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以下のエントリーで紹介した論文の著者らに、
脅迫状が送られるなどの騒ぎになっているらしく、

中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)


掲載誌の編集長であるSavulescuを始め、あちこちから
「一般人には理解しがたいかもしれないが、知的な議論をしているだけ」的な
発言が目につくことから、グルグルしてみた一連のツイート。


3月1日

Savulsecuが「”出生後中絶”論文はトゥリーやハリスの新生児殺しの主張と同じで、ただ家族利益でもOKとしたところが新しいだけ」と書いたことに、ハリスが「自分はあくまでも知的議論を展開したまでで政策として提言したことはない」。セコい。http://blogs.bmj.com/medical-ethics/2012/02/29/john-harris-clarifies-his-position-on-infanticide/

自分は頭がいいのだとゴーマンかいた胡坐の上で、論理のパズルに興じておいて、でも医療倫理も生命倫理も現場の医療とはまったく無世界だからね、とでも? そういや認知症患者には延命治療するなと説いておいて、「自分の母親となると別」だった人もいましたっけね。

じゃぁ、ハリスは去年「臓器売買を認めろと説いた」のも、あれは知的な議論に過ぎなくて、政策提言をしたわけじゃないのかな。⇒Harris「臓器不足排除が最優先」の売買容認論は「私を離さないで」の世界にあと一歩」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63037403.html

As Editor of the journal・・・Savulescuが編集委員長ってこと? この前のAJOBの利益相反スキャンダルを思い出した。⇒「AJOB巡るスキャンダルには幹細胞治療や日本の医療ツーリズムも“金魚のウンコ” 」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64752863.html

Savulescuの「中絶反対狂信者らが・・・」文章を読んでいると、功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうな気がして、それが一番イヤだ。

この両者とも、強権的な操作、コントロール指向はそっくり。、本当は片方がメディカル・コントロール、もう一方が政治と司法による支配と差別の強化と、方法論が違うだけで、方向性は合致している気がしてならない。

この前ホロコーストがトラウマになってきたドイツで最近はイスラム教徒への差別意識が高まっているという話を読んでhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64787822.html気になったけど、Savulescuが引用している「出生後中絶論文」批判にもちらっとその気配が滲んでいる。


3月2日

Savulescu が great と言ってツイートしている例の論文を巡る言論の自由擁護論。http://blog.indexoncensorship.org/2012/03/01/abortion-bmj-free-expression-infanticide-medical-ethics/ 

(↑ここだったと思うけど、ざっとあちこちに目を通した際に、「議論の一貫性consistencyを問題にしているのであり」が目についた。つまり「中絶が是」なら「新生児殺し」も是でないと論理一貫性がない、とか、学問的にはそういう問題なんだ、と説いた個所が目についたことから ↓)

consistency とは言われますけど、一定の人については「殺す」ことばかりが議論され、一定の人については「命を救う」ことばかり、または「欲望を満たしてあげること」ばかりが問題となるという意味では、これら議論を取り囲む大きな不均衡もあるわけで……。

”出生後中絶”論文に関してSavulescuおすすめの論考。https://theconversation.edu.au/theres-no-good-argument-for-infanticide-5672 お? クイーンズランドの方なのね……。

これも同じく。すぐ読めないので、とりあえずのメモとして。 http://blog.practicalethics.ox.ac.uk/2012/03/concern-for-our-vulnerable-prenatal-and-neonatal-children-a-brief-reply-to-giubilini-and-minerva/

consistencyということで言えば、まだコスト論が露骨になる前に(ex.07年ゴンザレス事件)、”無益な治療”停止の正当化だった「人工呼吸 が患者に無益な苦痛を強いている」が、今は臓器確保のための人工呼吸が「十分な鎮静と沈痛がされれば患者の損失はない」と裏返ることの不思議。

consistencyということで言えば、ゴンザレス事件の頃には「コストではない。あくまでも患者の最善の利益」と正当化された治療停止が、事件が続 き議論が繰り返されるにつれて、そこにじわじわとコスト論が紛れ込まされて、いつからか「社会のコストを考えるべき」無益な治療論へと化ける怪。

