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アイダホ州で、患者が望んでいるのに生命維持治療を拒んではならぬ、とする法律が成立。施行は7月。同州は数年前にテキサス式の無益な治療法が検討されたとかで、180度の転向、とお馴染みPopeのブログ。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2012/04/idaho-anti-futility-bill-signed-into.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed:+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29

モンタナ州でも同様の法案が最終段階。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2012/04/medical-futility-legislation-in.html

オランダ、ベルギー、安楽死合法化からの10年に関するAFPとNYTの記事。
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5jZJ7kXmP0L34l21urHoaIdc0eGDA?docId=CNG.b65a2b9d79cf8dda95db655c6811305f.a1
http://www.nytimes.com/2012/04/03/health/push-for-the-right-to-die-grows-in-the-netherlands.html?_r=2&ref=health

豪の自殺幇助合法化議論で、合法化支持派が自己決定権を論拠にしていることに対して、プレッシャーを受ける立場にある人々に本当の意味での自発的自己決定なんてありうるのか、とお馴染みの反論。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10010#When:05:53:03Z

英国、卵子ドナーへの支払い上限をこれまでの250ドルから750ドルへ。明日から。:HFEAは09年からそういうことを言っていたし。⇒生殖補助医療の“卵子不足”解消のため「ドナーに金銭支払いを」と英HFEA(2009/7/27)
http://www.dailymail.co.uk/health/article-2123023/Five-fold-jump-IVF-donors-payment-eggs-rises-750.html

ピーター・シンガーに、中絶も乳児殺しも安楽死も禁じられているイスラム教徒のジャーナリストが挑む。:読んでいません。読んだ方によると「すれ違い方が興味深い」とか。
http://www.salem-news.com/articles/april062012/singer-pete-kz.php
2012.04.09 / Top↑
どういういきさつだったのか覚えていないけれど、
ずっと前にインターネットで原作の一部の、
脳解剖学者である著者が37歳の時に自宅で脳卒中を発症し、
自分でそれと分かりながら、思うようにならない身体と思考の中で
試行錯誤を重ね、苦労して、なんとか外部に助けを求めるまでの下りを
興味深く読んだことがあり、

書店で翻訳が文庫になっているのを見た時に
「お、あれだ!」と買ってきた。

「奇跡の脳 ―脳科学者の脳が壊れたとき―」
ジル・ボルト・テイラー、竹内薫訳 新潮文庫

興味深かったのは、なんといっても、
それまで左脳の力を駆使して医学会でエリートとして生きてきた著者が
脳卒中で左脳の能力を失った時に、それを喪失として嘆くのではなく、
むしろ右脳(感性)的な生き方に魅力を見いだしていること。

それを表現する著者の言葉のいくつかが、当ブログで
「科学とテクノの簡単解決文化」の価値意識に疑問を呈しつつ、
それに対置する価値意識について考えてきた際に用いてきた言葉とほとんど同じであること。

それを、科学とテクノの最先端にいた科学者が
脳卒中の体験を経て、考え書いているということが、とても興味深い。
例えば以下のような個所。

私は左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。……(略)……
……何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然の中をぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身したのです。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できるものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい。
(p.94-95)


左脳は「やる」の世界。右脳は「いる」の世界――。

……わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insight)は、こう言えるでしょう。
「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい。
(p.176)

わたしがすごく大切だと思ったのは、感情が身体にどのような影響を与えるか、ということ。喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。平和も、からだの中の感覚でした。
(p.195:ゴチック部分、原文は傍点。以下同様)

……脳卒中の前は、自分なんて脳がつくり出した「結果」に過ぎず、どのように感じ、何を考えるかについては、ほとんど口出しできないんだと信じ込んでいました。出血が起きてからは、心の目が開かれ、両耳の間で起こることについて、実際にはいろいろと選べることがわかってきました。
(p.198)


それから、もう一つ興味深いと思ったのは、
著者が福岡伸一さんの「動的平衡」と同じことを言っていること。

「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている! わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間の中で振動する原子と分子でできているわけですから。言語中枢の中にある自我の中枢は、自己を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。
……(中略)……わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界の中の、流体でいっぱいになった嚢として存在しています。
(p.96-97)

……自分が流れていると感じるのが好きでした。魂が宇宙と一つであり、まわりの全てのものと一緒の流れの中にいることを感じることが好きでした。エネルギーの動きやボディ・ランゲージと同調できることに魅力を感じていました。しかし、その中でもとりわけ、わたしの存在の根底から溢れる、深い内なる安らぎを感じるのが好きだったのです。
(p.121)


