イタリアの功利学者Alberto Giubilini とFrancesca Minervaの共著で
“出生後中絶”と称して新生児殺しを正当化した論文がネットであっという間に広がり、
著者らに脅迫状まで届く事態になっていることは、以下のエントリーで拾ってきました。
中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)
“出生後中絶”正当化論は「純粋に論理のエクササイズ」(2012/3/5)
下の方のエントリーで紹介した著者らの公開書簡が出た日に、
別のサイトで、ついに御大Peter Singer が登場していました。
Peter Singer Weighs In on Infanticide Paper
The Chronicle, March 5, 2012
本人が直接ここに寄稿したというわけではなく、
この記事の著者 Tom Bartlertが頼んで書いてもらったものを掲載・紹介するという、
ちょっと変則的な恰好になっています。文章も短いです。
最初のあたりには、ちょっと面倒くさそうなトーンもあって、
書いてと求められて(問題の論文の掲載誌編集長は愛弟子だし)
しぶしぶ書いた……とでもいった感じ。あくまでも個人的な印象ですが。
(これはアシュリー事件でもNYTの論考について、
「誰かに引っ張り出されて書いている感じ」と感想を書いてた人がいた)
でも、書いていくうちに少しずつ熱が入ってくる感じが、、ちょっと興味深いです。
以下、多少の省略などしながらの、雑駁な訳。
72年にトゥリーが論文を書いてこの40年来、応用倫理学では、状況次第で新生児殺しは正当化できるということになっている。今回の論文がすごく目新しいことを言ってるというわけではない。養子にしたいという夫婦がいる場合でも殺すことは正当化できる、ということなどが追加されているだけで。
自分たちの論文をそういうものと捉えていた著者が、脅迫状までくるような反響の激烈さに驚くのは無理もないが、40年前には、オンラインで論文が刊行されることもなければ、プロ・ライフのウェブ・サイトも存在していなかった。現在は、アカデミックなジャーナルに掲載される論文に批判が起こりやすくなっている。
新生児の道徳的地位というのは現実問題(a real issue)だから、アカデミックな雑誌が、真摯かつ論理的にこの問題を論じている論文を掲載するのは当たり前のこと。旧来の生命の神聖という考えを擁護したい人たちは、暴言を浴びせるのではなく著者らの議論に応答すべきだ。それにしても、生命の神聖を守ろうとする手段が、疑問視する人間を殺してやるぞと脅すことだというのは皮肉なものだ!
And it is ironic that some seek to "defend" the sanctity of human life by threatening to kill those who question it!
中絶反対論者は、胎児と新生児で道徳的地位は違わないと、この論文と同じことを主張してきたのだから歓迎すればよい。両者の道徳的地位は同じだと言いつつ、同時にan innocent living human being (「赤ん坊のように知的レベルが低いままで生きている人間」の意では)というだけでは生きる権利に値しない、と主張する人間に、ちゃんと反論できるだけの人物が、中絶反対論者の中にほとんどいないようだから、そこが気の毒な ところだが。
脅迫や脅しでなく、理性と議論でこの論争に勝てると思うなら、それをすればよい。
最初に一読した時には
大したことは何も言っていないと思ったのですが、
再読しながら、ツイッターでメモ的に訳していくと、
いくつかの疑問点が頭に浮かびました。
① 一番気になるのは a real issue。
Giubiliniらは非難に対して
「知的な議論、論理のエクササイズをしただけで政策提言じゃない」と弁明したけど、
シンガーはそうは思っていないのでは?
ただ、とりあえず「現実問題」と訳してみたものの
「学問的に意義のある大問題」の可能性もあるので、その辺りはちょっと保留。
一方、それであったとしても
Giubiliniらが引いた「論理のエクササイズ」と「政策提言」の線引きを
シンガーはしていないこと、
冒頭を「現代応用倫理の世界では」と始めていることの2点を考えると、
やはりシンガーはこの点については著者らとは別の立場に立っているのでは?
② 「新生児殺し擁護派」VS「中絶反対派」の対立の構図を描くことは、
問題を過剰に単純化していると思う。
これは既に拙ブログで問題の論文を拾った時に、補遺で「なんだか、読んでいると、
功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、
実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうで、それが一番イヤだ」と書いたけど、
やっぱり、そこへ持ち込まれている。
議論されるべきことは、実際は、その対立の外というか間というか、
そのどちらにも与しきらない中間的な立場の広がりと深さの中にこそ
まだまだ多様に存在しているはずなのでは?
③ オンラインで刊行されるようになったから
「学者の論文に批判が起きやすくなった」という解釈の、一方向性。
シンガーは「論文への批判が起こりやすくなった」だけを言っている。
インターネット上には、暴言や脅迫以外にも
問題の論文の内容について冷静な議論も出ているはずなのだけれど、
「ネットによりアカデミックな世界の外の人も議論に参加できるようになった」とは言っていない。
この不均衡は、双方向は想定されていないということ?
④ どうせ、論破などできまい、というゴーマンを、
私は個人的には感じます。
「どうせ論破などできまいが、できるものならしてみるがいい」と見下してかかる、
傲岸な響きがあるような感じがする。
⑤ 「脅迫や脅しではなく、理性と議論で」というのは私も思うけれど、
それを実際にアカデミックな世界の外からやってしまうと、
どういうことが身に降りかかり得るかを考えると、
ここでspitzibaraがこの記事と出会ってしまったのも、
何かの必然かもしれない。
(ツイッターでフォローしてくださっている方以外には分かりにくいと思いますが、
そういうことをやろうとすると、反感を買い、ツライ目に遭う可能性もあるかも、との意。
当ブログでも時々ありますが)
⑥ 「勝てると思うなら」というところがムチャ気になる。
上記④とも繋がっているのだけど、
「勝てると思うならかかってこい」姿勢は、
相手の言うことを最初から全否定する構えでしかなく、
シンガーが奇しくもその言葉を使っているように
それはディベートではあっても、誠実な議論や対話の姿勢とはいえない。
人の命は勝ち負けじゃない。
⑦「知的議論」と「政策提言」との線引きについては?
上記に見られるように、中絶反対論者との対立の構図を描き、
そこでの議論を「勝ち負け」で捉えているシンガーの感覚は
正に「論理のエクササイズ」なのだと思う。
しかしシンガー自身はこちらのインタビューで語っているように
現場医師らからの問い合わせを受けて、その判断に関与してもいる。
(クーゼと相談して「決めた」という文言を、自ら使っていることに注目)
つまり、一方で、中絶反対論者に向けては「論理のエクササイズ」で挑戦しつつ、
自身の言動においては、「政策提言」どころか直接的に現場にスタンダードを敷いている。
ここで①の疑問に戻るのだけれど、
シンガーは著者らの線引きを肯定する立場に立つのか、否定する立場に立つのか。
また、その立場と、
自らの論争のスタンス、倫理学者として直接的に医療判断に影響する立場が
どのように整合されるのか?
