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去年、「『いのちの思想』を掘り起こす―生命倫理の再生に向けて」の書評を書かせていただいたのを機に、
今年1月、このブログにご訪問くださったことで御縁をいただいたのが
鳥取大学医学部の宗教学者にして生命倫理学者、安藤泰至先生。

その後、先生がお書きになったものやご講演を読ませていただいてきて、
つくづく思うのは、論理のパズルみたいな生命倫理学とは全然違う、
身体というか心というか、いわば「魂を伴った生命倫理学」だということ。

例えば、ネットで読めるものとしては
金沢大学での2010年のご講演。

拙ブログで紹介させてもらった最近のものでは、
「『いのちの思想』を掘り起こす」の安藤泰至氏がコラム(2012/4/26)

また、てっきりエントリーにしたものとばかり思いこんでいたのだけれど見当たらない、
そして、これはネットでは読めないのだけれど、
雑誌『談』のインタビューとか。

読ませていただくたびに、その思索の深さに唸り、
また必ずどこかで「はっ」とさせられる。

その安藤先生が高橋都氏と共に編著者をされた
丸善の『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』が刊行になった。

内容は以下。

第1章 医療にとって「死」とはなにか?(安藤泰至)
第2章 終末期ケアにおける意思決定プロセス(清水哲郎・会田薫子)
第3章 終末期医療の現場における意思決定―患者および家族とのかかわりの中で(田村恵子)
第4章 高齢者における終末期医療(横内正利)
第5章 小児における終末期医療(細谷亮太)
第6章 植物状態患者はいかに理解されうるか―看護師の経験から生命倫理の課題を問う(西村ユミ)
第7章 死にゆく過程をどう生きるか―施設と在宅の二者択一を超えて(田代志門)
第8章 「自然な死」という言説の解体―死すべき定めの意味をもとめて(竹之内裕文)
第9章 「死の教育」からの問い―デス・エデュケーションの中の生命倫理学(西平 直)
第10章 終末期医療におけるスピリチュアリティとスピリチュアル・ケア―「日本的スピリチュアリティ」の可能性と限界について(宮嶋俊一)
第11章 生、死、ブリコラージュ―緩和ケア病棟で看護師が経験する困難への医療人類学からのアプローチ(松岡秀明)
第12章 グリーフケアの可能性―医療は遺族のグリーフワークをサポートできるのか(安藤泰至・打出喜義)
第13章 医師が治らない患者と向き合うとき―「見捨てないこと」の一考察(高橋 都)


「医療にとって『死』とはなにか?」というタイトルだけでも刺激的な
安藤先生の第1章もワクワクものだけれど、

私にとって何より嬉しいのは、
安藤先生と金沢大学の打出喜義先生との共著の章があること。

打出喜義先生といえば、
1998年に起きた金沢大学医学部付属病院産婦人科で
卵巣がんの患者に同意なき臨床実験が行われていた事件で
患者サイドに立って病院側の文書の改竄を暴き、
自ら所属する大学と闘った医師。

ウィキペディアはこちら ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%87%BA%E5%96%9C%E7%BE%A9

私は恥ずかしながら、
今年の夏まで打出先生のことを知らなかった。

6月に東京の某所でバクバクしながら慣れぬ場に臨んだ際に、
タダモノならぬ知的な気配を漂わせつつも少年みたいな無邪気な笑みを見せてくださる男性が
最後列の端っこにおられて、たいそう気になっていたところ、

質疑になるや、真っ先に発言してくださって、
「某MLで、ある時から名前の読み方すらわからないナントカいう人が
情報提供をするようになって……」と笑わせつつ、
ガチガチに緊張しているspitzibaraに温かいエールを送ってくださった。

その後、どなたかのコメントを受けて
司会の方から「パーソン論を簡単に説明して」と要望された私が
自分で正しく説明する自信がなくて、おずおずと振らせてもらった際にも、
はにかみつつも快く引き受けてくださって、

終始、魅力的な笑顔で楽しそうに聞いてくださるその男性に、
私はどこのどなたとは知らないまま、すっかり参ってしまったのだった。

帰ってきて、その方が上記のような勇気ある行動をとられた医師だと知り、
事件についての当時の報道を読み、映像を見るにつけ、
医療は患者のために行われるものだということを
まるで戸惑っているかのように、でも微塵もブレることなく
静かに朴訥な言葉で語られる打出先生に、