こういう体験を経て、左脳の機能が回復してきた頃に著者が考えたことは

……左脳はクソ真面目なのです。歯ぎしりしながら、過去に学んだことに基づいて決断を下します。一線を越えることなく、あらゆる事を「正しい・間違っている」、あるいは「良い・悪い」で判断します。あ、それから、その判断はわたしの場合眉の形に現れるんですよ。
右脳はとにかく、現在の瞬間の豊かさしか気にしません。それは人生と、自分にかかわるすべての人たち、そしてあらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい。右脳は満ち足りて情け深く、慈しみ深いうえ、いつまでも楽天的。右脳の人格にとっては、良い・悪い・正しい・間違いといった判断はありません。
これを右脳マインドと呼ぶことにしましょう。ですから右脳マインドでは、あらゆることが相対的な繋がりの中にあるのです。ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認めます。
(p.226)


そして、タイラーさんは、とても東洋的な宗教的境地に至る。

左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。この回路はいつでも機能しており、いつでも繋げることができます。
安らぎの感覚は、現在の瞬間に起こる何かです。それは過去を反映したものや、未来を投影するものではありません。内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、という気になること。
(p.261)

左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。右脳マインドは、わたしの存在の神髄は、永遠だと実感しています。
(p.262-263)


翻訳がまた、とても良かった。
2012.04.09 / Top↑
Bill PeaceとClair Royの2人がブログでAshley療法復活について書いた。:やっと。なんか相談でもしてたのかな。初動を外して同じタイミングで。Peaceはいつも長いのですぐに読む気になれず、Royさんの方を少しだけ。今回は論争にすらならない、怒る人がいない、「もう止めようがない」という諦め。嘆き。それでも抑えきれない憤り。by way of deception and word play……
http://badcripple.blogspot.jp/2012/04/growth-attenuation-cultural-mess.html http://saynoga.blogspot.jp/2012/04/growth-attenuation-my-final-word.html

生命倫理の議論でいかに文言が恣意的に、戦略的に選択されているか。自殺幇助では、CA州、OR, WA州の「自殺」の選択からC&Cによる「選択」へ :半分くらいしか読めてないけど、面白そう。
http://www.thehastingscenter.org/Bioethicsforum/Post.aspx?id=5806&blogid=140 

アイダホに続き、オクラホマでも無益な治療の一方的な停止や差し控えに歯止めをかける法案が通過しているらしい。:無益な治療論では揺り戻しの動きも起きているとみていいんだろうか。PASの方はイケイケドンドンになってきた観もあるんだけど。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2012/04/oklahoma-anti-futility-legislation.html 

インドの小児科医らから「ポリオ撲滅は不可能だと最初から分かっていたのに、偽りの希望を掻き立てて貧しい国に10年間も余計な出費をさせたWHOとゲイツ財団のキャンペーンは非倫理的」との批判。インドではお陰様で11年に天然ポリオの患者はいなくなったものの、non-polio acute flaccid paralysis(NPAFP)が急増していて、ポリオと同じマヒを起こすけど致死率は倍。しかもUttar PradeshとBiharと、ゲイツ財団がワクチン普及に力を入れて沢山打った地域での発症が目立っている。(ちなみにBiharってな、ゲイツ夫妻が「養子」にした村)。そもそもワクチン助成という名目で国際社会からの支援金で強引に始められたワクチン施策を、そのまま続行していくために自国政府は、もらったカネの100倍もの支出を強いられるんだ、と。
http://pharmabiz.com/NewsDetails.aspx?aid=68352&sid=1

同じ批判がエリトリアのフリー・ジャーナリストからも出ている(マラリアのワクチン耐性の話もここ)
公衆衛生でマラリア死8割減のエリトリアから「製薬会社株主ビル・ゲイツのワクチン開発」批判

【ゲイツ夫妻とビハール州との結びつき関連エントリー】
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60574592.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60574483.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63077457.html

タイ・ビルマ国境付近で、マラリアに強力な治療薬への耐性が見られ、世界的に広がると撲滅には痛手だ、と珍しくガーディアンがこんな記事を。:一連の話題と併せて気になる。まだちゃんと読めないけど。ガーディアンが取り上げているということは、「だからマラリア撲滅のための資金をもっと」という流れ?
http://www.guardian.co.uk/society/2012/apr/05/malaria-drug-artemisinin-lose-potency?CMP=EMCNEWEML1355

