エヴァ・フェダー・キテイ 岡野八代 牟田和恵 (白澤社 2011)
2010年のキテイの「愛の労働 あるいは依存とケアの正義論」の出版と
同年11月の来日の後に出版されたもので、
来日時の京都同志社大学での講演録と
監訳者2人によるキテイへのインタビュー、監訳者それぞれの解説と
他3人の「愛の労働」読後感を収録した、いわば「愛の労働」の副読本。
なお、当ブログでは
Ashley療法の批判者としてキテイには注目してきました。
エヴァ・キテイ関連エントリーはこちら ↓
哲学エヴァ・キテイ氏、11月に来日(2010/10/12)
Eva KittayとMichael Berube:障害のある子どもを持つ学者からのSigner批判(2010/10/13)
Eva Kittay の成長抑制論文(2010/11/7)
Eva Kittayさんに成長抑制WGのことを聞いた!(2010/11/12)
「成長抑制でパンドラの箱あいた」とEva Kittay氏(2010/11/23)
また「愛の労働」を読んで書いたエントリーがこちら ↓
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
ACからEva Kittay そして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
「愛の労働」は大部の本である上に、背景の哲学議論について知らない私には
本筋は理解したつもりでも、なんとなく「分かったつもりだけど……」という
曖昧さが残っていたのですが、
この副読本を読んで、あれこれ、すっきりした気分なので、
私自身のメモとして、以下に。
キテイが平等をめぐる「依存批判」と呼んだものは、したがって、じつは、正義に対する依存批判でもある。いま、フェミニズムに突きつけられている問題は、〈等しくない者は、等しくなく扱え〉と考える正義論そのものを見直すことなのである。もっといえば、能力において等しくない者、端的に言えば、男性哲学者が社会的には無能だと考えてきた者と、そうした者に付き添い、気を配り、そこに自分の能力を傾けている者、だからこそ、その人もまた、社会的には無能だとみなされてしまう者たちの視点から、社会を構想することなのだ。
(p.32 岡野)
キテイさんの京都講演は
私はシアトルこども病院成長抑制WGのことについて確認したいことがあって
あわよくば直接に質問できないかと出掛けていったので、下心でギンギンに緊張して
内容を聴くどころの精神状態ではなかったため、今回この本で講演内容を改めて読むと、
上の2つのエントリーで書いた「透明な自己」と「ドゥーリア」の理解で
間違ってはいなかったんだな、と安心した。
そして、「ドゥーリア」の原理とは、
やっぱり介護者支援の理念だなぁ、とも。
その他に、監訳者によるインタビューで面白かった点は、
コミュニタリアニズムと、依存とケアの問題を追及するフェミニストの違いとして、
前者が伝統的なコミュニティや保守的な家族観を前提とするのに対して、
後者はそうした社会が女性やマイノリティに抑圧的であることを批判し
家族の形にはこだわらないこと。
対談の中でキテイが
「ケアの脱ジェンダー化は、一朝一夕にできるようなことではないでしょう。」
それまでの間、ケアワークをする女性を支えなければなりません」と言っている個所は
「今この時」に過大な介護負担を担っている人の
「今ここ」にある痛みのことを言っている、
という点で、とても共感する。
最後の章で、監訳者の牟田和恵さんがとても刺激的な提言をしている。
人は産まれてから死ぬまでの間に
およそ人生の4分の1はケアを受けて過ごすのだと考えれば、
人間にとって依存が必然であり、したがって、ケアを行なう者の存在も人としての必然ならば、人間とは、ケアを受け、その能力がある限り自らもケアを返していく存在であるのではないだろうか。……(略)……自身の子や親ではなくとも、血縁に依存者がいないとしても、自身がケアを受ける人生の四分の一を返報できるくらいに、ケアの営みにかかわっていく、それこそが「自立」した尊厳ある人間の姿ではないのか。
