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第5章の導入部分については、こちらのエントリーに既報 ↓
Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」(2012/1/17)

Oulletteが「生命倫理と障害」の第5章(生殖年齢)で取り上げているケースは
1985年カリフォルニア州のValerieの裁判。

過去の優生思想による強制不妊の歴史への反省から
それまで障害者への強制不妊が全面的に禁止されてきた方針は、却って、
憲法の第14条修正などで保障されたプライバシーと自由の権利を侵害するとして、

条件により容認へと変わる転換点となった裁判。

Valerieは当時29歳。ダウン症でIQは30。
母親と母親の再婚相手と幼時から一緒に暮らしており、
両親はなるべく本人に自由で広い社会生活を送らせたいと願っているが
性的な関心が強いValerieが場所や相手を構わず男性に性的行為を仕掛けていくので
両親の目の届くところから外へ出しにくく、

ピルは身体に合わなかったし、
その他の方法を試そうにも本人が受診を嫌がるので、
医師から卵管結紮を勧められた、

それにより、家の外で自由に行動させてやることができ
本人のQOL向上に資する、として、両親が許可を求めたもの。


Valerie本人を代理する弁護士が任命され、
その弁護士が問題にしたのは「もっと侵襲度の低い方法で」という点と、
もう1つが「そもそもカリフォルニア州の裁判所に不妊手術を認める権限があるのか」。

前述のように、「自己決定能力を欠いた発達障害者への」不妊手術を
当時のカリフォルニア州法は全面的に禁止していたため、
カリフォルニア州の裁判所には認める権限がないこととなり、

そこでValerieの両親は
「重症障害者の不妊手術を禁じる州法は違憲」として同州最高裁に上訴。

Valerieには、可能な限り豊かで実りある人生を送る自身の利益を守るべく
子どもを産む・産まない、産まない場合の避妊方法についての決断を
両親に代理決定してもらう憲法上の権利があるかどうか、が焦点となった。

憲法が結婚と生殖の自由・権利を認めている以上、
障害のある女性にも障害のない女性と同じく
望まない妊娠をせずに満足のいく充実した人生を送る権利があり、
州法によって不妊手術が全面禁止されるならば
自分の状態に応じた唯一の安全な避妊方法を奪われる人が生じる、として、

最高裁は、全面禁止は憲法違反と判断した。

3人の裁判官が反対意見を述べたが、その理由としては以下の2点。

・Valerieの両親の不妊手術の理由こそ、かつての強制不妊の背景にあった価値観だった。
・全面禁止によってこそ自己決定できない人の利益の保護は可能。

ただし、Valerieの両親の要望は
より侵襲度の低い方法では目的が達成できないとのエビデンスが十分ではないこと、
Valerieが実際に妊娠する可能性のエビデンスが十分ではないこと、
などの理由で却下された。

      ・・・

全面禁止ではなく個別判断で、との方針転換そのものは
生命倫理学からも障害者運動からも、共に支持された、とウ―レットは言う。

両者に意見の相違があったのは、
本人以外の誰がどのような状況下で決定することができるのか、という点だけれど、

厳しいセーフガードを必要とする姿勢は
障害者アドボケイトだけでなく生命倫理学者の間でも共通している、として、
生命倫理学者Diekema、Cantor、障害学の学者 Fields、3人の議論を引用している。

Deikemaの論文についてはこちらに ↓
知的障害者不妊手術に関するD医師の公式見解(2008/8/21)

Diekemaはお馴染みAshley事件の担当医だったわけなのだけど、
A事件の正当化とは全く矛盾する彼の慎重論を知らん顔で引っ張ってくるあたり、
ウ―レットもなかなかやるんである。

Cantorの議論は、
望まない治療を拒否する権利と同じ、以下の3つの利益基準を適用し、

① 自己決定という利益
② 幸福における利益(治療決定の影響を全体的に捉える)
③ 身体の統合性を維持する利益(無用な身体の侵襲を受けない自由)