こちらは、1年間に渡って数種類の薬を併用することでマラリアは30%カットできる、という研究結果。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/243725.php

【関連エントリー】
「熱帯病撲滅」で、ゲイツ財団の元に英米政府、世銀、ビッグファーマ13社が結集(2012/2/1)


ガンも変異して抗がん剤に耐性をつけていく。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/243753.php

ゲノム読解が1000ドル程度で誰でもできるようになるという予測をめぐって、あれこれの記事が多いけど、これは双子をめぐる研究から、ゲノム読解でできるのは予測まで、との結果。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/243758.php

個人ゲノム読解について、病気予防だって大したことない、という見方も。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/243758.php

胎児期に向精神薬にさらされると、neuromotor の検査スコアが低くなる・・・って、タイトルだけで流してスミマセンけど、運動能力が低くなるってことですか?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/243798.php

ハリケーン・カトリーナの後に、武器を持ってもいない黒人男性を警官らが射殺して、それを仲間内で隠ぺいした事件で、警官5人に実刑。http://www.guardian.co.uk/world/2012/apr/04/new-orleans-police-officers-katrina?CMP=EMCNEWEML1355


以下、重症重複障害のある人の自立生活支援について

野崎泰伸「支援における代理表象の倫理――ある知的障害者の自立生活を支える取り組みから」
http://www.arsvi.com/2000/0510ny2.htm

青葉園・のまネット西宮 清水明彦「地域自立生活と地域生活移行の課題と展開」:去年の講演パワポ。この人の講演、20年前に聞いた。まだ「軽そうな兄ちゃん」だったけど、その兄ちゃんの言うことがイチイチ響いた。その後、見学に行きたいね、という話も身近な親の間で出たことがあったけど、それっきりになった。あのまま20年たったんだなぁ……。
http://saka-ue.cside.com/j/sadato/10/100704-2_2_shimizu.pdf
2012.04.09 / Top↑
この件に関するUPIの記事と、
その記事を受けてWesley Smithが書いているブログ記事。


UPIの記事を読んでみると、

「ドイツでは現在、安楽死は違法ではあるものの
死に瀕した患者が死にたいと望んでいると確信があるなら
医師はその患者に自殺の手段を提供することができる」と書いてあるので、

今回の行政裁判所の判決とは

現在、連邦医療会議が自殺幇助を禁じていて、
違反した医師には6600ドル程度の罰金まで規定していることについて、

判事が too general (漠然とし過ぎ?)と判断して、それを無効とし、
医師個々の判断に任せる、とした、ということのようにも読めます。

この医療会議の禁止の周辺については、以下のエントリーに ↓

ドイツ医師会、自殺幇助に関するルール緩和し、判断を個々の医師にゆだねる(2011/2/20)
ドイツ連邦医療会議、自殺幇助禁止を確認(2011/7/3)


ただ、ドイツの自殺幇助議論については、
かつては終末期医療の差し控えを認めたニュースを
英語圏メディアがこぞって自殺幇助合法化と報じたこともあったりして
イマイチ信用できない面もある。(詳細は後半に)

そういうこともあってかどうか、
Smithもドイツの司法制度が分からないから解釈に困ると言いつつ、
どういう形であれ、ドイツで自殺幇助合法化に向けて新たなドアが開かれた、
ということ、とのみ捉えている。

また、UPIによると、
ドイツには自殺幇助の専門家の判事というのがいるらしく、その人が
「現在ドイツで起こっている“自殺ツーリズム”を止めるための第一歩」と喜んでいる。

実際、スイスのDignitasで自殺している外国人は
ドイツ人がダントツに多いのは確か。 ↓

Dignitasでの自殺者、ドイツ人は500人(2009/9/24)


しかし、余所の国に自殺しに行く人が多いから
それに歯止めをかけるために自分の国で自殺させましょう、とは
一体それはどういう話だ? とSmithは書いている。

German doctors can assist terminally ill
UPI, April 4, 2012

German Judge Opens Assisted Suicide Door
Secondhand Smoke, April 4, 2012


ど―――――も、私には
ドイツでの自殺幇助合法化をめぐる英語圏のメディアの報道は怪しい、と思えてならない。

前にも、以下のニュースを英語圏メディアが一斉に
「ドイツ最高裁が自殺幇助を合法化!」と騒がしく報じたことがあった。

ドイツ最高裁が本人意思なら延命治療停止は合法との判断(2010/6/25)