⑧ これは、ついでだけど、
せめて元論文の著者名くらい書いてあげればいいのに。
トゥリーの論文はタイトルも掲載誌もちゃんと書いている一方で、
Giubilini らについては、最初から「著者ら」。
論文のタイトルも書かない。
同じ世界でメシ食ってんだし
誰だって論文を書こうと思えば、それなりの苦労をしているのだし、
自分がその世界で大物だと思うならそれだけに、
下には心遣いをしてあげればいいのに。
“出生後中絶”と称して新生児殺しを正当化した論文がネットであっという間に広がり、
著者らに脅迫状まで届く事態になっていることは、以下のエントリーで拾ってきました。
中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)
“出生後中絶”正当化論は「純粋に論理のエクササイズ」(2012/3/5)
下の方のエントリーで紹介した著者らの公開書簡が出た日に、
別のサイトで、ついに御大Peter Singer が登場していました。
Peter Singer Weighs In on Infanticide Paper
The Chronicle, March 5, 2012
本人が直接ここに寄稿したというわけではなく、
この記事の著者 Tom Bartlertが頼んで書いてもらったものを掲載・紹介するという、
ちょっと変則的な恰好になっています。文章も短いです。
最初のあたりには、ちょっと面倒くさそうなトーンもあって、
書いてと求められて(問題の論文の掲載誌編集長は愛弟子だし)
しぶしぶ書いた……とでもいった感じ。あくまでも個人的な印象ですが。
(これはアシュリー事件でもNYTの論考について、
「誰かに引っ張り出されて書いている感じ」と感想を書いてた人がいた)
でも、書いていくうちに少しずつ熱が入ってくる感じが、、ちょっと興味深いです。
以下、多少の省略などしながらの、雑駁な訳。
72年にトゥリーが論文を書いてこの40年来、応用倫理学では、状況次第で新生児殺しは正当化できるということになっている。今回の論文がすごく目新しいことを言ってるというわけではない。養子にしたいという夫婦がいる場合でも殺すことは正当化できる、ということなどが追加されているだけで。
自分たちの論文をそういうものと捉えていた著者が、脅迫状までくるような反響の激烈さに驚くのは無理もないが、40年前には、オンラインで論文が刊行されることもなければ、プロ・ライフのウェブ・サイトも存在していなかった。現在は、アカデミックなジャーナルに掲載される論文に批判が起こりやすくなっている。
新生児の道徳的地位というのは現実問題(a real issue)だから、アカデミックな雑誌が、真摯かつ論理的にこの問題を論じている論文を掲載するのは当たり前のこと。旧来の生命の神聖という考えを擁護したい人たちは、暴言を浴びせるのではなく著者らの議論に応答すべきだ。それにしても、生命の神聖を守ろうとする手段が、疑問視する人間を殺してやるぞと脅すことだというのは皮肉なものだ!
And it is ironic that some seek to "defend" the sanctity of human life by threatening to kill those who question it!
中絶反対論者は、胎児と新生児で道徳的地位は違わないと、この論文と同じことを主張してきたのだから歓迎すればよい。両者の道徳的地位は同じだと言いつつ、同時にan innocent living human being (「赤ん坊のように知的レベルが低いままで生きている人間」の意では)というだけでは生きる権利に値しない、と主張する人間に、ちゃんと反論できるだけの人物が、中絶反対論者の中にほとんどいないようだから、そこが気の毒な ところだが。
脅迫や脅しでなく、理性と議論でこの論争に勝てると思うなら、それをすればよい。
最初に一読した時には
大したことは何も言っていないと思ったのですが、
再読しながら、ツイッターでメモ的に訳していくと、
いくつかの疑問点が頭に浮かびました。
① 一番気になるのは a real issue。
Giubiliniらは非難に対して
「知的な議論、論理のエクササイズをしただけで政策提言じゃない」と弁明したけど、
シンガーはそうは思っていないのでは?
ただ、とりあえず「現実問題」と訳してみたものの
「学問的に意義のある大問題」の可能性もあるので、その辺りはちょっと保留。
一方、それであったとしても
Giubiliniらが引いた「論理のエクササイズ」と「政策提言」の線引きを
シンガーはしていないこと、
冒頭を「現代応用倫理の世界では」と始めていることの2点を考えると、
やはりシンガーはこの点については著者らとは別の立場に立っているのでは?
② 「新生児殺し擁護派」VS「中絶反対派」の対立の構図を描くことは、
問題を過剰に単純化していると思う。
これは既に拙ブログで問題の論文を拾った時に、補遺で「なんだか、読んでいると、
功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、
実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうで、それが一番イヤだ」と書いたけど、
やっぱり、そこへ持ち込まれている。
議論されるべきことは、実際は、その対立の外というか間というか、
そのどちらにも与しきらない中間的な立場の広がりと深さの中にこそ
まだまだ多様に存在しているはずなのでは?
③ オンラインで刊行されるようになったから
「学者の論文に批判が起きやすくなった」という解釈の、一方向性。
シンガーは「論文への批判が起こりやすくなった」だけを言っている。
インターネット上には、暴言や脅迫以外にも
問題の論文の内容について冷静な議論も出ているはずなのだけれど、
「ネットによりアカデミックな世界の外の人も議論に参加できるようになった」とは言っていない。
この不均衡は、双方向は想定されていないということ?
④ どうせ、論破などできまい、というゴーマンを、
私は個人的には感じます。
「どうせ論破などできまいが、できるものならしてみるがいい」と見下してかかる、
傲岸な響きがあるような感じがする。
⑤ 「脅迫や脅しではなく、理性と議論で」というのは私も思うけれど、
それを実際にアカデミックな世界の外からやってしまうと、
どういうことが身に降りかかり得るかを考えると、
ここでspitzibaraがこの記事と出会ってしまったのも、
何かの必然かもしれない。
(ツイッターでフォローしてくださっている方以外には分かりにくいと思いますが、
そういうことをやろうとすると、反感を買い、ツライ目に遭う可能性もあるかも、との意。
当ブログでも時々ありますが)
⑥ 「勝てると思うなら」というところがムチャ気になる。
上記④とも繋がっているのだけど、
「勝てると思うならかかってこい」姿勢は、
相手の言うことを最初から全否定する構えでしかなく、
シンガーが奇しくもその言葉を使っているように
それはディベートではあっても、誠実な議論や対話の姿勢とはいえない。
人の命は勝ち負けじゃない。
⑦「知的議論」と「政策提言」との線引きについては?