代理決定者がこの3つを十分に考慮するなら
不妊手術を選択肢にすることで障害者の尊厳の侵害が回避される、と説き、

本人利益のみを代理する法的代理人を置くことと、
独立した病院内倫理委で検討することを条件としている。

Martha Fieldは裁判所の判断を必須としつつ、
さらに「裁判官にも偏見や欠陥がある」と述べて
裁判所の審理にも厳格な基準を設けるべきだと主張。

(オーストラリアのAngela事件を思うと、これは重要な指摘だと思う)

特に、本人の最善の利益判断においては
家族や社会の利益ではなく、本人だけの利益に限定する必要を強調している。


この後ウ―レットが書いていることが、私には非常に気にかかる。

Ashleyのケースがトップニュースになるまでは、生命倫理学者らもFieldsやその他の障害の専門家と同じく、不妊手術の最善の利益検討では介護者の利益ではなく本人の利益だけを問題とするとの意見だったように思えた。アシュリー事件でのパラダイム・シフトは、今のところ、まだ強制不妊のケースでの生命倫理分析に影響してはいない。



そのAshley事件でのシフトを起こしたのは、Diekema自身――。

彼がA事件以降、強制不妊の問題だけでなく障害児・者の切り捨てに向けて
それまでの慎重姿勢からスタンスを大きくシフトさせていることを考えると、

ウ―レットがここで書いている「まだ」という一言は、決して小さくはない。
2012.01.25 / Top↑
昨日、以下のエントリーで紹介したアリソン・ラッパーの妊娠裸像について、
ずっとグルグルしている。

Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」

今朝一番のツイッターで、mnagawaさんがこの話題に反応しておられるのを発見したことから、
ぐるぐるが俄かにいくつかの焦点を結び始めた気がするので、
今までに考えたことを、ざっくりと。


ツイッターでmnagawaさんも
「女性が真っすぐな眼差しをして座ってるんだなと思ったのが最初」と書いておられるけれど、
私もこの像で目が止まったのは「まっすぐなまなざし」と「すっくと伸びた背」だった。

全体として受けた印象は、「強さ」と「清潔」。
同時に、ここに描かれているものは「意志」……? とも思った。

それが生きる意思なのか、子を産み育てようとする意思なのか、はたまた全然ちがうのか、
そんなことは本人以外には分かりようがないことだから詮索しても仕方がないのだけれど、
そこに一つの強い意思がある、ということを像が表現しているように感じた。

「清潔」だと感じたのは、
妊娠している以外に過剰に女性性が強調されていないからだと思う。
女性の身体ではあるけれど、存在そのものはとても中性的な感じがする。
「ここに妊娠している一人の人がいる」とでもいったふうな。

例えば髪が短いとか、顔が中性的だということだけではなくて、
もうちょっと、そこに描かれている人の存在感そのものが
私には「女性」というよりも「ひとりの人」だった。

BBCに引用されていた評論家は
「非常に力強く、女性の、生命の、真の美しさ」と言っているのだけど、
私は「女性の」ではなく「生命の」でもなく、「真の」でもなくて、
「アリソン・ラッパーという一人の人がある強い意思を持ってそこにいる、
その姿を描いて、そこに描かれた凛と澄んだ意思の強さが美しい」というふうに感じた。

それでも、この像を「醜悪」だと感じる人がいる。
そのことについて考えていて、頭に浮かんだのは2つ。

1つは、
この像に私はたいした違和感はないんだけど、それは何故だろう、と考えていたら
この像って、妊娠していることを除けば、あの乙武クンと同じ姿なんでは? 

乙武クンが発言・行動し、マスコミに登場してくれたおかげで、
私たち日本人は英国人よりはるかに「手がなく脚が短い身体」を見慣れているのかも?

じゃぁ「醜悪」だと感じる違和感には
「慣れ」の問題という部分も大きいのか……?