上のエントリーの末尾にも書いていますが、
その後、APは当初の報道が誤っていたことを認めましたが
その姿勢は全く誠実なものではありませんでした。
2012.04.09 / Top↑
日本。「終末期の医療における患者の意思の尊重に対する法律案(仮称)」に対する日本弁護士連合会会長の声明
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120404_3.html

米国最大のPAS合法化ロビーC&C、6月28日に全国カンファ。セッションの一つにGrowing Local Support: Learning How to Coordinate Campaigns in Your State―A Case Study というのがある。うまく行った事例から学んで、それぞれ自分の州でキャンペーン成功させましょうぜい。もう1つ目についたセッションは、How a Bill Becomes a Law and Other Ways We Achieve Victory。法案を法にしてきた我々の勝利の方程式。我々の――。
http://community.compassionandchoices.org/page.aspx?pid=1037

NHI資金による鶏インフル研究に関するNature とScienceに掲載予定の論文に、人体にリスクのあるミュータント・ウイルスが作成されており、米国政府からバイオ・テロリズムに悪用される恐れがあるとして昨年末、一部の内容にストップがかかり物議を醸していたのだけれど、全文が掲載されることに。
http://www.npr.org/blogs/health/2012/03/30/149716286/scientific-journals-plan-to-publish-contentious-bird-flu-research?ft=1&f=1007

上記論争を受け、今後の公的資金による研究リスクに新たなガイドライン。鶏インフルのウイルス、炭素菌、エボラ菌など、特に危険度の高い15の毒物等を扱う研究には特別の検討を必要とするもの。
http://www.npr.org/2012/03/30/149664035/policy-on-high-risk-biological-research-tightened?ft=1&f=1128

環境ホルモンBPAの食品に触れる場所での使用を禁じるよう求めたthe National Resource Defense Councilの要請を、米国FDAが却下。
http://www.npr.org/blogs/thesalt/2012/03/30/149683556/feds-to-decide-on-banning-bpa-from-food-and-other-products?ft=1&f=1128

【関連エントリー】
大統領がんパネルが「化学物質はやっぱりヤバい」(米)(2010/5/10)


米国で加齢による男性ホルモンの現象を検査するよう薦めるテレビ・コマーシャルがあるらしい。:これには加齢男性性腺機能低下症(LOH症候群)という「病名」がすでにあります。 ⇒「老い」は自己責任で予防すべき「病気」であり「異常」であるらしい(2009/9/21)
http://www.slate.com/articles/health_and_science/medical_examiner/2012/04/lowt_ads_is_testosterone_testing_important_.single.html#comments

遺伝子診断で自分が将来かかる可能性のある病気が分かっても、マイナーな病気で研究があまり行われていない場合に、カネとリソースさえあれば、do-it-yourself 臨床実験をコーディネイトすることは可能。:これ読んで、Ashleyの父親がやっているのも、国先的な規模でのdo-it-yourself “アシュリー療法”臨床実験と言えるかもしれない、と。
http://blogs.wsj.com/health/2012/03/30/when-medicine-really-gets-personal-the-diy-clinical-trial/?mod=WSJBlog&utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed:+wsj/health/feed+%28WSJ.com:+Health+Blog%29&utm_content=Google+Reader

ProPublicaが死後の検死の実態の調査報道で、また何かの賞をとっている。
http://www.propublica.org/atpropublica/item/propublica-investigation-wins-ire-award

