「生命倫理学の見解」を取りまとめた上で
「考察」する、という構成を繰り返しています。
「乳幼児期」は既に読んだMiller事件とGonzales事件の2つ。
私は後者のG事件の2つ目のセクション「障害者コミュニティの見解」を
ほぼ読み終わったところで中断した格好でした。
理由は主に2つあって、1つには
ちょうど拙著「アシュリー事件」が最終ゲラの段階に差し掛かり、
ここにきて2つの事件について加筆訂正したいことが出てくると時間的に苦しいし、
十分な吟味もできないジレンマが出てくるので、
拙著が出た後に読む方がいいのでは、と考えたこと。
でも、それは、まぁ後付けの言い訳みたいな理由で、本当は、
Gonzales事件への障害者運動からの抗議について、
倫理学者らが『過激で敵意に満ちている』とか『手がつけられない out of control』と
表現するほど激烈なものだった、と感情的な批判でしかないかのように書き、
Miller事件では救命を拒んだ親の決定権を否定していながら
Gonzales事件では治療を求める母親の決定権を尊重しろと訴えるのは
親の決定権について障害者らの立場には一貫性がないと指摘し、
障害者が命の神聖を原理的に主張しているとでも言いたそうなトーンがある、などに
ほとんど「あいた口がふさがらない」ほど呆れ、大いに失望し、
おいおい……と途中で止まって、先に「生命倫理学の見解」の方をチラ見してみると、
そちらは倫理学者らがいかに誠心誠意、患者の利益を追求してきたか、
テキサスの「無益な治療」法(テキサス事前指示法TADA)にどのような効能があるか
などなどが強調されているものだから、いよいよ不愉快が募って、
Ashley事件での格調高い批判論文の感激から期待が高かっただけに、
はたまた、その期待と喜びでピョンピョンする思いで刊行からすぐさまオーダーし
Spitzibara的には1冊の本にあり得ないカネ払って買っちまっただけに、
なんだよ。ウ―レットも所詮はアカデミックな世界の住民でしかなかったのかよ……と
「手ひどく裏切られたもんだなぁ」の敗残感が大きかったんであります。
それで、読む気力をそがれたまま机の横に放り投げてあった。
で、いつのまにやら数カ月が経ち――
一昨日、Truogの「治療の無益性」講演を聞いて、
ああ、ここでもGonzales事件は出てくるな、やっぱりこの事件は
テキサス「無益な治療」法の代名詞みたいな事件だなぁ、と再認識したところで、
G事件と言えば、そういえばウ―レット……と、思い出した。
まぁ、もう一度だけ、もうちょっとだけ読んでみるべ……と
昨日 BIOETHICS AND DISABILITYを手に取った。そして、
ゴンザレス事件のパートの最初に戻り、31ページ分を一気に読んだ。
ウ―レットさん、ごめんなさいっ。
spitzibaraが浅はかでした。
あなたはやっぱり素晴らしい。
今からニューヨークに出掛けて、
いっそ飛びついてしまいたいくらい大好きだい。
spitzibaraは泣きましたね。
129ページのあたりから赤線つぎつぎ引きながら
spitzibaraは文字通り、涙を流しておりました。
134、135と、ページもspitzbaraの目鼻もまっかっかになりました。
ありがとう。この本を書いてくれて、本当にありがとう。
……と、こんな芝居がかかって長ったらしく、読む方にはさぞ迷惑な前置きを、
どうしても書かないでいられない気分になったのは、
例えば、129ページの以下の数行――。
The problem is, except in the courts, they are not heard or taken seriously. So they shout and protest to get attention in the press. I would hope that even my philosophy-trained colleague could look beyond the form of the message to ask why in the world are the people so angry. In fact, I would argue that it is incumbent upon bioethicists to ask that question and then to act to address it. The fact that members of a historically disenfranchised and abused population must shout to be heard is reason for alarm, not disdain. Respectful debate is possible only when all sides are heard and all concerns acknowledged.