……と考えて、もう1つ、連想が繋がったのが、
娘とその周辺にいくらでもいる「奇妙な身体を持った人たち」のこと。

ミュウ自身、背中が3次元にねじれているし脚も曲がったまま固まっているから、
私たち親は見慣れているし、そういう身体ごとミュウはミュウなので、
大したことでも何でもないけれど、初めて見る人にとっては
「なんてねじれた身体」「気持ち悪い身体」と見えるのだろうと想像してみる。

そして実際、世の中にはミュウ以上に身体が変形した人たちが沢山いる。

中には、いいかげん見慣れている私自身、初めて見た時に思わず息を飲み、
いったい人の身体のどこがどうなったらこうなるのか、と内心でこっそり考えたほど、
見事な(?)変形をきたした人もある。

そういう「変形した身体」「ねじれた身体」「奇妙な身体」を持った人たちが
文字通りフロア・ライフでゴロゴロしているのが重症障害者の世界なわけで、
これもまた見慣れた私には大したことでも何でもないけれど、
そういう人たちが自力で動くと、その動きもまた見慣れていない人の目には
「異様な動き」「気持ち悪い動き」と映るのだろう。

でも、
先の見事なほどの変形をきたした身体の持ち主であるAさんとその後、何度も接しているうちに、
個人的に知りあい、Aさん「その人」と日常的にやりとりをしていると、
本当に身体はぜんぜん問題ではなくなるものなんですよ、これが。

AさんはAさんでしかなく、たまに意識するとしても
せいぜいが「そういう身体を持ったAさん」でしかない。

でも、たぶん、そういう体験そのものは
案外に誰もが経験しているんじゃないだろうか。

自分のセックスのパートナーが必ずしも
グラビア・アイドルやイケメン俳優みたいな
パーフェクトな容貌や身体の持ち主でなくても
みんなそれはそれとして何ら問題なくやっていけていることと
それは、とても似ていることのような気がする。

恋愛して好きになった人とセックスする段になって
期待以下の身体だったから愛情そのものが冷めてしまった、という人はいないだろうし、
いたとしたら、それは愛情そのものがその程度のものだったということだろうから、
人と人との関係性の中では、身体って所詮はその程度のことでしかないんでは?

誰かの「異なった身体」がインパクトを持つのは、それを初めて見た瞬間だけ。
そして、相手との関係性の中では、その一瞬にはほとんど意味はないのでは?


mnagawaさんは、ラッパー像の四肢の様態について
「(自身にとっては)プラスにもマイナスにもあまり働かない」と書いている。

私もそう。

それは、たぶん、「見慣れている」というだけではなく、
そういう名前も個性もある「その人」との「出会い」を繰り返し体験して、
人との関係性の中で身体はその程度のものでしかないことを知っているからなのでは?

そしてそれは、上でセックスについて書いたように、本当は誰もが知っていることなのに、

人に愛されるためにはパーフェクトな身体を手に入れることが大事なのだと
誤って思いこまされてしまうのと同じように、

「障害ゆえに異なっている身体」だけが「そういう身体を持ったその人」よりも大問題だと
どこかで誤って思いこんでいるだけなのでは?


そういえば、この前、
重症障害児・者を見たことも触ったこともない学者さんたちが
アカデミックな世界で障害のある新生児の中絶や安楽死を議論していることへの疑問から
そういう人たちと「出会う」べく行動を起こしてほしいと、ある人にお願いし、
「見学にいく」のではなく「出会って」ほしいのだと念押ししたのだけれど、

「見学」にいって、フロアで文字通りごろごろしている
いくつもの「ねじれた身体」や「奇妙な身体」を「見て」終わってしまったら、
「自分ならこんな姿になってまで生きたいとは思わない」的な安易な感想に繋がらないとも限らない。

だからこそ、
その中の誰かと触れあい、○○さんという名前を持ち個性を持った人と接し、付き合ううちに、
ねじれた身体が全然問題ではなくなる「○○さんとの出会い」の体験をしてもらいたい。

「出会ってほしい」にこだわった私自身の気持ちとは
改めて、なるほど、こういうことだったんだなぁ……と再確認。

それならばこそ、やっぱり、
障害児・者の処遇や命にかかわる議論をする学者さんたちはもちろん、世の中の一人でも多くの人に
「障害ゆえに異なった身体をもっている誰か」と出会い、「その人」自身と知り合い関わることで、
「人との関わりにおいて身体は所詮はその程度のことに過ぎない」と
発見する体験をしてもらえたら……と改めて思う。


【関連エントリー】
「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫を作りました(2010/10/4)