たぶん、去年12月22日の補遺で拾った、この記事 ↓

PruPublica。ナーシング・ホームを中心に、高齢者が死亡した際に医師が遺体を見ることすらなしに自然死として死亡診断書を書き、虐待や劣悪な介護によるネグレクト、時には殺人までが闇に葬られている米国の実態。 調査によると死亡診断書の半数で死因が間違っていたり、アーカンソー州で自然死とされた6遺体を掘り起こしてみたら、4人が窒息死、2人は医療過誤だっ た、ということも。葬儀屋が痣だらけで肋骨が何本も折れた遺体に気づいて通報したケースでは死因が「アルツハイマー病で衰弱」となっていたり(このケース では施設職員に足蹴にされて折れた肋骨が肺に刺さって死亡していた)。:診断書を書く医師にも「まぁ、どうせ施設入所の高齢者」意識があり、検死官側にも 「ただでさえ忙しいのに、これ以上高齢者の解剖を持って来られたくない」意識があり、総じて社会全体に高齢者差別が。私たちが向かっていこうとしていの も、こういう空気の中で「それはそれ」「これはこれ」で「死の自己決定権」が喧伝される社会。そのうち「施設に入ったら職員に殴り殺されて、闇に葬られる から、それよりも自殺幇助を」という理屈になっていくのかしら。Ashley療法の子宮摘出の正当化の1つは「施設入所することになったらレイプされるか ら、その時に妊娠しないように」だった。
http://www.propublica.org/article/gone-without-a-case-suspicious-elder-deaths-rarely-investigated

ProPublicaには18日にも、この先触れみたいな記事があった ↓
米国で解剖件数が減って、それが医療過誤の隠ぺいに。ProPublica.
http://www.propublica.org/article/without-autopsies-hospitals-bury-their-mistakes

英国では、こういう調査報告が出ている ↓
検死官が近親者による自殺幇助は見て見ぬフリ(英)(2011/8/25)


米海兵隊第1陣 豪に駐留開始。:中国にらみ……。インドもにらみ……。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120404/t10014212271000.html
2012.04.09 / Top↑
コロンビア大の倫理学者Robert Klitzmanの
「私とは私の遺伝子なのか?」と題した論考。

遺伝子診断で個人の全ゲノムを読解する検査料金は
近く1000ドル程度にまで下がる見通しで、

既に患者のゲノム読解に取り掛かっている病院もある。

数年のうちには、好む好まざるを問わず、
多くの人がゲノムから自分にはどういう変異があるかを知ることになるだろう。

これまで検査を受けた人の中には
「自分は死ぬのだ」という意識にとらわれたり、
神の意図をそこに読み取ろうとする傾向が見られる。

遺伝子によってすべてが決まるという宿命論は、
では人間の自由意志には意味はないのか、という問題をはらむ。

我々は単に遺伝子と環境要因の副産物でしかないのか。
それとも自らの自由意志によってのみ支配される存在なのか。

科学者らは遺伝子診断を、
これまでの医学検査と同じように考えているが、

我々はまだ、
遺伝子診断がもたらす、こうしたジレンマに立ち向かうことができていない。

興味深いのは、
遺伝子診断で乳がんの遺伝子変異が見つかった女性の言葉で
「生まれて初めて、自分に宗教心があったらよかったのに、と思うわ。
宗教があったら、もっと楽だったのに、と思うの」

Am I My Genes?
By Robert Klitzman
Psychology Today, April 2, 2012


米国医学会新聞にも、この話題の記事ありました ↓
http://www.ama-assn.org/amednews/2012/04/02/hll20402.htm

もう一つ、Scientific Americanの記事で、
「実際のところ、ゲノム読解によって本当に病気が予防できるのか?」
http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=whole-genome-sequencing-predict-disease


2012.04.09 / Top↑
The National Audit of Dementia (全国認知症調査)は、医療の質向上を目指して集まった英国精神医学会などの職能団体が共同で2008年にスタートした事業である。2009年には一般病院(general hospital)における認知症の人々へのケアの質を調査するための評価基準をNICE(医療技術評価機構)のガイドラインなどを参照しつつ作成し、2010年3月から翌年4月まで調査を実施。英国で初めての調査だという。2011年12月に報告書”Report of the National Audit of Dementia Care in General Hospitals 2011”が発表されたので、要約から概要を紹介する。

調査の主眼は、以下の2点。
① ケアする能力の測定:認知症の人のケア・ニーズを把握し、それに応えるための病院の体制と資源の実態。
② ケアの質の測定:認知症の人が病院で一定レベルのケアを受けているエビデンスを収集・把握する。