上記に見られるように、中絶反対論者との対立の構図を描き、
そこでの議論を「勝ち負け」で捉えているシンガーの感覚は
正に「論理のエクササイズ」なのだと思う。
しかしシンガー自身はこちらのインタビューで語っているように
現場医師らからの問い合わせを受けて、その判断に関与してもいる。
(クーゼと相談して「決めた」という文言を、自ら使っていることに注目)
つまり、一方で、中絶反対論者に向けては「論理のエクササイズ」で挑戦しつつ、
自身の言動においては、「政策提言」どころか直接的に現場にスタンダードを敷いている。
ここで①の疑問に戻るのだけれど、
シンガーは著者らの線引きを肯定する立場に立つのか、否定する立場に立つのか。
また、その立場と、
自らの論争のスタンス、倫理学者として直接的に医療判断に影響する立場が
どのように整合されるのか?
⑧ これは、ついでだけど、
せめて元論文の著者名くらい書いてあげればいいのに。
トゥリーの論文はタイトルも掲載誌もちゃんと書いている一方で、
Giubilini らについては、最初から「著者ら」。
論文のタイトルも書かない。
同じ世界でメシ食ってんだし
誰だって論文を書こうと思えば、それなりの苦労をしているのだし、
自分がその世界で大物だと思うならそれだけに、
下には心遣いをしてあげればいいのに。
2012.03.14 / Top↑
某所で「障害は不幸か」「障害は不便か」を巡って
議論が交わされているのを見て、考えてみた。
ピーター・シンガーのDNAを持ち、
生殖補助医療で大金持ちの家にそこそこ健康に生まれ、
3歳の時に、事業に失敗した父親が自殺、一家はジリ貧に落ち込み、
10歳で母親が再婚してかろうじて生活はそこそこになったけど、
その代わりに義父から酷い虐待を受け続けて成人することになった人は――?
本当に問うべき問いは
「なぜ『障害は不幸か』という問いだけが、死なせることや殺すこととの繋がりで問われるのか」では?
「障害は不幸か」議論の危うさは、
その問いの設定枠内に参加者の視野を限定し、
他に問うべきものを見えなくすることにあるような気がする。
私自身は、障害については、
人が人生を生きていく過程で、
誰の責任でもなく、どうにも避けがたく見舞われることがある、
数え切れないほどの種類と形態と大きさの「不運」の一つ、
と、とりあえず考えていますが、
最終的な結論ではありません。
結論なんか出ません。
また、
結論を見いだそうとする方向で議論すべき類のことではないように思います。
【関連エントリー】
「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010年8月20日)
議論が交わされているのを見て、考えてみた。
ピーター・シンガーのDNAを持ち、
生殖補助医療で大金持ちの家にそこそこ健康に生まれ、
3歳の時に、事業に失敗した父親が自殺、一家はジリ貧に落ち込み、
10歳で母親が再婚してかろうじて生活はそこそこになったけど、
その代わりに義父から酷い虐待を受け続けて成人することになった人は――?
本当に問うべき問いは
「なぜ『障害は不幸か』という問いだけが、死なせることや殺すこととの繋がりで問われるのか」では?
「障害は不幸か」議論の危うさは、
その問いの設定枠内に参加者の視野を限定し、
他に問うべきものを見えなくすることにあるような気がする。
私自身は、障害については、
人が人生を生きていく過程で、
誰の責任でもなく、どうにも避けがたく見舞われることがある、
数え切れないほどの種類と形態と大きさの「不運」の一つ、
と、とりあえず考えていますが、
最終的な結論ではありません。
結論なんか出ません。
また、
結論を見いだそうとする方向で議論すべき類のことではないように思います。
【関連エントリー】
「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010年8月20日)
2012.03.14 / Top↑
以下のエントリーで書いたことについて、ずいぶん前にツイッターで京都女子大学教授の江口聡先生から
誤読しているとのご批判をいただいていたのですが、
P・シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)
なかなか体勢を整えて原文を読み返す余裕がなかったので、これまで手をつけることができずにいました。
今回のイタリアの功利主義の学者さんの「出生後中絶」論文から巻き起こった
言論の自由論争と、「知的な議論に過ぎない」という声から思いがまたぞろ上記のシンガーの発言に至り、
この際でもあるので全訳してみました。
質問:病気の乳児を安楽死させることが許されるべきだと、あなたはなぜ考えるのですか?