そして社会は、誰もが人生の四分の一――単純に一般的な労働時間で考えれば、それは週五日働くうちの少なくとも一日、一日八時間働くうちの少なくとも二時間にあたるが、もちろん、ケアの責任の果たし方は多様であっていい――は、何らかの形でケアを担うことを前提として、法や制度が組み立てられるべきではないのか。……
(p.161)
ここまで大きな視点ではないけれど、もう少し小さな視点で私が考えたのは
「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)
そして牟田さんは最後に
「家族」という神話を批判することの必要性を解く。
「家族の愛」が何かの正当化に使われる時には要注意だというのも、
「親の愛」が「科学とテクノの簡単解決文化」マーケット創出のターゲットとされていることも
当ブログの大きなテーマの一つ。
また、家族神話や母性神話が、以下のような文脈で
再生産・強化されていくような不気味な空気も気にかかっている――。
“ドナー神話”とは“母性神話”の再生産ではないのか?(2009/10/17)
「親から子への臓器提供は賞賛する必要もない当たり前の義務」とA事件を擁護したRoss(2009/10/26)
「ドナー神話」関連での頂きもの情報一覧(2009/10/26)
「腎臓が欲しければ、他人にあげられる腎臓と物々交換で」時代が始まろうとしている?(2010/6/30)
確かに感動も味わいもないわけではないのだけれど、
ずっと、喉に引っかかった小骨のような違和感があった。
それは、著者が介護現場でどういう働き方をしているのかが
最後まできっちり掴めないことと関係しているような気がする。
たとえば著者は、本書の後半部分で、
一時的にショートステイの遅番勤務になった期間があって、
その間には介護職員としての業務をこなすので精いっぱいになり、
驚くことができなくなった、といった体験について書いた後で、
以下のように書いている。
その後、職員の人数も充実してきて、私は再び介護の仕事の一方で、利用者へ聞き書きをする時間をつくれるようになった。
(p.217)
他の個所には、
「補助をしながら」という表現や「フリーの相談員として」という表現もある。
あとがきには以下のようにも書かれている。
本書を閉じるにあたって、何よりもそうして私を育ててくれている利用者たちに感謝したい。また、私のわがままをあたたかく見守ってくれ、応援してくれる職場の上司や同僚たちにも、心から感謝している。
(p.232)
著者は介護現場に
いったい単に「わがままな介護職員として」いるのか、
「介護現場をフィールドに選んだ民族研究者として」いるのか、
「民族研究者ゆえに一定の特権を認められた(わがままな?)介護職員として」いるのか、
その辺りのことがよくわからない。
著者はいったい、
どのようないきさつから、どのような手順を踏み、
どのような職場での取り決めによって働いているのか。
こうした聞き書きの実践について本を書いて報告するのであれば、
やはりその辺りは明確にすべきだったのではないかなぁ。
この「喉に引っかかった魚の骨」的な違和感は、
この本に描かれた聞き書きの体験から著者が提唱している「介護民俗学」とは、
具体的に以下のいずれのことなのか、という疑問にも通じていく。
・民俗学を学び、民俗学の聞き書きの素養のある若い人たちが
正規の介護職員として働くことが、高齢者の良いケアに繋がる。
・民俗学を学んだ若い人たちが
著者自身と同じ「わがままな介護職員」として働けるような介護現場のアレンジがあれば
高齢者にとっても民俗学者にとっても利益のあるウイン・ウインの関係になる。
・高齢者介護のアプローチの一つとして
民族学者または民俗学の素養のある人による聞き書きを導入することが高齢者の良いケアに繋がる。
(でも、この場合かならずしも「介護職員になる」必要はないのでは?)
・民俗学者または民俗学を学ぶ学生が、介護現場を聞き書きのフィールドに加える。
(この場合も、彼らが介護職員として働く必要はないのでは?)