(障害者が敵対的だ攻撃的だと見下し、あんなの相手に議論なんかできるかとばかりに生命倫理学者は切って捨てるけれど)、法廷でもなければ、障害者の言うことには誰も耳を傾けないし、真面目に取り上げもしない。だから障害者はメディアで取り上げてもらうために抗議の大声をはりあげるんじゃないの。私の身近にいる同僚にしたところで仮にも哲学をかじってきたというならよ、言っていることの上っ面だけを見て終わるんじゃなくて、そもそもこの人たちがどうしてこんなに怒っているのかを考えてみたらどうなのよ。
実際、生命倫理学者にはそう問うてみる義務があるはずだし、問えばその問題に対処すべく行動する義務だって出てくるはずだ、と私は言いたい。歴史的にもずっと阻害され虐待されてきた人たちが社会に届く声を上げようと思えば、大声で叫ぶ以外になにができるというの。
それで、なんで、障害者があんたら生命倫理学者に見下され侮蔑されなければいけないわけ? そこにこそ問題を感じるのがまっとうな生命倫理学者というものでしょう。
誠実な議論が可能になるのは、参加するみんなの声がお互いに届き、関係者みんなが十分に尊重されて後のことですよ。
上記の日本語訳は英文のままではもちろんなく、
いわば攻撃的かつ下品なspitzibaraに乗り移られたウ―レット。
原文はもっと格調高く上品です。
最後には、この本の主題とも思える、このような主張へと展開していく
(実は133ページからは、さらなる“ブラボー”があと2つもある!)
Gonzales事件に関するセクションについて、
次のエントリーに続きます。
【OulletteのAshley事件関連論文】
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
(論文については、それぞれ、ここから4つエントリーのシリーズで)
“BIOETHICS AND DISABILITY Toward a Disability-Conscious Bioethics”について
これまで以下の4つのエントリーを書いてきました。
(いったんQと思いこんだら何度見てもQとしか見えず、まだ訂正できていないので
大半のエントリーがQuelletteのままになっていますが、正しくはOulletteです)
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件:Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)
8月に概要を書いたところで、馴染みがあることだし、次は
「乳幼児期」のGonzales事件と「児童期」のAshley事件を一気に、と意気込んだのですが、
前者のG事件の個所を途中まで読んだところで中断し、そのままになっていました。
Oulletteの書き方は成長段階ごとに2つ程度の事件を取り上げ、
それぞれについて「概要」「障害者コミュニティの見解」「生命倫理学の見解」を取りまとめた上で
「考察」する、という構成を繰り返しています。
「乳幼児期」は既に読んだMiller事件とGonzales事件の2つ。
私は後者のG事件の2つ目のセクション「障害者コミュニティの見解」を
ほぼ読み終わったところで中断した格好でした。
理由は主に2つあって、1つには
ちょうど拙著「アシュリー事件」が最終ゲラの段階に差し掛かり、
ここにきて2つの事件について加筆訂正したいことが出てくると時間的に苦しいし、
十分な吟味もできないジレンマが出てくるので、
拙著が出た後に読む方がいいのでは、と考えたこと。
でも、それは、まぁ後付けの言い訳みたいな理由で、本当は、
Gonzales事件への障害者運動からの抗議について、
倫理学者らが『過激で敵意に満ちている』とか『手がつけられない out of control』と
表現するほど激烈なものだった、と感情的な批判でしかないかのように書き、
Miller事件では救命を拒んだ親の決定権を否定していながら
Gonzales事件では治療を求める母親の決定権を尊重しろと訴えるのは
親の決定権について障害者らの立場には一貫性がないと指摘し、
障害者が命の神聖を原理的に主張しているとでも言いたそうなトーンがある、などに
ほとんど「あいた口がふさがらない」ほど呆れ、大いに失望し、
おいおい……と途中で止まって、先に「生命倫理学の見解」の方をチラ見してみると、
そちらは倫理学者らがいかに誠心誠意、患者の利益を追求してきたか、
テキサスの「無益な治療」法(テキサス事前指示法TADA)にどのような効能があるか
などなどが強調されているものだから、いよいよ不愉快が募って、
Ashley事件での格調高い批判論文の感激から期待が高かっただけに、
はたまた、その期待と喜びでピョンピョンする思いで刊行からすぐさまオーダーし
Spitzibara的には1冊の本にあり得ないカネ払って買っちまっただけに、