シンガー:まず最初に、どうしてこの問題について書こうと思ったかをお話しします。私はオーストラリアの生命倫理センターのディレクターをしていて、倫理的なジレンマを抱えた医師らからよく相談されました。NICUで働いている医師らです。NICUというのは生後間もない子ども達、例えば二分脊椎などの病気や障害のある子ども達に集中治療をするユニットです。二分脊椎の子どもというのは、そういう医師らからすれば、助かってもそれがいいこととは言えない。仮に命が助かったとしても、そういう乳児は何度も手術を受けなければならないし、様々な重い障害を負うことになります。両親もそういう説明を聞くと、子どもが助かるのはいいことではないと考えることが多いわけです。
そこで、こうした乳児は基本的には治療されませんでした。その結果、ほとんどの子どもたちが生後6か月以内に死にました。1、2週で死ぬ子どももいたし、1、2カ月で死ぬ子どももいますが、それ以外でもだいたい6カ月以内に死にます。
これは、親、医師、看護師にとって、たいへん消耗的な体験でした。小さな赤ん坊が病院にいて、でも生きるための治療は行われていない。それでも彼らはそれなりに長い期間生きているわけです。
そこで医師から「我々がここでやっているのは果たして正しいことなのだろうか。こんなことが正当化できるのだろうか」と問い合わせがあり、私は同僚のヘルガ・クーゼと一緒に検討して、この病気(二分脊椎)の乳児は生きない方がよいと両親と医師とで決めるのは理にかなったことである、この病気が重い子どもたちは基本的には生きるべきではない、と決めたのです。しかし、だからといって死なせるのが正しいことだという考えが擁護できなかったのは、そうすると長く苦しい死となるために、前に言ったように、両親にとってもその他医療職にとっても感情的な消耗が大きいからです。
そこで我々が言ったのは、「難しいのは、この子を生かすかどうかの決断であり、症状について可能な限りすべての情報に基づいて親と医師とが決めること。しかし、一旦決断したなら、その子がすぐに人間的な死に方ができるようにしなければならない。この子は生きるべきではない、と決めるなら、それはあなたがたの決断だけれども、子どもがすぐに人間的に死ねる保証が必要だ、と。
それが我々の提言でした。
その後、様々な批判を受けてきました。プロ・ライフの運動と、戦闘的な障害者運動の人たちの両方からです。実は、我々が最初にこの問題で論文を書いた時には、障害者運動というのはまだちゃんと存在していなかったのですが、我々がこういう障害のある乳児にはそういう扱いをすべきだと思うと、堂々と言っているものだから、我々を悪者として標的にするようになりました。
プロ・ライフが我々のいうことをそういうふうに受け止めるというのはある程度私には理解できるのですが、私に言わせると、障害があるという理由で子どもを死なせることについては障害者運動こそ私に怒っているのと同じだけ怒るべきでしょう。多くの病院で、実際普通に行われていることなのだから。なぜ障害者運動が、実際に乳児を死なせていた医師をターゲットにするのではなく、我々をターゲットにすることにしたのか、私にはよく分かりません。子どもを死なせることと、彼らの死が速やかに人間的なものであるよう保証することに違いがいあるとは私には思えません。
訳してみても、2010年8月23日のエントリーで読んだ時と私の捉え方は変わりませんでした。
江口先生のご指摘の1つは、
このトークは新生児の(積極的)治療の差し控えではなく、
(もしそれが正当化されるとすれば)積極的安楽死が正当化されるかどうかの話をしているはずです。
江口先生がおっしゃる通り、質問は「なぜあなたは安楽死が許容されるべきだと思うか」。
しかし質問には江口先生が追加されている(もしも差し控えが正当化されるとすれば)は存在しません。
それに対して、シンガーは、話の前提を治療の差し控えにもっていき、
勝手に質問を再構成してしまっているように私には思えます。
治療の差し控えによって倫理のジレンマを抱えた医師の問い合わせを受けたのが
安楽死を論じることになったきっかけだと述べることから回答を始め、
まず消極的安楽死について、親と医師とで子どもを死なせることを決めてもよい、と決めた、という。
ここで提示されている判断の根拠については、
二分脊椎に関するはなはだしい認識不足があるとBill Peaceが指摘しています。
それでもシンガーは、消極的安楽死の許容を前提に、
① 子どもが長く苦しむ、②ケアし、見ている医療職と親が消耗する、の2点を理由に、
それなら親と医師が決めた以上すみやかに死なせてやるのがよい、と
積極的安楽死を容認すべきだとの考えに至った、と説明しています。
つまり「なぜ積極的安楽死を許容するのか」という問いに対して、
「消極的安楽死では、子も親も医療職も苦しむから」と答えていることになるのでは?
私が2010年8月23日のエントリーで指摘したのは、
消極的安楽死を前提にするなら、「十分な緩和ケア」という選択肢によって
シンガーが問題にしている本人の苦痛も、親と医師の消耗というジレンマも解消する以上、
本来の問いの「なぜ(積極的)安楽死をあなたは許容できると思うのか」には
消極的安楽死での苦痛を根拠にしているシンガーはまともに答えていない、ということです。
また、シンガーの興味関心が、本人が苦しむことよりも、
むしろ親と医療職の苦しみの方に向けられているのでは、とも指摘しました。
そこにはまた別の倫理問題が生じているはずですが、
シンガーは混同・曖昧にしたまま論じるという誤魔化しをしているのではないでしょうか。
もう1つ、シンガーが「実際に死なせているのは医師たちなのに、
その医師を攻撃せずに、なんで自分が攻撃されるのか分からない」と言っているのは
卑怯ではないか、と私が書いたことに対して、江口先生からの反論は以下。
「障害者運動家たちは、(障害をもっている新生児の(積極的)安楽死と同じように)障害を理由とした新生児を(積極的に治療せずに)死ぬにまかせることにも同じように腹を立てるべきだ」と言ってると紹介するべきだと思います。()内は私の解釈。
だからぜんぜん卑怯じゃない。むしろ「安楽死だけじゃなくて治療停止や積極的治療のさしひかえにも反対しなければならないはずだ」と言ってるわけです。これはspitzibaraさん自身の立場でもあるはずです。
"I’m not so sure why they’ve gone after us in particular rather than after the doctors who were actually doing it." が *were*になってるのも注意してください。
しかし、改めて質問とシンガーの回答を全訳してみて、この点についても私の捉え方は変わりません。
私にはシンガーが言いたいのは、あくまでも
「障害者運動がなぜ自分たちをターゲットにしたのか理解できない」であり、
江口先生が言われるように障害者運動の主張を分析的に批判しているというよりも、
自分たちをターゲットにすることの不当さをこういう形で訴えているだけのように思えます。
仮に分析的に批判しているとしても、その批判は的外れです。
障害者運動の主張は「障害のある生を生きるに値しないとすること」そのものへの批判なので、
当然のこととして、ここでシンガーが挙げている理由での消極的安楽死は否定されます。
実際Bill Peaceは否定しているし、militantと呼ばれているNot Dead YETは名称にもみられるように、
「まだ死んでいない」のだから障害があるからと言って死なせるな、との主張。
「消極的安楽死を批判している」のだから「消極的安楽死も批判すべき」との批判は的外れ。
ここでシンガーが言っていることの趣旨は、私には
「私たちが積極的安楽死を許容せよと言っていることに腹を立てるのだったら、
消極的安楽死はあちこちで行われているんだから、それにだって腹を立てるべきなのに、
実際に消極的安楽死で死なせている医師をターゲットにするんじゃなくて、
どうせ死なせるんだったら殺してやれと言っている私をターゲットにしたのは不当だ」と聞こえます。
そして、ついでのように
「死なせることと殺すことに違いがあるとは思えない」と、ここにもあるはずの
omissionとcomissionという別の倫理問題はスル―されてしまう。
さらに、上記のエントリーを書いた時には頭に浮かばなかったけれど、
今こうして改めて読んでみて、やっぱり卑怯じゃないかと思うのは、
シンガーは2008年のゴラブチャック事件で既に「社会のコスト」を持ち出していること。
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
去年のMaraachli事件では、「こういう子どもの命に拘泥するか、
その金で途上国の子どもにワクチンを売って多数の命を救うか」とまで発言しています。
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
上記インタビューが2つの事件の間で行われたとすれば、
「なぜ思うのか」の答えには「コストに値しない」を彼は含めるべきでは?