私には、著者が提唱する「介護民俗学」というのは、
本書の場面によって、上の4つが都合よく使い分けられているような印象があった。
それが、読んでいてどこか腰の定まらない落ち着きのなさに繋がっていたようでもある。
例えば、著者は以下のように書くなどして、
介護現場での聞き書きは、民俗学者の調査する者としての権力性を逆転させると主張する。
だから聞き書きの場では、アカデミックな知識はあっても、実際の経験やそれに基づく民族的知識を持っていない調査者と、それらを豊富に身に付けていて、それについての記憶を語ってくれる高齢の話者(かつて、民族学者の多くが話者のことを「古老」と呼んでいたことにも関係するか)との関係は、話者が調査者に対して圧倒的に優位な立場にあると言えるだろう。第三章で引用した野本寛一の言葉通り(九八頁)、調査者は、まさに話者に「教えを受ける」。それが聞き書きなのである。
(p.155)
その考えに基づいて、「介護民俗学」は
上野千鶴子さんがいうような介護する者と介護される者の力関係の非対称性も
逆転させるダイナミズムと捉えることができる、とも書いている。
もちろん、そこには「それがケアの現場で行われるという意味では、
内包される暴力性から完全に免れることは不可能である」との気付きも
ないわけではないのだけれど、それはすぐさま、
「ケアの場での実践は、常にそうしたジレンマを抱えていくことなのである。」(p.223)と、
介護の場につきもののジレンマとして片付けられてしまう。
でも、ここで生じているジレンマとは、
介護の場そのものに必然的に内包されるジレンマではなく、
介護民俗学が介護現場に持ち込まれるゆえの別のジレンマであるはずなのだけれど。
なにか、著者のモノの言い方には、こうした、
介護民俗学にとって都合のよいことだけに焦点を当てて書きつつ、
介護民俗学にとって都合の悪いことは介護の問題に落としこんで終わるような、
どこかご都合主義的なところがあるんじゃなかろうか。
しかし、介護民俗学での聞き書きは、利用者のこころや状態の変化を目的とはしない(というより変化を指標にしたらおそらく「聞き書きは効果なし」という結果しか得られないだろう)。聞き書きでは、社会や時代、そしてそこに生きてきた人間の暮らしを知りたいという絶え間ない学問的好奇心と探求心により利用者の語りにストレートに向き合うのである。
(p.168)
と、民俗学者の「学問的好奇心と探求心」について正直に書く著者は、
「手がかかる」と思われていた認知症の利用者が
いきなり歌を歌ったことに驚いた場面に続いて、同じ正直さで以下のようにも書く。
夕食の時間が始まっても私の好奇心はもう抑えることができなかった。私は食事介助をしながら、のぶゑさんにしつこいくらい質問をした。
(p.216)
でも、他の場所で、
夕食の食事介助は一人の職員が複数の人の介助をする、と書かれているし、
娘の施設でもそうだから、介護現場の夕食の食事介助場面が、
決して1対1で介助できるほどの余裕がないことは容易に想像がつく。
そうすると、著者は
夕食の時間が始まって、複数の利用者の「食事介助をしながら」
「のぶゑさん(一人に)しつこいくらいに質問をした」ということなのだろうか……?
それは果たして「わがまま」で済むことなのだろうか。
民族研究者としての抑えがたい「学問的好奇心と探求心」を持った人が
介護職として介護現場で働くということの中にもあるはずの暴力性と、
著者は本当にきちんと誠実に向き合っているだろうか。
ずっと引きずった違和感は、
以下の個所に一番象徴的に表れているように私には思えた。
もちろん、何人かの利用者からは、「なんでそんなに一生懸命メモをとっているの?」と尋ねられることもあった。が、それに対して「せっかく面白い話を聞いていても、私、メモをとらなかったらすぐに忘れてしまうんですよ」と正直に答えると、その方々も、「そうだよね、私もどこかに書いとかなきゃすぐに忘れちゃうもんね」と同調してくださったし、なかには、「そんなに一生懸命聞いてくれる人はこれまでいなかったよ。私の人生、ちゃんと書きとめて小説にでもしたら、すごく面白いよ」といって、毎回実に楽しそうにご自身の人生を振り返ってお話をしてくれている方もいる。
(p.144)
「すぐに忘れるからメモをとっている」という答えは
本当に「正直な答え」なのだろうか。
ここまで書いてきて、
「喉に引っかかった小骨」の正体がやっとはっきりした。
「利用者」さんたちは
「忘れるから」とメモをとりつつ自分の話を熱心に聞いてくれる介護職員が、
実は「学問的好奇心と探求心」から自分の語りに「ストレートに向き合って」いる
民族研究者であることについて、説明され知らされていたんだろうか?