私はもう、ぞっこん。

そんな安藤先生と打出先生が共著で書かれたものが
ただならぬ章でないはずがないんであって、
読ませていただくのが今から楽しみ。

実は個人的にはちょっと気になる顔ぶれも含まれているんだけど、
でも、尊厳死法制化について考えようとする人には
ぜひぜひ読んでもらいたい本であることは間違いない。

            ―――――


それにしても、
1月に拙ブログで安藤先生と出会い、6月に打出先生と遭遇し、

6月と12月の東京、5月の神戸、先週の京都と、
本当に多くの素敵な方々と新たな出会いをいただいて、
また、兼ねてお世話になっていたり憧れていた方々と初対面を果たせたり、

そうそう、実は先週、思いもかけないエヴァ・キテイつながりで、
大学時代のクラスメイトと34年ぶりの再会まで果たすことができたんだった。

堂々たる研究者である彼女は、
すっくと背筋の伸びた青年のような趣の、カッコイイ大人の女になっていた。

私はただのオバサンなりに
自分はただのオバサンとして堂々と生きてきたのだと感じることができて、
しみじみと豊かな再会の語り合いだった。

本当にいい年だったなぁ……。
2013.01.04 / Top↑
古代の人たちが重症障害者を手厚くケアしたエビデンスがある、という話は
高谷清先生の「はだかのいのち」で読んでいました。

これまで発掘された、そうした事例について
以下のNYTの記事から簡単に抜いてみます。

順番は発掘された順ではなく、
記事に紹介されている順になります。

① 南ベトナムのマンバック遺跡から2007年に発掘された
4000年前の若い男性の遺骨。

胎児姿勢で埋葬されており、
重症障害のために生前からそういう姿勢だったものと推測される。

子どもの頃に下半身がマヒし、
腕はほとんど使えず、食事も体を清潔に保つことも自分では無理だったが、
マヒしてからも10年ほど生きたものと思われる。

当時の彼の集落の人々は金属を持たず、
釣りと狩りとわずかにブタを家畜として飼っている社会だった。

そういう社会の人々が
この若者をケアしていたことになる。

② イラクで発掘された45000年前のネアンデルタール人、 Shandidar 1。
片腕切断、片目が見えず、その他の怪我もあったが、死亡時には50歳。

③ 米国フロリダ州で発掘された7500年前の少年。
二分脊椎と思われる障害があるが、15歳くらいまで生きた。

④ イタリアで1980年代に発掘された1万年前の10代の少年、 Romito 2。
 重症の小人症だった。

特に介護を必要としたとは思えないが、
 狩りと採取で暮らしていた彼の集落が
走るのも遅く、腕が非常に短いために他の人たちと同じように狩りに参加できない彼を
受け入れていたことが明らか。

⑤ アラビア半島で発掘された4000年前の18歳の少女。
ポリオと思われる障害があった。

発掘した考古学者は
歩ける状態ではなかったと思われ、
おそらく24時間のケアを受けていたのだろう、と。

しかし、この少女の歯は虫歯だらけで、抜け落ちた歯も多く、
その集落ではデーツを栽培していたので、
心優しい介護者が歯にくっつきやすいデーツを沢山食べさせたからだろう、とも。



ベトナムの若い男性を発掘したLorna Tilleyさんは
「病気や障害が重くて、生きい伸びるためにはケアが必要だったに違いないケースは
30ほど」知っていると言い、他にも同様のケースはあるはずだ、と。

フロリダの少年を発掘した考古学者 D. N. DickelとG.H.Doranは、
1989年に書いた論文で、

有史前の人々についてのステレオタイプとは異なり、
「一定の状況下では、7500年も前の生活にも
慢性病の人やハンディのある人たちを助け支えようとする気持ちとその能力があった」
と結論付けている。

またTilleyさんは
以下の4段階で古代の障害者とその状況を研究する方法を提唱している、とのこと。
① 人物の病気や障害の特定
② その人物が暮らしていた文化における、その病気や障害の影響
③ どの程度のケアが必要だったかを特定
④ それら収集した事実から総合的に解釈を行う