グラデーションまがいの変質を起こせば、変質そのものがバレないいだろうとでもいうがごとくに。じわじわと変質するのだって議論に一貫性がないという点では立派なinconsistencyのはずなんだけど。あ、これもAshley事件の正当化論の変質マジックと同じ。
2012.03.14 / Top↑
医療倫理のジャーナルに
イタリアの学者さん2人の共著で
乳児の障害の有無を問わず「出生後中絶」を正当化する論文。

After-birth abortion: why should the baby live?
Alberto Giubilini, Francesca Minerva
Journal of Medical Ethics, February 23, 2012

アブストラクトは以下。

Abortion is largely accepted even for reasons that do not have anything to do with the fetus' health. By showing that (1) both fetuses and newborns do not have the same moral status as actual persons, (2) the fact that both are potential persons is morally irrelevant and (3) adoption is not always in the best interest of actual people, the authors argue that what we call ‘after-birth abortion’ (killing a newborn) should be permissible in all the cases where abortion is, including cases where the newborn is not disabled.

中絶は胎児の健康とはまったく無関係な理由であっても広く受け入れられている。

そこで以下の3点を指摘することによって、著者らは
新生児に障害がない場合も含め、中絶が許容されるケースのすべてにおいて
「出生後中絶(新生児の殺害)」が認められるべきである、と説く。

(1) 胎児も新生児も共に実際の成人と同じ道徳的地位を持たない。
(2) いずれにも人格となる可能性があるという事実はこの問題と道徳的には無関係である。
(3) 養子縁組は必ずしも実際の関係者の最善の利益とは限らない。

(actual personの細かいニュアンスが分かりません。
どなたかご教示いただけると幸いです)


この論文について、BioEdgeのMichael Cookが取り上げている ↓
Ethicists give thumbs-up to infanticide
BioEdge, February 25, 2012


Cookの解説によると、著者2人は功利主義の倫理学者で、

上記アブストラクトの結論部分に当たる本文では、
以下のように書かれてもいるとのこと。

Such circumstances include cases where the newborn has the potential to have an (at least) acceptable life, but the well-being of the family is at risk.

このように許容される状況には、新生児には少なくとも許容範囲の人生を送りうる可能性があるが、家族の福祉が危うくなるケースも含まれる。


新生児の利益ではなく、関係者の利益のために行われるものなので
出生後中絶は安楽死ではない、とも著者らは明言。

私もすぐにこれを思ったけど、
「こんなの“すべり坂”じゃん」との批判に対しては
中絶の正当化論をそのまま新生児に拡大すればこうなる、と主張し、

「じゃぁ、出生後どれくらいの期間なら殺してもいいと?」との問題には
神経医学や心理学に下駄を預けつつ、

自意識が生じる数週後に新生児は
「パーソンになる可能性」から「パーソン」になる、とも。


いつも思うのだけど、
倫理問題の最先端の問題が議論されている時に、
その議論の決着が既に着いたかのように装って、
さらにその先の問題を先取りして提示することによって
ゴリ押しに倫理の線引きを先に移動させてしまおうとするのが
功利主義の学者さんたちのヤリクチ……?

「障害があるという理由だけでなく
障害がなくても親や家族の利益のために殺してもよい」と説く人が出てきて、

その人たちが提示した問題が
そこに提示された形で議論に持ち込まれることによって、
そこでは、「障害のある新生児は殺しても構わない」が
未決着の議論から結論を先取りする形で前提されてしまう。

ちょうどSavulescuらの説く「臓器提供安楽死」が
今だに合法化されていない国が大半である積極的安楽死を勝手に前提にして
「今でも安楽死は認められているのだから」と正当化されるように、

また「重症障害児にしかやらないのだから構わない」と正当化される成長抑制が
「重症障害児はその他の障害児とは倫理検討を別扱いして構わない」を
検証されないまま結論先取りで前提し、議論を進めることによって、
その議論が前提を既成事実としていくように。

慎重な議論によって、ギリギリの折り合いが見つけられ、
危ういバランスを保っているような難しい倫理問題を、
「今でもどうせ(実はごく一部またはグレー・ゾーンでのみにせよ)やっているのだから」の
「どうせ」論で、ドヤドヤと無神経に無造作に、さっさと先へ進めていこうとするなら、

それは正に「すべり坂」以外の何でもないじゃないか、と思う。

そして、こういうことを言う人たち、
ここで提示した議論が十分に尽くされない内に
きっと次には言い始めるんでは?