誤読しているとのご批判をいただいていたのですが、
P・シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)
なかなか体勢を整えて原文を読み返す余裕がなかったので、これまで手をつけることができずにいました。
今回のイタリアの功利主義の学者さんの「出生後中絶」論文から巻き起こった
言論の自由論争と、「知的な議論に過ぎない」という声から思いがまたぞろ上記のシンガーの発言に至り、
この際でもあるので全訳してみました。
質問:病気の乳児を安楽死させることが許されるべきだと、あなたはなぜ考えるのですか?
シンガー:まず最初に、どうしてこの問題について書こうと思ったかをお話しします。私はオーストラリアの生命倫理センターのディレクターをしていて、倫理的なジレンマを抱えた医師らからよく相談されました。NICUで働いている医師らです。NICUというのは生後間もない子ども達、例えば二分脊椎などの病気や障害のある子ども達に集中治療をするユニットです。二分脊椎の子どもというのは、そういう医師らからすれば、助かってもそれがいいこととは言えない。仮に命が助かったとしても、そういう乳児は何度も手術を受けなければならないし、様々な重い障害を負うことになります。両親もそういう説明を聞くと、子どもが助かるのはいいことではないと考えることが多いわけです。
そこで、こうした乳児は基本的には治療されませんでした。その結果、ほとんどの子どもたちが生後6か月以内に死にました。1、2週で死ぬ子どももいたし、1、2カ月で死ぬ子どももいますが、それ以外でもだいたい6カ月以内に死にます。
これは、親、医師、看護師にとって、たいへん消耗的な体験でした。小さな赤ん坊が病院にいて、でも生きるための治療は行われていない。それでも彼らはそれなりに長い期間生きているわけです。
そこで医師から「我々がここでやっているのは果たして正しいことなのだろうか。こんなことが正当化できるのだろうか」と問い合わせがあり、私は同僚のヘルガ・クーゼと一緒に検討して、この病気(二分脊椎)の乳児は生きない方がよいと両親と医師とで決めるのは理にかなったことである、この病気が重い子どもたちは基本的には生きるべきではない、と決めたのです。しかし、だからといって死なせるのが正しいことだという考えが擁護できなかったのは、そうすると長く苦しい死となるために、前に言ったように、両親にとってもその他医療職にとっても感情的な消耗が大きいからです。
そこで我々が言ったのは、「難しいのは、この子を生かすかどうかの決断であり、症状について可能な限りすべての情報に基づいて親と医師とが決めること。しかし、一旦決断したなら、その子がすぐに人間的な死に方ができるようにしなければならない。この子は生きるべきではない、と決めるなら、それはあなたがたの決断だけれども、子どもがすぐに人間的に死ねる保証が必要だ、と。
それが我々の提言でした。
その後、様々な批判を受けてきました。プロ・ライフの運動と、戦闘的な障害者運動の人たちの両方からです。実は、我々が最初にこの問題で論文を書いた時には、障害者運動というのはまだちゃんと存在していなかったのですが、我々がこういう障害のある乳児にはそういう扱いをすべきだと思うと、堂々と言っているものだから、我々を悪者として標的にするようになりました。
プロ・ライフが我々のいうことをそういうふうに受け止めるというのはある程度私には理解できるのですが、私に言わせると、障害があるという理由で子どもを死なせることについては障害者運動こそ私に怒っているのと同じだけ怒るべきでしょう。多くの病院で、実際普通に行われていることなのだから。なぜ障害者運動が、実際に乳児を死なせていた医師をターゲットにするのではなく、我々をターゲットにすることにしたのか、私にはよく分かりません。子どもを死なせることと、彼らの死が速やかに人間的なものであるよう保証することに違いがいあるとは私には思えません。
訳してみても、2010年8月23日のエントリーで読んだ時と私の捉え方は変わりませんでした。
江口先生のご指摘の1つは、
このトークは新生児の(積極的)治療の差し控えではなく、
(もしそれが正当化されるとすれば)積極的安楽死が正当化されるかどうかの話をしているはずです。
江口先生がおっしゃる通り、質問は「なぜあなたは安楽死が許容されるべきだと思うか」。
しかし質問には江口先生が追加されている(もしも差し控えが正当化されるとすれば)は存在しません。
それに対して、シンガーは、話の前提を治療の差し控えにもっていき、
勝手に質問を再構成してしまっているように私には思えます。
治療の差し控えによって倫理のジレンマを抱えた医師の問い合わせを受けたのが
安楽死を論じることになったきっかけだと述べることから回答を始め、
まず消極的安楽死について、親と医師とで子どもを死なせることを決めてもよい、と決めた、という。
ここで提示されている判断の根拠については、
二分脊椎に関するはなはだしい認識不足があるとBill Peaceが指摘しています。
それでもシンガーは、消極的安楽死の許容を前提に、
① 子どもが長く苦しむ、②ケアし、見ている医療職と親が消耗する、の2点を理由に、
それなら親と医師が決めた以上すみやかに死なせてやるのがよい、と
積極的安楽死を容認すべきだとの考えに至った、と説明しています。
つまり「なぜ積極的安楽死を許容するのか」という問いに対して、
「消極的安楽死では、子も親も医療職も苦しむから」と答えていることになるのでは?