Ancient Bones That Tell a Story of Compassion
NYT, December 7, 2012


なお「はだかのいのち」の第6章
「障害者と共に生きた人々 - ネアンデルタール人の心(二)」(p.178からp.183)には、
上記②のナンディ1について、NYTよりもずっと詳細に記述されています。

研究者からの引用部分を以下に抜いてみると、

「彼は出生時から不具な身であったうえに、左目が盲目だったらしい。スチュワートの調査では右上腕骨、鎖骨と肩甲骨は生まれたときから十分に発達していなかったという。さらに顔の左側面に広範囲に及ぶ骨瘢痕組織が見られる。そしてこれだけでは不十分と言わんばかりに、彼の頭蓋骨の右上部にはある州の傷が見られ、生前に癒えた形跡がある。要するにシャニダール第一号、すなわちナンディ(食卓での会話で私たちは彼をこう呼んでいた)は、五体すこぶる健全な人間でさえ辛い思いをする環境下で、非常に不利な立場にさらされていたということができる。彼は自分で食糧をさがしたり、身を守ったりすることはできなかったであろう。したがって彼は死ぬまで一族の者たちによって世話されていたと、私たちは考えざるを得ない」
「この遺体の上に積まれた石と食料としての哺乳動物の遺残は、死後もこの人物が敬意とまではいかなくとも、ある種の価値を認められたことを示している」
(p. 179-180)

高谷氏は以下のように書いている。

人類は古くは生産力も低いため、たとえ一緒に生活しようという気持ちがあっても実際にはできず、障害者や高齢者を排除し、姥捨て山などに棄ててきたと思っている人も多い。生産性が向上してきたこの1000年、あるいは数千年になってはじめて障害者が生きられるようになったと考えている。まして、現在の人類ではない旧人といわれるネアンデルタール人が、障害者と共に生活しているとは考えもしないことであった。
(p.180)


【関連エントリー】
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 1(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 2(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 3(2011/11/22)

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オマケとして
どこかでたまたま見つけた、
クリスマスの自宅イルミネーション写真集を。
http://www.ivillage.com/over-top-christmas-light-displays/7-b-307484?utm_source=taboola#307500

我が家はツリーすら飾っていないけれど、
ワイン(ミュウは「とろみワイン」)とケーキの「(ホールのまま)バチ当たり食い」で
ミュウとクリスマスの3連休をゆっくり楽しみました。

メリー・クリスマス!
2013.01.04 / Top↑
Graeme Tyldesleyさん(57)は
2002年に病気で引退するまで21年間病院職員として働いてきたが、現在は
進行性の脊髄の病気があり身体が不自由で(写真では歩行器を使って歩いている)
認知症の母親(82)と同居してフルタイムの介護を担っている。

母親がパニックを起こすので見守りが欠かせず、
2時間しか眠れないこともあるという。

これまでは
病院の年金と、障害者手当のほかに
incapacity benefit(働けない人に支給される手当?)を月に280ポンドもらっていたが

このたび職業年金局(DWP)はTyledesleyさんに
電話をとる動作とか座る動作など身体的な動作をさせる簡単なアセスメントで
「デスクワークなら働くことができる」と判断し、手当の支給停止を決定。

Tyledesleyさんはショックから抗ウツ剤の服用量が増えたという。

Tyledesleyさんの支援に入っている権利擁護チャリティ、Craven Advocacyでは
他にも支給停止が決まったと助けを求めてくる人が増えていると言い、

「こうした(身体機能だけの)アセスメントは
その人が置かれた状況全体を考慮しておらず、
人を数字のように扱っていて、問題です」

DWPからの通知書には
資格決定では健康状態や障害は検討対象とされず、
何ができるかという視点の審査である、と書かれていた、とのこと。

記事の最後にも、DWPの広報担当の以下の発言が引用されている。

「状況によって人はそれぞれ影響を受けることは承知しておりますので
雇用と支援給付は、働ける能力をアセスメントし、
その人には何ができるかを見るものです。

ある人が働けるだけ健康だと判断する際には、
直接会って詳細な面談によるアセスメントを行い、
請求者から提出された医学的エビデンスを検証します。

構成で効果的な就労能力判定に向けて改善を行ってきましたが、
不服がある人には、新たなエビデンスを出して不服申し立てをされる権利があります」

Disabled carer told ‘you’re fit to work’
Craven Herald, November 29, 2012


日本の生活保護を含めて、
なにか、こういうことが世界中で行われているような気がしてならないし、

そういう現象が
昨日のエントリーから透けて見えてくるような今の世界のあり方と
実は直接的に繋がってもいるんじゃないかという気がしてならない。
2012.12.07 / Top↑
コネチカット州の下院議員と市長として、
25歳の時から精神保健医療の「改革」に力を注いできたPaul Gionfriddoさんが、