言わんとしていることは分からないでもないのだけれど、
なにか一番大切な根っこのところ辺りで釈然としないものが残る本だった。
『驚きの介護民俗学』
六車由美 医学書院 2012
小児生命倫理ディベイトをシリーズで。
ここは、私が大好きなJohn Lantos医師がいるところ。
登場人物の顔ぶれも、当ブログでおなじみのLainie Friedman Rossや
Annie Janvier, Robert D. Truog, Thadeus Mason Pope など。
テーマは以下で、
いずれも小児科医療の生命倫理の大問題ばかりです。
「周産期安楽死はいったい道徳的に許容されうるのか?」
「広範な新生児スクリーニングは子どもにとって良いのか?」
「一方的なDNR指定よりもスロー・コードの方が望ましい場合もあるのでは?」
「“医学的無益”概念は臨床医の助けになっているのか?」
「成人後に発病する病気の遺伝子診断、親に許されるべきか?」
http://medicalfutility.blogspot.jp/2012/10/pediatric-bioethics-debate-series.html
Lantos先生、
シアトルこども病院生命倫理カンファの向こうを張って、どうぞ頑張ってください。
【John Lantos関連エントリー】
Lantos医師「倫理委で何があったか誰にも分からない」(2010/1/29)
Lantosコメンタリー、Ashley事件の大デタラメを指摘(2010/2/17)
米小児科学会の女性器切除に関する指針撤回:Diekema医師の大チョンボ(2010/8/4): Lantos講演
米のNICUで治療停止による死亡例が増加(2011/7/11): Lantos論文
NICUでの生命維持差し控えは「違法行為の放置」(2011/7/14)
NYT社説がメディケア拡大を呼び掛け
米国では6月に、オバマ大統領の医療保険制度改革法に連邦最高裁が「合憲」判断を下したばかりだが、「オバマ・ケア」に対する保守層からの反発は相変わらず大きい。そんな中、ニューヨーク・タイムズ(NYT)は7月17日と28日の2度に渡って、メディケア拡大を呼び掛ける社説を掲載した。メディケアは貧困層と障害者を対象にした公的医療保険制度。医療保険制度改革法に対象拡大が盛り込まれているが、メディケアを拡大しない州には補助金を取り消すとの条項については6月の連邦最高裁の判決で、撤回が求められた。それを受け、貧困層が多い州などでは拡大しないのではと懸念されている。
テキサス州は、州民の健康データが全米最低ランク、州民の4分の1に当たる630万人(うち子どもが100万人以上)が無保険である。同州のペリー知事(共和党)は「州の主権に対する重大な侵害」「テキサスを財政破綻への脅かす」と公然と反旗を翻し、拡大を拒否。他にも少なくとも5州が既に同様の決定をしているという。「拡大にかかる費用は連邦政府が3年間は全額負担し、その後も9割を負担すると言っているのに」とNYTは批判している。米国議会予算局はこれらの動きから、全州が拡大した場合に給付対象となると見られていた人数のうち、実際に2022年までに対象となるのは3分の2程度と予測。それにより連邦政府の補助金コストは840億ドル浮くが、2022年には無保険者が今より300万人増加すると試算している。
17日の社説で不気味なのは、メディケア拡大どころか現行の社会保障カットを進める州まで出てきていることだ。メイン州は5月に現行のメディケア対象者の内21000人の給付を削減または対象から外すことを決めた。ペンシルベニア州では7月に入っていきなり障害者と貧困層61000人に対して月額200ドルの一般支援給付の打ち切りを通告。それによって年間1億5000万ドルのコスト削減になる一方で、同州知事は3億ドルの企業減税を決めた。
メディケアが拡大されなければ、低所得の無保険者が頼りとする救急医療のコストが、安全網を担う機関や納税者に付け回されていくだけだ、とNYTは28日の社説を締めくくっている。
広がるdevalue文化に対峙する報告書
米国では医療現場での障害者差別も深刻化している。障害者の保護と権利擁護(P&A)全米ネットワークであるNational Disability Rights Network(NDRN)は5月に、障害者への成長抑制療法、不妊手術、一方的な医療の差し控えの実態を報告書 “Devaluing People with Disabilities: Medical Procedures that Violate Civil Rights(障害のある人の軽視:市民権を侵害する医療)”に取りまとめた。