私が2010年8月23日のエントリーで指摘したのは、
消極的安楽死を前提にするなら、「十分な緩和ケア」という選択肢によって
シンガーが問題にしている本人の苦痛も、親と医師の消耗というジレンマも解消する以上、
本来の問いの「なぜ(積極的)安楽死をあなたは許容できると思うのか」には
消極的安楽死での苦痛を根拠にしているシンガーはまともに答えていない、ということです。
また、シンガーの興味関心が、本人が苦しむことよりも、
むしろ親と医療職の苦しみの方に向けられているのでは、とも指摘しました。
そこにはまた別の倫理問題が生じているはずですが、
シンガーは混同・曖昧にしたまま論じるという誤魔化しをしているのではないでしょうか。
もう1つ、シンガーが「実際に死なせているのは医師たちなのに、
その医師を攻撃せずに、なんで自分が攻撃されるのか分からない」と言っているのは
卑怯ではないか、と私が書いたことに対して、江口先生からの反論は以下。
「障害者運動家たちは、(障害をもっている新生児の(積極的)安楽死と同じように)障害を理由とした新生児を(積極的に治療せずに)死ぬにまかせることにも同じように腹を立てるべきだ」と言ってると紹介するべきだと思います。()内は私の解釈。
だからぜんぜん卑怯じゃない。むしろ「安楽死だけじゃなくて治療停止や積極的治療のさしひかえにも反対しなければならないはずだ」と言ってるわけです。これはspitzibaraさん自身の立場でもあるはずです。
"I’m not so sure why they’ve gone after us in particular rather than after the doctors who were actually doing it." が *were*になってるのも注意してください。
しかし、改めて質問とシンガーの回答を全訳してみて、この点についても私の捉え方は変わりません。
私にはシンガーが言いたいのは、あくまでも
「障害者運動がなぜ自分たちをターゲットにしたのか理解できない」であり、
江口先生が言われるように障害者運動の主張を分析的に批判しているというよりも、
自分たちをターゲットにすることの不当さをこういう形で訴えているだけのように思えます。
仮に分析的に批判しているとしても、その批判は的外れです。
障害者運動の主張は「障害のある生を生きるに値しないとすること」そのものへの批判なので、
当然のこととして、ここでシンガーが挙げている理由での消極的安楽死は否定されます。
実際Bill Peaceは否定しているし、militantと呼ばれているNot Dead YETは名称にもみられるように、
「まだ死んでいない」のだから障害があるからと言って死なせるな、との主張。
「消極的安楽死を批判している」のだから「消極的安楽死も批判すべき」との批判は的外れ。
ここでシンガーが言っていることの趣旨は、私には
「私たちが積極的安楽死を許容せよと言っていることに腹を立てるのだったら、
消極的安楽死はあちこちで行われているんだから、それにだって腹を立てるべきなのに、
実際に消極的安楽死で死なせている医師をターゲットにするんじゃなくて、
どうせ死なせるんだったら殺してやれと言っている私をターゲットにしたのは不当だ」と聞こえます。
そして、ついでのように
「死なせることと殺すことに違いがあるとは思えない」と、ここにもあるはずの
omissionとcomissionという別の倫理問題はスル―されてしまう。
さらに、上記のエントリーを書いた時には頭に浮かばなかったけれど、
今こうして改めて読んでみて、やっぱり卑怯じゃないかと思うのは、
シンガーは2008年のゴラブチャック事件で既に「社会のコスト」を持ち出していること。
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
去年のMaraachli事件では、「こういう子どもの命に拘泥するか、
その金で途上国の子どもにワクチンを売って多数の命を救うか」とまで発言しています。
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
上記インタビューが2つの事件の間で行われたとすれば、
「なぜ思うのか」の答えには「コストに値しない」を彼は含めるべきでは?
2012.03.14 / Top↑
以下のエントリーで紹介した論文著者らに
脅迫状が送られるほどの過激な非難がまきおこっていることから、
掲載誌のブログに著者らからの公開書簡が掲載されました。
中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)
主に言われていることは、
・アカデミックな世界では既に40年来議論されてきた問題を論じただけなので
まさか、これほど激烈な憎悪に満ちた批判を受けるとは予想していなかった。
・アカデミックな論文を書いたのだから、
アカデミックな業界からの反論は予想していたが、
まさかインターネットでアブストラクトが一人歩きをして
ここまで一般社会に広まり、宗教的背景があるサイトやプロライフのサイトに拾われて、
それらを含む一般からこれほどの批判を受けるとは思わなかった。
・しかし、私たちの論文の趣旨は「もしもXであったらYでなければならない」という
純粋に論理のエクササイズ(pure exercise of logic)であって、
実際に出生後中絶を合法化せよと説いたつもりはない。
・我々は政策立案者ではなく哲学者なので、
我々が扱うのは概念。法的施策を扱うわけではない。
・もし政策を扱いたいなら、
例えばグローニンゲン・プロトコルなどを論じたはずだが、
我々はガイドラインについては論じていないし、むしろ、
このようなプロトコルが存在するから議論する意味も
論文を書く意味もがあると指摘している。
・40年間の議論の文脈で論文を読んでもらえれば分かるし、
この論文で想定した読者対象はそうした文脈で読めるアカデミックな人だったのだが、
広くインターネットやメディアで取り上げられて、そうした背景を持たない人たちに届き、
我々は人を殺すこと自体に賛成なのだと誤解されている。
・そのため我々の論文に気分を害したり、脅かされたりした人には
本当に申し訳なく思い、謝罪する。
・しかし、我々の趣旨がメディアによって捻じ曲げられていることや
そこで我々が論じられていると書かれていることには同意できないし、なによりも
物議を醸す話題についてアカデミックな論文を書いたことで
誰かが不当な攻撃の対象となるということはあってはならないと思う。
・一方で、「アカデミックな」(ここはイタリックで強調)意味で、
議論を喚起したことに感謝してくれる人からのEメールも多数届いている。
こうした人たちは、我々が論文でなんら「どうすべきか」具体的な示唆・提言を
しているわけではないことを理解してくれている人たちである。
・気分を害された方には申し訳ないが、この論文が
アカデミックな言説とメディアのミスリーディングな報道、
またアカデミックな論文で論じられうる範囲と、実際に法的に許容されるべき範囲の
本質的な区別について、広く理解される契機となるよう願っている。
An open letter from Giubilini and Minerva
BMJ Broup Blogs, March 2, 2012
ぱっと頭に浮かぶのは、
広く生命倫理が、現場の医療実践や、先端医療が許容されていく過程にいかに影響してきたかという
さらに大きな図を念頭に考えた時に、
本当に
アカデミックな議論で言われることは
実際の医療の実践や、医療を巡る司法のあり方に全く影響を与えない
全然別のただの「論理のエクササイズ」だと言えるんだろうか。
私は中絶の是非議論については詳しくないから、これ以上何も言えないけど、
アシュリー事件や、死の自己決定権や、無益な治療論、移植医療の周辺では
アカデミックな世界の人たちの言動が世論形成に大きな影響を及ぼしていて、
しかも年を追うごとに、一定方向への誘導が非常に露骨になってきている観さえある。
「再分配ではなく収奪の場となった」と誰かが書いていたネオリベ強欲ひとでなし金融(慈善)資本主義や
その利権と、医療とその周辺が直結してしまっていることに、
むしろ医療の世界の人や生命倫理のアカデミックな世界の人が、
そろそろ自覚的になるべき時期だということなのでは?