「そうして殺した新生児からの臓器提供や研究利用を認めよう」って。
2012.03.14 / Top↑
今月初め、米国マサチューセッツ州ノーフォークの検認裁判所の判事が
32歳の精神障害者Mary Moe (仮名)への強制中絶と不妊手術を命じる判決を出した。

それについては、専門家らからも
近年聞いたこともない、極端すぎるなど批判が相次いでいたが、
17日、上訴裁判所が不適切だとして破棄したとのこと。

「子どもを産む・産まないを自分で決める決定権は基本的なものであり、
意思決定能力が十分でない人を含めて全ての人に当てはめられなければならない」

「誰もそこまで求めていないし、強制不妊に求められる手続きも一切踏まえていない。
何の根拠もない手続きを勝手に設定したとしか思えない」など、

上訴裁判所の判事は検認裁判所の判断を厳しく非難した。
それにより裁判は家庭裁判所に差し戻されることに。

なお女性は現在、妊娠5カ月。

Mary Moeさんは重症の統合失調症と双極性障害を診断されている。
これまでに2回妊娠したことがあり、最初の妊娠は中絶。
その後、症状の悪化による入院を経て2度目の妊娠。
男児が生まれ、Mary Moeさんの両親が育てている。

去年10月に救急病院を受診した際に妊娠していることが判明。
州のメンタル・ヘルス部局が、両親を代理決定者として強制中絶の許可を求めた。

両親は中絶が娘の最善の利益だと主張。
主治医らからも、精神障害の治療薬が胎児に悪影響を及ぼす、
妊娠継続により本人の治療が困難となる、などの意見書が出された。

本人は自分はカトリック教徒だとして中絶は望まない、と語ると同時に
現在妊娠中であることは否定。診察も拒んだ。
また、かつての中絶について聞かれると情緒的に不安定となった。

裁判所が任命した専門家は
Moeさんに自己決定能力があったとしたら中絶しないことを選択するだろうと判断したが、

検認裁判所の判事はこれを採用せず、
本人に意思決定能力があったとしたら「幻覚に惑わされないことを選」び、
中絶して治療薬を飲むことを望むはずだと判断。

両親を代理決定者に任命して、
「なだめたりすかしたり、それでだめなら策を弄してでも」
Moeさんを病院へ連れて行って人工妊娠中絶手術を行い、その後、
「このような苦しい事態が将来繰り返されないよう」不妊手術を行うよう命じた。

今回の上訴裁判所の逆転判決は多くの専門家やアドボケイトに歓迎されているが、

こうしたケースでの同意問題を研究してきたYeshiva大学の Daniel Pollackは
「我々が知っている以上に、こうした命令は出されているのでは」

かつてに比べれば精神障害者の自己決定権は尊重されるようになってきたとはいえ
事案の微妙さのため、これまでの裁判記録は公開されていない。

Court strikes decision for mentally ill woman’s abortion
Boston Globe, January 18, 2012


この判決を受けて、
生命倫理学者のArt CaplanがMSNBCに
「不妊も強制中絶も答えではない」とのタイトルで賛意の論考を寄せている。

興味深いのは
上訴裁判所の差し戻し判断そのものは妥当だと考えつつも、
その理由は間違っている、と述べていること。

NC州が過去の強制不妊施策の補償に踏み切ったばかりであることに触れて、
強制不妊の濫用の歴史の重さを語り、問われるべき本質的な問いは実は
Moeのような人は強制不妊でなければセックスを禁じられるのか、だとCaplanはいう。

しかしセックスをさせないことは不可能である。

不妊手術に同意することもできないのならば、
精神障害から回復して自己決定できるようになるまでの間、
永続的な避妊が行われるべきだろう、と。

中絶についても
重症の人に意思決定能力があった場合の望みや意思を推し量ることは無意味。

既に娘が生んだ子どもを一人育てている貧しい両親が
これ以上娘の心配をしたくないという気持ちも、
これ以上娘が産む子どもを引き受けたくないという気持ちも分かるが、
それで両親に決定権が与えられるというものでもないし、
中絶が解決策だとも思わない。