成長抑制を含む“アシュリー療法”が一般化されつつあることは5月号で紹介したが、今回の報告書に多数紹介されている重症障害者への医療拒否の事例では、命の切り捨ての実態が極めて深刻な様相を呈している。末期でも植物状態でもない、意思決定能力のある障害者から、本人意思を無視したり確認しないまま、医療職や代理人が命にかかわる医療の差し控えを決めたりDNR(蘇生不要)指定にしたケースの他、グループホームで暮らす障害者について、次に風邪をひいたら治療せず肺炎にして死なせると、親と主治医が取り決めていたケースも。
NDRNに加盟している州のP&A組織が介入し、法的措置を取るなどして治療に繋げたものがほとんどだが、P&A組織が把握できていない事例がその背後にどれほどあることか……。どうしてもそこに想像が向いてしまう。
NYTが憂慮する政治動向と併せ考え、なんとも気になる医療現場の実態だが、報告書のまえがきによると、オレゴン州では今年3月、出生前診断で見逃したためにダウン症候群の子どもが生まれたと訴えた両親に、陪審員が300万ドルの支払いを認めたとのこと。まさに障害者を価値なきものとみなす(devalue)文化が、米国社会全体に広がりつつあるようだ。
報告書は、病院内倫理委員会では障害者の権利擁護には不十分だとして、デュー・プロセス(しかるべき手続き)による保護の法的な義務付が必要と結論。医療機関、保険会社、州・連邦議会、米国保健省に向けて、そのための法整備や、医療関連団体と障害者の権利擁護団体とが一堂に会して障害者の権利擁護について協議し認識を深める場を設けるなど、それぞれのレベルで取るべき方策を具体的に提言している。
「介護保険情報」2012年8月号 「世界の介護と医療の情報を読む」
【NDRN報告書関連エントリー】
障害者人権擁護ネットから報告書「“A療法”・強制不妊・生命維持停止は人権侵害(2012/6/20)
障害者の人権を侵害する医療への痛烈な批判: NDRNの報告書「まえがき」(2012/6/22)
障害者への医療の切り捨て実態 7例(米)(2012/6/26)
NDRN報告書:概要(2012/7/7)
NDRN報告書:WI州の障害者への医療切り捨て実態 2例(2012/7/9)
NDRN報告書: A療法について 1(2012/7/13)
NDRN報告書: A療法について 2(2012/7/13)
NDRN報告書:カルメンの強制不妊ケース(2012/7/14)
NDRNのCurt Decker、"アシュリー療法“、障害者の権利、医療と生命倫理について語る(2012/7/31)
NDRN報告書: 提言(2012/8/2)
介護と支援の財政委員会、通称Dilnot委員会から
公平で持続可能な成人介護制度の財政システム構築に向けた提言が行われました。
英国「介護と支援財政員会」提言(2011/7/5)
それについて「介護保険情報」11年8月号で書いた記事はこちら ↓
http://www.arsvi.com/2010/1108km.htm
この提言の目玉は
国民一人ひとりが障害に支払う介護費用に上限(委員会提言は35000ポンド)を設けて、
それ以上は国が負担する、という点や、資産審査の上限額の引き上げなどで、
連立政権は当初、
コストがかかり過ぎる(見込まれる予算額は20兆ポンド)として
一旦この提言を退けたものの、
ここへ来て方針転換、秋の法案に提言内容導入の方向へ。
だたし、財源がはっきりしないことから
NHS予算が狙われたのでは藪蛇になるとか、
キャメロン首相の単なるパフォーマンスだとか、
いわゆるホテルコストが除外されるために恩恵は小さいのでは、
15年から17年に施行では、今困っている家族は? など
警戒・懸念の声も。
Government to implement Dilnot care cap
Health Insurance and Protection, August 16, 2012
Govt set for U-turn on Dilnot care funding plans
MoneyMarketing, August 16, 2012