もう1つ、
そういえば、昔、デミー・ムーアが臨月のヌードを雑誌の表紙に発表した時にも
賛否両論が轟々とあったなぁ……というのも思いだしたのだけど、
これについては、まだグルグルが余り収束していないので、また改めて。
2012.01.19 / Top↑
Alicia Ouelletteの”Bioethics and Disability” 第5章「生殖年齢」の
冒頭で取り上げられている話題がこれ。

まったく知らなかったので検索してみたら、
日本語でもいろいろ出てきた。

マーク・クインと言えば、1997年の「センセーション展」で、自ら採血した冷凍血液で自分の頭像を作るというグロテスクな作品で、一躍その名が知られる所となったアーティストである。
今回マーク・クインが制作したのは、彼の友人であるひとりの障害者をモデルにした巨大な彫刻。高さが3.6mもある、ぬめりとした表面を持つ大理石でできた人物像。
その人物像を巡って、今ロンドン中が大騒ぎになっている。理由は、その巨大な人物像には腕がなく、足は極端に短く、妊娠8ヶ月の女性の裸体だからである。先天的な障害を持つ彼の友人の名が、作品タイトルになっており、「Alison Lapper Pregnant(妊娠8ヶ月のアリソン・ラッパー)」という。
(中略)
ある評論家は「非常に力強く、女性の、生命の、真の美しさを秘めている」と絶賛し、あるジャーナリストは「公然に醜いものを設置した」と酷評した。
そして当のアーティスト本人は「今まで歴史の中で、障害者は常にアートにおいて不当な扱いを受けてきた。アリソンの像は、女性の強さを表す、新しいタイプのアートなのだ」とコメントしている。
この彫刻、2007年ドイツの彫刻家トーマス・シュッテの「鳥のためのホテル」という抽象建築彫刻にとって変わるまでの間、観光客だけでなく、ディベート好きなロンドナーにとっても格好の議論のネタとして君臨するのであろう。
またやってくれたぜ、マーク・クイン!
ROUTINE Diary of Manya Kato, 2005年9月20日(在英の方がBBCの記事を元に紹介)

ラッパー氏は1965年、腕と足が奇形的に短い「アザラシ肢症」という障害を持って生まれた。生後6週で親に捨てられ、保護施設で育つなど、不遇な幼年時代を過ごした。
ラッパー氏は17歳のとき、正常人たちと一緒に英国のバンステド大学で美術の勉強を始めた。22歳のときに結婚して幸せな新婚生活を送りもしたが、夫の暴力に苦しみ、2年間の短い結婚生活を終えた。
1999年姙娠したラッパー氏は、周囲の人々が「子供も母親のような障害を持って生まれるかもしれないし、たとえ子供を生んだとしても、どのように育てるのか」と言って出産を止めさせようとしたが、子供を生むことを決心し、元気な男の子を生んだ。
ラッパー氏は遅まきながら自分の夢を実現するために美術の勉強を再度始めた。
ヘドルリ美術学校とブライトン大学を卒業したラッパー氏は、手がなくて口で絵を描く画家兼写真作家の道を歩き始めた。
ラッパー氏は写真機で光と影を利用し、自分の裸身をモデルとし、彫刻のような映像を作って高い評価を受けている。
腕のない「ミロのヴィーナス」をもじって、自らを「現代のヴィーナス」と呼ぶラッパー氏は、身体の欠陷を乗り越えて肯定的な自分の発展を遂げ、世界の人々から尊敬を受けた。
ラッパー氏は昨年、英国の彫刻家マーク・クィーン氏が臨月のラッパー氏をモデルにした5mの彫刻作品を、ロンドンのトラファルガー広場に展示し、「モデル」としても有名になった。
「人生に挫折はない、夢と希望があるのみ」…口足画家のラッパー氏
美術市場、2006年4月26日 (ラッパーさん韓国訪問ニュースを紹介するブログ記事)


ウ―レットは、
この像に対して起きたリアクションについて
「障害のある女性が性的な存在となり子育てをする」ということへの驚き、困惑、反発であり、

その背景にあるのは「障害のある女性は性的な存在ではなく、
子どものように無能で依存的、受動的、ジェンダー外の存在であり、従って
養育とか生殖といった役割にはふさわしくない」との思い込みがある、

そして、それらが偏見となって
かつての優生思想に基づく知的・精神障害者への強制不妊手術に繋がったのだ、と述べる。

ここで引用されている Barbara Faye Waxmanの言葉が、ずん、と来る。

The message for disabled kids is that their sexuality will be realized through their sexual victimization……I don’t see an idea that good things can happen, like pleasure, intimacy, like a greater understanding of ourselves, a love of our bodies.