なんだよ。ウ―レットも所詮はアカデミックな世界の住民でしかなかったのかよ……と
「手ひどく裏切られたもんだなぁ」の敗残感が大きかったんであります。
それで、読む気力をそがれたまま机の横に放り投げてあった。
で、いつのまにやら数カ月が経ち――
一昨日、Truogの「治療の無益性」講演を聞いて、
ああ、ここでもGonzales事件は出てくるな、やっぱりこの事件は
テキサス「無益な治療」法の代名詞みたいな事件だなぁ、と再認識したところで、
G事件と言えば、そういえばウ―レット……と、思い出した。
まぁ、もう一度だけ、もうちょっとだけ読んでみるべ……と
昨日 BIOETHICS AND DISABILITYを手に取った。そして、
ゴンザレス事件のパートの最初に戻り、31ページ分を一気に読んだ。
ウ―レットさん、ごめんなさいっ。
spitzibaraが浅はかでした。
あなたはやっぱり素晴らしい。
今からニューヨークに出掛けて、
いっそ飛びついてしまいたいくらい大好きだい。
spitzibaraは泣きましたね。
129ページのあたりから赤線つぎつぎ引きながら
spitzibaraは文字通り、涙を流しておりました。
134、135と、ページもspitzbaraの目鼻もまっかっかになりました。
ありがとう。この本を書いてくれて、本当にありがとう。
……と、こんな芝居がかかって長ったらしく、読む方にはさぞ迷惑な前置きを、
どうしても書かないでいられない気分になったのは、
例えば、129ページの以下の数行――。
The problem is, except in the courts, they are not heard or taken seriously. So they shout and protest to get attention in the press. I would hope that even my philosophy-trained colleague could look beyond the form of the message to ask why in the world are the people so angry. In fact, I would argue that it is incumbent upon bioethicists to ask that question and then to act to address it. The fact that members of a historically disenfranchised and abused population must shout to be heard is reason for alarm, not disdain. Respectful debate is possible only when all sides are heard and all concerns acknowledged.
(障害者が敵対的だ攻撃的だと見下し、あんなの相手に議論なんかできるかとばかりに生命倫理学者は切って捨てるけれど)、法廷でもなければ、障害者の言うことには誰も耳を傾けないし、真面目に取り上げもしない。だから障害者はメディアで取り上げてもらうために抗議の大声をはりあげるんじゃないの。私の身近にいる同僚にしたところで仮にも哲学をかじってきたというならよ、言っていることの上っ面だけを見て終わるんじゃなくて、そもそもこの人たちがどうしてこんなに怒っているのかを考えてみたらどうなのよ。
実際、生命倫理学者にはそう問うてみる義務があるはずだし、問えばその問題に対処すべく行動する義務だって出てくるはずだ、と私は言いたい。歴史的にもずっと阻害され虐待されてきた人たちが社会に届く声を上げようと思えば、大声で叫ぶ以外になにができるというの。
それで、なんで、障害者があんたら生命倫理学者に見下され侮蔑されなければいけないわけ? そこにこそ問題を感じるのがまっとうな生命倫理学者というものでしょう。
誠実な議論が可能になるのは、参加するみんなの声がお互いに届き、関係者みんなが十分に尊重されて後のことですよ。
上記の日本語訳は英文のままではもちろんなく、
いわば攻撃的かつ下品なspitzibaraに乗り移られたウ―レット。
原文はもっと格調高く上品です。
最後には、この本の主題とも思える、このような主張へと展開していく
(実は133ページからは、さらなる“ブラボー”があと2つもある!)
Gonzales事件に関するセクションについて、
次のエントリーに続きます。
【OulletteのAshley事件関連論文】
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
(論文については、それぞれ、ここから4つエントリーのシリーズで)
2011.12.18 / Top↑