統合失調症を発症した息子が
医療からも教育からも司法からも適切な支援を受けられずに
ホームレスに転落していくまでをWashingon Postで語り、

自分たちがやってきた「改革」がなぜ失敗したのかを分析している。

My son is schizophrenic. The ‘reforms’ that I worked for have worsened his life
Paul Gionfriddo
WP, October 16, 2102


著者は、奥さん(後に離婚)とともに4人の人種の違う子どもを養子にして育ててきた人。

そのうちの一人のTimが10歳の頃にADHDを診断され、
さらに後に17歳でやっと正しく統合失調症と診断されるまでには、
異人種間養子縁組という環境や親の育て方や過保護のせいにされたり、
個別指導を保障するはずのIDEAの個別支援計画に障害対応が盛り込まれなかったり、
保険会社にコントロールされる医療に振り回されるなど、

制度やシステムの狭間で翻弄される本人は
問題行動を起こしては刑務所に入ることを繰り返す。

収監されると規則的な生活から症状が改善するものの
出所すれば支援つきの住居からの支援も十分でなく、
いつしかホームレスに転落して行った。

2008年に23歳のTimはサンフランシスコで
所持品はマットレス1枚のホームレスとなり、
父親にとって悲しいことに、その生活に満足していたという。

著者は1980年代に議員として自ら精神病院解体の「改革」を進めた人だ。

当時、人々は病院から地域に返され、
病院の建物も治療プログラムも顧みられず荒廃した。

成人を対象とした地域メンタル・ヘルスと薬物乱用プログラムに予算をつけて、
施設併設の特別学校区から子どもたちを地元の学校に返し、そのための
移行コーディネーターを用意したが、

しかし、それらが失敗とした理由として、著者は以下の3点を挙げている。

① 学校には重症の精神障害のある子どもたちをケアする力がなかったのに、
それが分かっていなかった。

② 地域のメンタル・ヘルス・サービスに新たな役割を課すための予算も十分ではなかった。
その結果、その間隙を埋める役割を担ったのは郡の監獄だった。

③ 重症の精神障害者の地域生活を可能にするためには、
教育者、プライマリー・ケア医、メンタル・ヘルスの専門家、福祉職、さらに
司法制度までを含んだ協働体制の構築が必要だった。


現在、米国の3大「メンタル・ヘルス施設」は
NYとイリノイ州クック郡とカリフォルニア州LA郡の監獄だという。

著者が、もしも自分が今議員だったらこうするのに、と言っているのは

・すべての教師が精神障害の兆候をそれとわかる研修をうけられるように予算をつける。
・小児科医に定期健診の時に精神障害のスクリーニングができるよう研修を行う。
・小児科医や精神科医の意見をIEPに盛り込むよう学校長に求める。
・地域のメンタル・ヘルスの予算を大幅に増やし、精神医療の専門家に運用させて、
そこに慢性的なホームレス状態の人々も多職種協働でカバーさせる。
・さらに、歩きまわったり歩道に座っただけで取り締まりの対象にするような
ホームレスをターゲットにした法律を廃止して、必要な人みんなに
住居と治療が短期、長期に行われる支援を作る。

この記事の最後は以下のように締めくくられている。

Timをそこに追いやったのは、国全体がしたことだ。

それならばTimとTimのような人たちをそこから戻してやるにも
国全体が本気になる必要がある。



米国の地域でのメンタル・ヘルスの取り組みとして
「起動危機チーム」について調べて書いてみたことがあります ↓
米国 精神障害医療の危機起動チーム「介護保険情報」2008年3月号