障害のある子どもには、あなたのセクシュアリティから起こるのは性的な被害だけ、とのメッセージばかりが送られて……たとえば悦びとか親密さとか自分のことがより理解できるようになるとか、自分の身体を愛しむとか、いいことだって起こる可能性については誰も考えない。


セクシュアリティと育児にまつわる偏見から、
特に知的障害・精神障害のある女性は自動的に子育てに不適切とされて
生まれた子供の親権を与えられなかったり、
自己決定能力のある障害者でも強制不妊や隔離の対象とされたり、
本人のためだとして性的な関係から遠ざけられてしまう。

またウ―レットは、医療の現場にある障害者に対する偏見も指摘する。

例えば、女性障害者が婦人科の検診を受けようとすると、ADAから10年も経った現在でも
診察台に上がるための介助者を自分で調達して来いと求められるし、

そのために女性障害者では癌の発見が遅れている事実もある。

さらに、
当ブログでもお馴染みのBill Peaceが
怪我をした息子を救急病院へ連れて行った時に、
医療職が息子に向かって「親はどこか」などと問い、
そばにいる車いすの成人男性は自動的に患者とみなされて
それが親だとは誰も思いもしなかったエピソードを上げ、

次のように指摘する。

ピースの体験は典型的で深刻なものだ。彼の体験は、障害のある人は患者であって人ではないという偏見がいかに医療職に根深いかを物語っている。
(p.200)


ウ―レットの「生命倫理と障害」に関するエントリーの一覧はこちらの末尾に ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64541160.html
2012.01.19 / Top↑
私がツイッターを覗き始めたのは、ほんの数ヶ月前のことで、
それまでは読み方すら知らず、従って自分が始めるつもりもさらさらなかったのですが、

万が一にも始めるとしたら、一つ
これだけはオトシマエをつけておかなければ……ということがあり、
その、よもやのツイッターをついに始めてしまったので、

これは、そのオトシマエのエントリーです。

          ―――――

E先生へ。

9月に「先生、ボクの全身の細胞が……」というエントリーを書き、
英語の授業の際、私の前でつい「脳性マヒ」をジョークにしてしまった学生さんを
障害のある子の親としての痛み故か、教師としてバシッと叱れなかった忸怩たる思いと、
その学生さんが私の痛みに気付きオトシマエをつけに来てくれたエピソードを書いた際、
先生のことをボロカスに書きました。

書いたことについての言い訳は、一応、以下です。

・お目にかかった直後はともかく、先生のような偉い学者さんが
まさかその後も私のブログを覗きにきてくださっているとは、
まったく想像できませんでした。だから、正直なところ、
先生の目に触れることはないだろうとタカをくくっていました。

・ライターとしての仕事先で見聞きしたことを批判的に書きたい場合には、
時間を置き、なるべく場所と人物が特定されないような書き方で、という
自分なりの線を引いています。ここでも1年近く経っていて、
人物が特定されないように書いているので、まぁ、いいだろうと考えました。

・全面的に真に受けたわけではもちろんないですが、当日、帰る際にご挨拶をしたら
「ブログに僕の悪口、書いていいから」と先生がおっしゃったので、
書かれる可能性をある程度了解いただいている感じで受け止めてもいました。

・アップした直後に、ここは人物を特定しかねないと思って削除した部分があるのですが、
まさか先生が削除前のわずかな間にご訪問くださるとは思いもよらないことでした。

・なにより、私が匿名にしたご本人がツイッターで
「これは自分だ」と名乗られていた……なんて全くの想定外で、ほとんど驚愕でした。


私が先生のツイッターに気付いたのがいつだったか、はっきり記憶していないのですが、
拙著「アシュリー事件」が出た後、出版社の方のツイッターからあちこちしている間に
たまたま行き当たってしまいました。