脅迫状が送られるほどの過激な非難がまきおこっていることから、
掲載誌のブログに著者らからの公開書簡が掲載されました。
中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)
主に言われていることは、
・アカデミックな世界では既に40年来議論されてきた問題を論じただけなので
まさか、これほど激烈な憎悪に満ちた批判を受けるとは予想していなかった。
・アカデミックな論文を書いたのだから、
アカデミックな業界からの反論は予想していたが、
まさかインターネットでアブストラクトが一人歩きをして
ここまで一般社会に広まり、宗教的背景があるサイトやプロライフのサイトに拾われて、
それらを含む一般からこれほどの批判を受けるとは思わなかった。
・しかし、私たちの論文の趣旨は「もしもXであったらYでなければならない」という
純粋に論理のエクササイズ(pure exercise of logic)であって、
実際に出生後中絶を合法化せよと説いたつもりはない。
・我々は政策立案者ではなく哲学者なので、
我々が扱うのは概念。法的施策を扱うわけではない。
・もし政策を扱いたいなら、
例えばグローニンゲン・プロトコルなどを論じたはずだが、
我々はガイドラインについては論じていないし、むしろ、
このようなプロトコルが存在するから議論する意味も
論文を書く意味もがあると指摘している。
・40年間の議論の文脈で論文を読んでもらえれば分かるし、
この論文で想定した読者対象はそうした文脈で読めるアカデミックな人だったのだが、
広くインターネットやメディアで取り上げられて、そうした背景を持たない人たちに届き、
我々は人を殺すこと自体に賛成なのだと誤解されている。
・そのため我々の論文に気分を害したり、脅かされたりした人には
本当に申し訳なく思い、謝罪する。
・しかし、我々の趣旨がメディアによって捻じ曲げられていることや
そこで我々が論じられていると書かれていることには同意できないし、なによりも
物議を醸す話題についてアカデミックな論文を書いたことで
誰かが不当な攻撃の対象となるということはあってはならないと思う。
・一方で、「アカデミックな」(ここはイタリックで強調)意味で、
議論を喚起したことに感謝してくれる人からのEメールも多数届いている。
こうした人たちは、我々が論文でなんら「どうすべきか」具体的な示唆・提言を
しているわけではないことを理解してくれている人たちである。
・気分を害された方には申し訳ないが、この論文が
アカデミックな言説とメディアのミスリーディングな報道、
またアカデミックな論文で論じられうる範囲と、実際に法的に許容されるべき範囲の
本質的な区別について、広く理解される契機となるよう願っている。
An open letter from Giubilini and Minerva
BMJ Broup Blogs, March 2, 2012
ぱっと頭に浮かぶのは、
広く生命倫理が、現場の医療実践や、先端医療が許容されていく過程にいかに影響してきたかという
さらに大きな図を念頭に考えた時に、
本当に
アカデミックな議論で言われることは
実際の医療の実践や、医療を巡る司法のあり方に全く影響を与えない
全然別のただの「論理のエクササイズ」だと言えるんだろうか。
私は中絶の是非議論については詳しくないから、これ以上何も言えないけど、
アシュリー事件や、死の自己決定権や、無益な治療論、移植医療の周辺では
アカデミックな世界の人たちの言動が世論形成に大きな影響を及ぼしていて、
しかも年を追うごとに、一定方向への誘導が非常に露骨になってきている観さえある。
「再分配ではなく収奪の場となった」と誰かが書いていたネオリベ強欲ひとでなし金融(慈善)資本主義や
その利権と、医療とその周辺が直結してしまっていることに、
むしろ医療の世界の人や生命倫理のアカデミックな世界の人が、
そろそろ自覚的になるべき時期だということなのでは?
2012.03.14 / Top↑
3月4日
結局、生命倫理学って、科学とテクノの価値意識で世論を誘導し、メディカル・コントロールと人体の資源化を実現していくための洗脳装置なのかと思うこと、ありますよね。
「『いのちの思想』を掘り起こす」で、編著者の安藤泰至さんが 「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」ある、と指摘されていました。
例の「出生後中絶」論文の著者らには「アンタらこそ死ねよ」などのコメントや脅迫状が届いているらしい。そういう行為を肯定するつもりはないのだけれど、 生命倫理の議論が実際に医療現場で起こっている弱者切り捨てを正当化してきた以上、「ただ知的な議論をしただけ」と言って済むのか、とは思う。
「オレら頭のいい人間だけが興じることができる形而上学的な議論(つまり論理のパズル)」とか「単なる知的な議論」という意識が、目の前の人間が重症障害 のある子どもを持つ親であると知っていても、平然と「障害児は生きても自分のように大学教授にはなれない」と言える意識につながっていないか。
この発言を批判したことについて「憐みや配慮を求めちゃダメよね~」とたいそうな上から目線の批判があったので、断っておくけれど、私はこうした発言をする人の意識(?)における欠落(マイナス)を指摘したのであって、配慮(プラス)を求めたわけではありません。
昔、病院の廊下で、患者が挨拶しているのに平気で無視して歩いていく医師や、自分よりも年上の患者や家族をぞんざいに怒鳴りつける医師を見て、いつも「この人って、自分の家の近所の人にも、こういう態度を取るのかしら」と不思議だった。
「殺してもいい、と言ったのは、知的な議論に過ぎないから。だって生命倫理学者ですから、それが仕事ですから」という類のことを言っている人がこの前からあちこちで目について、なんとなく、こういうお医者さんの態度の使い分け方のことを考えた。
お医者さんのゴーマンに何度もそれを考えて以来、私にとって「道徳的にふるまう」基準の1つは「自分が住んでいる近所の人に向かってできないことは、誰に対してもしない」。それを考えたら、道徳的でない人が論じるからロバート・マーフィがいう「精神なき道徳」になる?