【関連エントリー】
知的障害者、精神障害者の施設・病院での不審な死に調査(英)(2009/11/17)
今年のシアトルこども病院生命倫理カンファは、貧困層の子どもと知的・精神障害児の医療切り捨てを議論(2011/2/9)
スイスで精神障害者への自殺幇助容認議論(2011/3/1)
2012.11.21 / Top↑
「ケアの倫理からはじめる正義論 支えあう平等」を読んで、

これまで、同じ重症障害のある娘をもつ親の立場で、
エヴァ・キテイの個人的な事情や思いについて知りたかったことが
いくらかはっきりしたので、整理してみる。


まず、キテイも私と同様に障害者運動について、
両義的な感情の間で引き裂かれているように見える。例えば、

……これまで、合衆国で障碍者コミュニティが獲得してきたことについて、わたしは本当に素晴らしいと思っています。……
……けれども、障碍者コミュニティで語られる多くのことは、自分たちの声で語ることのできる障碍者に合わせた語られ方をしてきました。たとえば、障碍者運動の有名な標語の一つに、「自分のことは、自分で語る!」があります。だけど、セーシャは、話せないのです。……セーシャは自分の声をもたないのです。
 そうしたこともあり、わたしは、障碍者コミュニティのなかでは、こんなことを発言して、まるで批判的にふるまわざるを得ないのです。「あなた方は、障碍者一般について発言をしておられますが、私の娘のような障碍者もいることを、ぜひとも忘れないでください」と。……私は、障碍者の人々が時々、私は愛情に満ちているが、理解力のない親、つまり、過剰に防衛的だったり、受容力に欠ける、そうした親とみなしているように感じます。障碍者たちは、そうした親に対抗する形で、自分たちのアイデンティティを確立してきたのです。……わたしは、時間をかけてかれらの視点から物事を見ようと努力してきました。とくにかれらは、わたしの娘からは学べないことを教えてくれたからです。しかしながら、かれらもまた時には、理解力に欠けるような親の視点から物事を見ることを学ぶ必要があったのだと思います。というのも、そうした親であっても、自分自身のこと以上に、子どもの世話をしてきたのですから。
(p.94-95)


最後の数行については、障害者運動の側がどのように読むか、
ちょっと聞いてみたい気もするし、中には、そういう親の意識こそが
子どもへの抑圧に向かうのだと反発する人もいるのでは、という気がするけれど、

その辺りも含めて、
障害者運動が築いてきたものに感謝し、またそこから多くを学びつつも、
特に重症障害者の親の立場からは障害者運動に言いたいことが多くありもして、
悩ましく引き裂かれているところが、キテイと私はそっくりだなぁ……と思う。


ところで、
セーシャが生まれたのは著者が「大学院に行く前」のことで、1960年代。
大学院で何を専攻するかに迷っていた著者は、

 セーシャが障碍を抱えていることがわかり始めると、科学の入門的な科目は、セーシャの状況についての苦悩から自分を解放するほど、刺激的ではないように思い始めました。わたしは、セーシャの問題を頭から取り除いてくれるような、なにか強烈なものが必要だったのです。……哲学とは、セーシャについて語らなくてもいい方法、セーシャの抱える困難を考えないでよい道の一つだったのです。
(p.102-103)


この段階でまだ住み込みの介護者ペギーはいないと思うのだけれど、
キテイはセーシャを産んでも、セーシャに障害があると分かっても、なお、
大学院に進み、セーシャから頭を離すために哲学に没頭できるだけの
物理的な環境があった、ということなんだろうか。

セーシャの子育ては一体だれが担っていたんだろう……?

たぶんとても近い障害像のミュウの乳幼児期を考えると、
とてもじゃないけれど子育てをしながら学問ができるような状況ではなく、
私たち夫婦は一日一日をかろうじて生き延びるだけで精いっぱいで、
ひーひー疲労困憊の極地だったのだけれど……。

同じように重症障害のある子どもの子育てでも
子どもが健康でさえあったら、研究生活と両立できるものなんだろうか。

確かに祖父母の協力を得て、
フルタイムで働きながら重症重複障害児を育てている女性は
私の身近にもいないわけではない。

私にはそれを可能とするだけの状況がなったのだと頭では分かっているけれど、
この点では、私の中にはずっと「私の頑張りが足りなかったのか」という
自問、自責がどうしようもなく根深く巣食っている。