で、先生が衝撃を受けられて延々とツイートしておられるのを読みながら
大変申し訳ない気持ちになりました。

安易に人間の品性の問題にして
「人格攻撃」と取られる書き方をしてしまったことについて

深くおわび申し上げます。

いかに個人のブログとは言え不特定多数に向けて発言するのに、
あまりにも安直、不用意、怠慢だったと思います。

あそこで私が書きたかったのは先生への人格攻撃ではなく、
アカデミックな世界の人の議論や、その議論をしている人たちの意識と、
そこで議論されている対象を現に生きている者の痛みとの距離について、でした。

先生が私のエントリーを読まれて受け止められたような
議論の進め方とか、その内容の正当性の話ではなく、
当事者の痛みに対する感受性の話のつもりでした。

例えば、以下のエントリーでPeter Singerについて、ちょっと書いてみたようなこと ↓
「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」(2010/11/3)


アカデミックな世界の人たちの意識への
「”議論”でしかない」という疑問というか不満は
(一部の方には「”業績作り”でしかない」という疑問も)
あの晩よりはるか以前から私の中にはずっとあったものなので、

あのエントリーでは、
たまたま新鮮な印象が残っていた先生の発言に、
アカデミックな世界の人の意識を代表させてしまいました。

その点が、何より、いけなかったと思います。

この疑問については、今もまだうまく書ける自信がないので、
また改めて書ける時が来れば、少しずつ書いてみるということにしたいと思います。


このエントリーは
ツイッターを始めた日に書き始めて、
なかなか書き終えることができないままになっていたのですが、
昨日、思いがけず先生が私のツイッターをフォローしてくださったことから、
なにはともあれオトシマエをつけなければ、と急いで締めくくりました。

まだまだ言葉足らずと思いますが、まずはお詫びいたします。
本当に申し訳ありませんでした。


あの晩、まるきり場違いなところに出てきてしまった……と臍を噛んでいた時に
私のような何も知らない素人を先生がバカにもせずに相手をしてくださったことや
「アシュリー事件について書かれたらどうですか」と言っていただいたことは
私にはとても嬉しい出来事でした。

今だから言えることですが、実はあの頃、
「学者でもないオマエに何が書けるものか」と
あちこちから言われているような出来事が続いて、萎えそうになりながら、
陽の目を見るかどうかもわからない「アシュリー事件」の原稿を
シコシコと書いている状態だったのです。

だから、あの晩の先生の言葉は大きな励みでした。
あの節には、ありがとうございました。

そういう人のことを、あんな書き方をしてはいけませんでした。
冒頭に言い訳したような事情で、ついやってしまいました。ごめんなさい。

これに懲りず、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

Spitzibara


【PS 1】
当該エントリーで私がPeter Singerを「卑怯者」だと書いているのは
主として、その個所にリンクした特定の発言についての感想です。

障害当事者らからの批判に対して、
「実際に障害のある新生児を殺しているのは医師であって自分ではない」という言い逃れは
障害のある新生児の安楽死を説く最先鋒で、大きな影響力をもつ学者の発言として
私はやっぱり卑怯なヤツだと思います。


【PS 1】
それにしてもE先生、「まぁ自分のサイトで若い女の子と揉めるよりマシか」は
やっぱり、あまり品性よくはないっすよ。

ふん。オバサンでどこが悪いか。(9割方、ジョーダンです)
2012.01.13 / Top↑
Oulletteの”BIOETHICS AND DISABILITY”(p.114)から
1990年代初頭にOregon州で提唱されたが
連邦政府保健省から米国障害者法(ADA)違反を指摘されてボツになった
配給医療の「オレゴン・プラン」について。

医療には障害バイアスがあるとの障害者コミュニティからの指摘は歴史的事実だ、と
敢然と書いてくれるOulletteが、“無益な治療”論をめぐる3章で
障害当事者に医療に対する不安につながるトラウマを残した事件として挙げているのが
Baby Doe事件と、この「オレゴン・プラン」。