Moeの治療薬と胎児への影響の問題は、薬を減らす、またはやめればよい、
Moeも両親も子どもを育てられないなら養子に出すことが最善だろう。

Mary Moeがまた妊娠するようなことは確かに本人の最善の利益ではない。
Moe自身の意思が不明なまま胎児を殺すことは胎児の最善の利益ではない。
このケースには考えるべきことが多々あるが、
その解決策を強制不妊や本人同意のない妊娠中絶に求めるべきではない。

Sterilization, forced abortion are never the answer, bioethicist says
MSNBC, January 20, 2012


ちなみに、去年の秋に世界医師会から以下のような見解が出されています。
(それまでの当ブログの関連エントリーもこの中にリンクしました)

世界医師会が「強制不妊は医療の誤用。医療倫理違反、人権侵害」(2011/9/12)

一方、続報を追い切れていませんが、
去年、英国でも以下のような裁判がありました ↓
英国で知的障害女性に強制不妊手術か、保護裁判所が今日にも判決(2011/2/15)


英国の裁判のことを考えてみても、
Mary Moeさんの事件で私が一番気になるのは
当初の裁判を起こしたのが州の保健当局だという点――。

NC州のように過去の反省、謝罪と被害者への補償に向かう動きがある一方で、

米国のAshley事件、オーストラリアのAngela事件などを振り返ると
知的障害児・者への強制不妊手術には、一種、政治的と呼びたいような
過去への回帰の動きがあるのでは?

その動きには、どこか、
世界中に野火のように広がっていく「死の自己決定権」運動に似た
大きな政治的な意図が匂っているような気がする。

そういえばマサチューセッツ州といえばハーバード大学を擁し、
科学とテクノで簡単解決バンザイ文化の強いところでもある。

ワシントン州にゲイツ財団とつながりの深いワシントン大学があるように。


【NC州の補償問題関連エントリー】
NC州で、かつての強制不妊事業の犠牲者への補償に向け知事命令(2011/3/21)
NC州の強制不妊事業の犠牲者への補償調査委員会から中間報告書(2011/8/15)

2011年12月10日の補遺

ノース・カロライナ州の1933-1977年の優生施策の推定7600人への補償問題。人数ではヴァージニアやカリフォルニアの方が多いが、ソーシャルワーカーにまで選別の権限を与えたのはNC州のみ。犠牲者の多くは貧困層やマイノリティの若い女性や知的障害者。
http://www.nytimes.com/2011/12/10/us/redress-weighed-for-forced-sterilizations-in-north-carolina.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha23


2012.01.25 / Top↑
The Medical Journal of AustraliaでJulian Savulescuが
医師のconscientious objection(良心的医療拒否:個人的思想信条による医療拒否)は
「危険な道徳的相対主義」であり、現代医学には無用、と主張。

それに対して、アデレイドの小児科医 Brian Conwayが
医師に良心的医療拒否の権利を尊重することは
医療における権力の濫用や過誤、搾取へのセーフガードであり、
医師と患者の関係の主要なセーフガードである、と反論しているらしい。

論争は中絶をテーマにしたものと思われ、

Savulescuは
「良心的医療拒否が正当化されるのは
患者を害してはならないという立場と捉えるからだが、
何が患者の害で何が利益かということを決めるのは
誰かの目にそう見えるからということではなく
しっかりと道徳的に正当化された最善の利益と道徳的地位の概念に
基づいた判断でなければならない」と述べつつ、

その「道徳的地位」をどのように決定するのかについては
議論していない、という。

Conwayは
良心的医療拒否を認めなければ医師はただの技術者になり下がってしまう、
患者の自己決定が全てになってしまうじゃないか、
じゃぁ医師の自己決定・自律(autonomy)はどうなるんだ、と。

Oxford ethicist attacks conscientious objection
BioEdge, November 25, 2011


なんとなく……なんだけど、

Savulescuが言っているのは
Conwayが言っているような
「患者の選択が全て」だから「医者は患者の選択の通りにしろ」ということではない、
……んじゃないのかなぁ。

たぶん、Savulescuが言っているのは
現代医学では本当のところ患者にも医師にも自己決定権なんてない、
全てを決定づけるのは患者の“道徳的地位”と、
それに基づいて判断された患者の“最善の利益”のみ、
……ということなんじゃないのかなぁ。

じゃぁ、それらを一体だれが、どのように「しっかりと道徳的に正当化」するのか、
……というのが私にはすごく疑問なところなんだけど、

たぶん、そこは「我々功利主義の生命倫理学者が」とでも?