それは、もしかしたら子育てや介護を理由に仕事をあきらめざるを得なかった女性に
共通の思いなのかもしれないのだけれど。


それから、2009年のカンファの際に
P・シンガーたちに障害者の生活そのものを見てほしいとキテイが企画したことについて
What Sorts of Peopleブログでキテイがコメントした際に、
「セーシャ達の住むコミュニティ」という表現を使っていて、
その時からセーシャが住んでいるのは施設なのか、そうではないのか、
もしかしたらグループホームのようなところなのか、ということが
私にはずっと気にかかっていたのだけど、

この本でもキテイは「コミュニティ」と「センター」という表現を使い、
「施設」という言葉は使っていない。

けれど、以下のような語りからも、
その他の個所で語られていることからも、
セーシャさんが暮らしているのは「○○センター」という名前の
施設に類する場所であるように想像される。

……セーシャを、いってみれば『隔絶したコミュニティ』に住まわせることについては、正当化が必要だとよく思います。それは、障碍者たちのコミュニティが求め闘ってきたこと、わたしもまた一般的に言えば信じていること、つまり地域での生活に反しています。
(p.116-117)


この個所に続けて、キテイはセーシャのような重症者のニーズに応えるには
いかにGHの小規模な資源では十分でないか、
そのセンターが「逆インクルージョン」を含めて、
いかにすばらしい取り組みをしているかを
熱を込めて語っている。

ミュウのような重症心身障害者のGHでの「自立生活」ビジョンについては
私もまったく同じような懸念を持っているから
語られていることそのものはカンペキに同意なのだけれど
(さらに言葉をもたず無抵抗な重症者のケア空間としては
GHの閉鎖性も私には気にかかっている)

それが一切「施設」という言葉を使わずに語られているところ、
なにか急いで埋めなければならないすきまでもあるかのように
ちょっとリキんで彼女が語っているように感じられるところに、

私は、キテイの
未だ乗り越えられていない罪悪感と痛みを見るような気がする。


それから、同じ重症障害のある子どもをもつ母親でありながら、
キテイのように生きることができなかった私には
彼女への嫉妬がどうしても胸に渦巻いてしまうので、

そのセンターがいかにすばらしいところであるかが力説されればされるだけ、
そのセンターはもしかしたら住み込みの介護者を雇えるような
富裕層の家族しか入ることのできない施設なのでは? と
我ながら醜いことを考えてしまう。


でも、そういう互いの間にある
諸々の前提条件のギャップを別にすれば、大筋、ああ、同じなんだなぁ……と。

特に、キテイが障害者運動に向けて
「ウチの子のような重症重複障害者のことが見えていない」と訴えていること、
同時に「親は敵かもしれないけど、それだけじゃないことを
あなた達も考えて」とも訴えているように見えることは、
私が『アシュリー事件』の12章で書いたこととまったく同じ――。

そのことに慰められる。

それに、インタビューの間の写真が何枚かあるのだけれど、
セーシャのことを語っているキテイの表情が
そこだけはなんとも言えず軟らかい笑顔で、すっごく、いい顔。

どんな生き方をして「今ここ」に至ったのであろうと、
私たち、こんなにも愛する娘がいる「おかあさん」なんですよね、キテイさん。

そう――。

自分自身の人生を生きたい思いをこんなにも捨てがたい私たちだけど、
だからといって私たちが娘を愛していないわけじゃない。

そう――。

もしも苦しみながらも自分なりに誠実に生きようとしてきた一人の人間の中で
「重い障害のある子どもの親であること」と
「自分自身の人生を生きようとする私」とが両立されず、
その人が両者の間で引き裂かれたまま生きるしかないなら、
それはその人自身の責任や問題ではないんじゃないだろうか。

それは、本当は一人ひとりの親の問題ではなく、
その責が親に負わされてしまう社会の側の問題なんじゃないんだろうか。

そのことをエヴァ・キテイは「愛の労働」あるいは依存とケアの正義論で書いたのだと思う。

そして、私も私なりに、そのことを、
「私は私らしい障害児の親でいい」や「海のいる風景」で書いてきたのだと思う。
2012.11.05 / Top↑