Oulletteの解説によると、
メディケアの給付対象とする治療に優先順位をつけ、
それによって対象者の拡大を図ろうとの計画。

その優先順位を決める方策の一つが電話によるアンケート調査で、
6種の機能障害と23の症状についてどう感じるかを問い、
これらの障害と症状の「満足(訳?)の質 Quality of Well-Being」をランクづける、
というものだった。

そのランキングに基づいてオレゴン・プランが実施されると、
それまで給付対象とされていた709の医療サービスの内
122が対象外となる見込みだった。

しかし、そのランキングは
症状のない状態に患者を戻す医療サービスが優先されるもので、
慢性疾患や障害のある患者への医療の切り捨てにつながる。

オレゴン州は実施に向け合衆国保健省の承認を求めたが
保健省は障害者差別に当たるとして1992年に却下。

その理由として、

Quality of Well-Beingデータは
それらの障害や症状を経験したことのない人の回答に重きを置いており、
障害者に関するステレオタイプが数値化されたもの。

Quality of Well-Beingのランキングで下位にあることが
必ずしもアセスメントそのものが低いことを意味するわけではないが、

そのランキングによって医療が制約されることになると、
オレゴン・プランには障害のある生は障害のない生ほどの価値がないとの
前提に立っていることとなり、医療における差別を禁じたADAの精神に反する。

ついでに書いておくと、
障害者は「治療するにはカネがかかり過ぎる」という前提に立つ“無益な治療”論にも
同じことが言えADA違反だとの障害者コミュニティの主張を
Oulletteはこの後、紹介していく。


で、私はこのくだりを読んで、ものすごく不思議だったのだけれど、
じゃぁ、どうしてDALYやQALYは障害者差別でないの???????

それに、ゲイツ財団の私設WHOであるワシントン大学のIHMEは
Global Burden of Diseaseのプロジェクトとして一昨年から
世界規模でこのオレゴンと全く同じ調査をやっているんだけど?

「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010/8/20)

どうして、この調査には障害者差別だという批判が出ないの?
WHOは何を平然とHIMEとパートナー組んでDALYを採用したりしているの?


【関連エントリー】
死亡率に障害も加えて医療データ見直す新基準DALY(2008/4/22)
Peter SingerがQOL指標に配給医療を導入せよ、と(2009/7/18)
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
QALYが「患者立脚型アウトカム」と称して製薬会社のセミナーに(日本)(2010/2/12)
DALY・QALYと製薬会社の利権の距離についてぐるぐるしてみる Part1(2010/2/16)
DALY・QALYと製薬会社の利権の距離についてぐるぐるしてみる Part 2(2010/2/16)


           ――――――

なお、日本語で検索してみたら、

1992年にTruogがオレゴン・プランに言及しつつ
「無益性が客観的概念ではない、最善の利益検討と分配の問題とを切り離せ」と説く
論文の和訳がありました。(オレゴン・プランについては客観的な指標として評価?)↓
無益を超えて(解説)


根拠に基づく健康政策へのアプローチ
林 謙治 国立公衆衛生院 保健統計人口学部
J. Natl. Inst. Public Health, 49(4):2000

350ページ右上に、連邦政府よりも熱心に政策評価をした州の例として
「その中でも住民の満足度を測定したオレゴン・ベンチマーク(1989)が有名である」。

それから読めませんが ↓
オレゴンヘルスプランの展望と日本の医療への適用性の検討
鎌江伊三夫、前川宗隆
神戸大学都市安全研究センター研究報告


日本では国民が目にするような表立ったところでは議論にならず、
かといって専門家の間でこういう議論が行われていることをメディアも伝えず、
いつのまにかコトが起こり行われていくみたいだと、常々感じていることからすると、

多田富雄氏の果敢な闘いが記憶に鮮やかな
コイズミ時代のあの言語道断なリハビリ切り捨ても、もしかして要は
オレゴン・プランの方向性が粛々と取り入れられていたってことだったの……?

米国保健省が障害者差別だと判断したからボツになった事実はどこへやら、
「住民の満足度を測定した」「客観的な指標」とやらに化けたうえで――?
2011.12.22 / Top↑