「重い障害や病気がある胎児には道徳的地位なんて、ない」
「だから生まれてくる前に殺すことが本人の最善の利益」ついでに
「大声じゃ言えないけど、その方が社会的コストもかからないし」と
SavulescuやSingerみたいな学者がスタンダードを決めたら、
それに基づいて現代医療は粛々と行われるべきであって、

そこには
患者の自己決定権も医師の自己決定権も必要ない、ってことでは?

で、もちろん
そういう「現代医療」のスタンダードは実は中絶だけの話ではなくて、

生まれてきた新生児にも、
人生途上で病気や障害を負った人にも、
老いて死に近づいていく人にも
当てはめられていく……ってことでは?


でも、よ、
じゃぁ、あんたの、その
「現代医療は最善の利益と道徳的地位判断で決まる」という前提そのものは
一体いつ、どこで、誰によって、どのように「しっかりと道徳的に正当化」されたの?



【Savulescu関連エントリー】
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
Savulescuが今度は「“無益な治療”論なんてマヤカシやめて配給医療に」(2011/9/15)

【Savulescuによる「臓器提供安楽死」提言関連エントリー】
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)

「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」とSavulescuの相方が(2011/3/2)


Savulescuの師匠、Peter Singerの「障害児には道徳的地位はない」論については、
以下のエントリーの末尾にリンク一覧を設けました ↓
P.シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)

それに対するDick Sobseyの反論がこちら ↓
Sobsey氏、「知的障害児に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)
2011.11.30 / Top↑
原発反対運動の一部から出てきている「障害児を産まないために」という声について

3月29日の補遺でtu_ta9さんの掲示板を拾って、
次のように書いて以来、ずっと頭に引っかかったまま、うまく考えをまとめられずにいる。

tu_ta9さんが原発事故に関連して「障害児を産みたくない」というような言説について興味深い掲示板的エントリーを立ち上げている。: そのやりとりで出ている「癌のリスクを言うのはよくて障害リスクを言うのはいけないというのも差別的ではないか」という指摘を、グルグル考えている。反論する理屈が見いだせないまま、ふっと頭が飛躍して、そのうち出生前遺伝子診断で発がんリスクの高い胚は障害リスクの高い胚と同じようにはじかれていく時代 がくるかもしれない……みたいなことを、先に考えてしまった。
http://tu-ta.at.webry.info/201103/article_12.html




この問題について
8月10日にSOSHIRENがアジア女性資料センターと共催で
以下のおしゃべり会を開いている。

8/10おしゃべり会 脱原発! どう考える?
「母だから」「子どもに障害が……」

おしゃべり会では最初に
福島原発事故の後おおしばよしこさんらが原発の危険性を訴えるために制作した
アニメーション「みえないばくだん」を鑑賞。

「みえないばくだん」のYouTubeはこちら(約10分)

その後のおしゃべり会の内容から印象に残った部分を、
最新号のSOSHIRENニュース(9月29日発行NO.298)から以下に。

そもそも、障害の負のイメージは真実でしょうか。脱原発運動は「原発は安全」を疑って、神話だと見抜きました。「障害は不幸」「障害はあってはならない」も、疑ってみるべきだと思います。いつの時代にも障害児は生まれるし、生まれてからの障害もゼロにはならない。でもそれは、汚染物質やウィルスで傷ついても生き延びる、人間の適応力、生命力ではないでしょうか。私はむしろ希望だと思います。
脱原発の言説に障害者差別の意図がなくても、原発の怖さを障害児の出生で表現することは、結果として差別を深める恐れがあることを知ってほしい、またそうならない方法を考えたい。障害者について、実際に障害をもち暮らす人についての情報、障害者が生きやすい状況をどうやってつくるかという情報が発信されるといいと思います。実際の障害者は泣き続けてはいません。
米津知子さん(SOSHIREN)