はい。おっしゃる通りです。私も一部のトンデモ御用生命倫理学者のいうことには、臓器移植を含めた、科学とテクノの簡単解決文化と、その背後に繋がっている巨大な利権という視点で、立派なconsistencyがあるように思います。
結局、こういうことなんじゃないか、と。⇒ 「必要を作りだすプロセスがショーバイのキモ」時代と「次世代ワクチン・カンファ」 http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60707023.html
「出生後中絶」議論で、誰かが「シンガーは新生児殺しの正当化論で名前を売って大物哲学者となった」みたいなことを書いていた。W・Smithも前に「最 近の学者は過激なことを言えば言うほど権威ある大学に迎えられる」と書いていた。まるで爆弾発言やスキャンダルで名前を売るタレントみたいだ。
私、実はアシュリー療法論争の07年からずっと「ピーター・シンガーは自分の友人とか近所の人に重い障害のある子どもがいたとしたら、その人の子を指さ し、その人に面と向かって『この子は動物以下だから尊厳など無用』と言えるんだろうか」って、ずっと考えていたんですよね。
そうしたら私自身が、シンガーを擁護する学者さんから面と向かって似たようなことを言われて、あぁ、この人たちは実際に言えるんだ、と。それを私は「欠落」ととらえていたんですけど、今回「知的な議論をしただけ」というのに「分断」なのかも、と。
まだ、うまく言えないんですけど、人として生きている生身の自分というものをどこかに棚上げにして、それとはまったく「断絶」したところで、論理のパズルをしている。そこで勝利し、アカデミックな世界で業績を作りエラくなっていくために。
その分断を繋いでもなお「殺してもいい」と言えるのかどうか、実際のその人たちが生きている姿に、学者として観察するのではなく、共にこの世に生きる一人の人として触れてみたらどうか、と、アシュリー事件からずっと怨念のように思うことを、またも。
面と向かって言えるとか言えないというのは、当たり前のことですが、比喩。自分が個人として生きている世界と、知的な議論とを断絶させることによって論理 のパズルを学問として成り立たせるこのと危うさを問題にしたいわけで、その比喩はそれに至るプロセス。本題ではありません。
キテイに障害者コミュニティへの訪問を誘われた時にシンガーは断った。それは結局、分断を埋めることを拒んだのであり、つまりは「知的な議論をしているだけ」との言い訳を手放すまいとしているんじゃないのか、と。
エヴァ・キテイ「Singerに限らず、現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは、現実の障害に関して呆れるほど無知である」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47350976.html
でも「知的に議論」している対象である道徳とか倫理は、知的な議論の世界でだけ生きている人たちが前提ではないと思うので、そういうことがnankuru28さんが言われる関係性と切り離すことはできない、ということと繋がらないかな、と。
結局、生命倫理学って、科学とテクノの価値意識で世論を誘導し、メディカル・コントロールと人体の資源化を実現していくための洗脳装置なのかと思うこと、ありますよね。
「『いのちの思想』を掘り起こす」で、編著者の安藤泰至さんが 「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」ある、と指摘されていました。
例の「出生後中絶」論文の著者らには「アンタらこそ死ねよ」などのコメントや脅迫状が届いているらしい。そういう行為を肯定するつもりはないのだけれど、 生命倫理の議論が実際に医療現場で起こっている弱者切り捨てを正当化してきた以上、「ただ知的な議論をしただけ」と言って済むのか、とは思う。
「オレら頭のいい人間だけが興じることができる形而上学的な議論(つまり論理のパズル)」とか「単なる知的な議論」という意識が、目の前の人間が重症障害 のある子どもを持つ親であると知っていても、平然と「障害児は生きても自分のように大学教授にはなれない」と言える意識につながっていないか。
この発言を批判したことについて「憐みや配慮を求めちゃダメよね~」とたいそうな上から目線の批判があったので、断っておくけれど、私はこうした発言をする人の意識(?)における欠落(マイナス)を指摘したのであって、配慮(プラス)を求めたわけではありません。
昔、病院の廊下で、患者が挨拶しているのに平気で無視して歩いていく医師や、自分よりも年上の患者や家族をぞんざいに怒鳴りつける医師を見て、いつも「この人って、自分の家の近所の人にも、こういう態度を取るのかしら」と不思議だった。
「殺してもいい、と言ったのは、知的な議論に過ぎないから。だって生命倫理学者ですから、それが仕事ですから」という類のことを言っている人がこの前からあちこちで目について、なんとなく、こういうお医者さんの態度の使い分け方のことを考えた。
お医者さんのゴーマンに何度もそれを考えて以来、私にとって「道徳的にふるまう」基準の1つは「自分が住んでいる近所の人に向かってできないことは、誰に対してもしない」。それを考えたら、道徳的でない人が論じるからロバート・マーフィがいう「精神なき道徳」になる?
はい。おっしゃる通りです。私も一部のトンデモ御用生命倫理学者のいうことには、臓器移植を含めた、科学とテクノの簡単解決文化と、その背後に繋がっている巨大な利権という視点で、立派なconsistencyがあるように思います。
結局、こういうことなんじゃないか、と。⇒ 「必要を作りだすプロセスがショーバイのキモ」時代と「次世代ワクチン・カンファ」 http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60707023.html
「出生後中絶」議論で、誰かが「シンガーは新生児殺しの正当化論で名前を売って大物哲学者となった」みたいなことを書いていた。W・Smithも前に「最 近の学者は過激なことを言えば言うほど権威ある大学に迎えられる」と書いていた。まるで爆弾発言やスキャンダルで名前を売るタレントみたいだ。
私、実はアシュリー療法論争の07年からずっと「ピーター・シンガーは自分の友人とか近所の人に重い障害のある子どもがいたとしたら、その人の子を指さ し、その人に面と向かって『この子は動物以下だから尊厳など無用』と言えるんだろうか」って、ずっと考えていたんですよね。
そうしたら私自身が、シンガーを擁護する学者さんから面と向かって似たようなことを言われて、あぁ、この人たちは実際に言えるんだ、と。それを私は「欠落」ととらえていたんですけど、今回「知的な議論をしただけ」というのに「分断」なのかも、と。
まだ、うまく言えないんですけど、人として生きている生身の自分というものをどこかに棚上げにして、それとはまったく「断絶」したところで、論理のパズルをしている。そこで勝利し、アカデミックな世界で業績を作りエラくなっていくために。
その分断を繋いでもなお「殺してもいい」と言えるのかどうか、実際のその人たちが生きている姿に、学者として観察するのではなく、共にこの世に生きる一人の人として触れてみたらどうか、と、アシュリー事件からずっと怨念のように思うことを、またも。
面と向かって言えるとか言えないというのは、当たり前のことですが、比喩。自分が個人として生きている世界と、知的な議論とを断絶させることによって論理 のパズルを学問として成り立たせるこのと危うさを問題にしたいわけで、その比喩はそれに至るプロセス。本題ではありません。
キテイに障害者コミュニティへの訪問を誘われた時にシンガーは断った。それは結局、分断を埋めることを拒んだのであり、つまりは「知的な議論をしているだけ」との言い訳を手放すまいとしているんじゃないのか、と。
エヴァ・キテイ「Singerに限らず、現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは、現実の障害に関して呆れるほど無知である」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47350976.html
でも「知的に議論」している対象である道徳とか倫理は、知的な議論の世界でだけ生きている人たちが前提ではないと思うので、そういうことがnankuru28さんが言われる関係性と切り離すことはできない、ということと繋がらないかな、と。
2012.03.14 / Top↑