私が反発を覚える「お母さんだから」というのは、「母だから」と言っている当のお母さんたちではなく、それを利用してレッテル貼りをしている周りの存在に違和感があるんだと思います。
母親を持ち上げるマスコミや脱原発の人は、自分の想定内の母親像だと耳を貸しますが、そのステレオタイプから外れると急に否定的な評価をします。子どもを守る美しい母というイメージと、わがまま、感情的、難しいことは分からないというネガティブなイメージとは鏡の両面です。
大橋由香子さん(SOSHIREN)



タンポポ舎も「お母さんにもよく分かる放射能講座」を提案している。お母さんはそんなバカなのか。お父さんは何をやっているのかと言いたくなるくらい意識が20年前と変わらない。中山千夏さんが「原発推進派はみんな男、反対派も男、女はみんなお母さん」と書いていたが、男の運動はお母さんを利用している。
会場からの発言



支援活動と共に当時者運動に詳しい男性保護者の方と話をしているときに「不当に健康被害を受けないために」と言われ、自分でも腑に落ちた。
(中略)
子どもの生存に関して、行政が責任をとらず社会が関心を払わないという根本的な問題があり、今回保護者(とくに女性)が「子どもを守る」役割を無理やり担わされているのだなと思った。
(中略)
いま、必要なことは対話だと思う。表面上対立しているように見える意見でも、よくよく話していったら根本は「生きる価値がない人なんていない」「何かを押し付けられることが嫌だ」という思いで共通しているかもしれない。
そうして最低限共有して、弱者にしわ寄せがこない社会の仕組みをつくっていきたい。
疋田香澄さん(子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク福島支援部門)





この中で語られている「"母"が利用されている」ということ、
利用されているだけだから「都合のよいステレオタイプに当てはまらないと
即座に否定の対象になる」ということが

「にもかかわらず明るく生きる姿に勇気をもらいました、ありがとう」などの言葉に象徴されるように、
メディアがそのように描き、世の中が暗黙のうちに障害児・者と家族に求めている
「社会のオアシス」役割のステレオタイプと、その鏡の表裏として、
権利を要求するや一転して叩かれる障害者。

Ashley事件、Katie事件、Angela事件などで繰り返された
「どんな苦労もいとわず、ここまでしても子を家でケアしようとする美しい親の愛」ステレオタイプと
それを批判するや、叩きに利用された「それをイデオロギーで邪魔立てする障害者運動」ステレオタイプ。

さらにいえば、臓器移植医療や生殖補助医療の分野の医師らばかりが
「苦悩する患者」にやたらと共感的であること、

その一方で
脳卒中の後遺症や重い障害に「苦悩する患者」の「苦悩」は
医療の世界から世論に向かって共感を大きな声で説かれることがないまま
そうした患者の命や生活を支えるリハビリテーションが切り捨てられ、
十分に支えることが可能な医療介入までが「無駄な延命」であるかのように
メディアに言いなされていくことにも、

これは通じていく構図なのだと思う。

強い者が強い側の利益をゴリ押ししていくために
利用するのが「美しい愛」という情緒のマジックであるならば、

それに対して弱い者の立場で異議を申し立てていく時には
いかにそれが魅力的で即効あらたかに思える戦術であったとしても、
それが問題を摩り替え、問題のありかを不分明にしてしまう手口である以上、
易々と手を出さない節度を持つこと。

その単純な分かりやすさ、伝わりやすさに安易に飛びつくのではなく、

そこにある、複雑でいろいろと絡まり合った問題のありかに
苦労して分け入り、手間をかけてあれとこれとを丁寧に選り分けて
それぞれの所在をきっちりと整理する努力が必要なのだろう、と思う。

そうした努力から出てきたのが
ここでは「不当な健康被害を受けないために」という表現なのだろうし、

コトの本質を突いて問題のありかを分明にする表現というものは
たぶん、いつだって、こんなふうに余分な湿り気を寄せ付けず、
さらりとシンプルに爽やかなんだなぁ……とも。
2011.10.12 / Top↑