調査は、病院レベルでの「中心調査」と病棟レベルでの「補足調査」の2層で構成。
具体的な方法は、病院レベルでは①認知症ケア方針など病院の体制に関する総合的なチェック・リストと②認知症患者40人の症例に関する資料。病棟レベルでは①ケア体制に関するチェック・リスト、②認知症の人に影響する物理的環境のチェック・リスト、③病棟スタッフへのアンケートによる意識調査、④それぞれの支援とケアに関する介護者と認知症の人へのアンケート調査、⑤病棟での観察。
中心調査の評価基準は①基本レベル、②期待されるレベル、③意欲的レベルの3タイプ。①基本レベルの最高点は、ケア体制で20/21点、症例情報の調査では14/28点だった。
全体の傾向としては、病院によりバラつきが大きく、また病院の総合的な体制と病棟でのケアの質とには相関はほとんど見られなかった。病院に認知症ケアの方針やケア・パスがあることは必ずしも現場のケアの質を反映しないということだ。
例えば栄養状態のアセスメントは全国的には7割の患者で実施されているが、病院ごとに見ると3%から100%とバラつき幅が大きい。患者の機能や精神状態、環境その他のアセスメントも、病院としては実施の方針が定められている割合が高い一方で、症例情報を見ると実際はさほど行われていないなど、病院方針と現場の実態のズレが目立った。
多くの病院が連携チーム(リエゾン・チーム)による専門的な精神医療が受けられる体制を謳い、実際にその体制を整備している。しかし、個別症例では夜間や週末の対応不足や退院以降に向けた支援サービスの不備が見受けられ、一般病院における精神医療と退院後に向けた支援体制の軽視が透けて見える。
慣れない病院環境で暮らすことになる患者を本人中心にケアするためには、必要な情報を家族や友人知人から聴取しスタッフ間で共有する仕組みが必要だが、どの病院でも病棟でも不十分で、本来なら避けられるはずの不穏や向精神薬処方に繋がっている可能性がある。スタッフ全員に認知症に関する意識向上研修を義務付けている病院は5%。認知症患者をケアするためのスキルアップ研修を用意している病院は23%。認知症ケアの研修・知識を十分に積んでいると感じるスタッフは32%。
99%の病院が最低限の人員配置確保に努力しているが、現場では認知症患者のニーズを満たすには人が足りないと感じているスタッフが3分の2を超える。また認知症ケアに当たるスタッフへの支援と指導の仕組みがある病院も少ない。
ベッドから時計が見える、色のコントラストにより掲示が見えやすく工夫されているなど病棟環境への配慮も、できている病院は項目ごとに概ね半数程度しかなく、改善が望まれる。
現場の観察から明らかになった実態も深刻だ。病棟は認知症にやさしい居住空間ではなく、騒音や慌ただしい人の気配から逃れることのできる空間が全くない。スタッフから関心を向けられることも少なく、活動も刺激もない病棟で患者は退屈している。病院の方針には本人中心ケアのアプローチが謳われていても、病棟にはそうした文化自体が存在せず、患者と接する姿勢は事務的である、など、多くの問題点が浮き彫りになっている。
日本の総合病院も認知症ケアに無関心ではいられない事情は同じだろう。学ぶところの多い報告書ではないだろうか。

「世界の介護と医療の情報を読む」69
「介護保険情報」2012年3月号
2012.04.09 / Top↑
HPVワクチン導入後の評価(語る時の注意)。感染症の専門家、青木眞さんの「感染症診療の原則」ブログの4月1日の記事。深刻な副作用被害は余り報告されていない、効果は10年以上経たないと分からないけど、欧米からはいくつか効果があったとの調査報告が出始めている。しかし「このような発表は今後たくさんでてくるとおもいますが、研究者らと製薬会社のファイナンシャルな関係があるかどうかは解釈する際の注意事項のひとつです」男児に、という声が出ていることについて「先進国ではもともと子宮頸がんの数自体が少なく、健診だけでかなりの数を減らしているので、高額なワクチンを全員に提供すべきかについては医療者からも疑問の声がたくさん出ています。(他にお金を必要としている事は山のようにあるからです)」:日本の「ワクチン産業ビジョンの要点」の怪(2011/3/8)で引用させていただいた方。その時は、日本には接種者の登録制度がないので、効果の検証ができないと指摘されていました。
http://blog.goo.ne.jp/idconsult/e/f80f8a786c633ccd349991edfb6e1031

ゲイツ財団がナイジェリアとガーナでヤム芋の農業支援に1200万ドルのグラント。:コメントはみんなで大絶賛なんだけど、これもまたGM農業改革の一環だとしたら、歓迎すべきことかどうか。というか、ゲイツ財団の慈善はそんなに単純な善意じゃない。
http://www.vanguardngr.com/2012/04/gates-gives-12m-grant-to-boost-yam-production/ 

日本。新生児マス・スクリーニングが各地で拡大されています 「ムコネットTwinkle Days いのち輝ける毎日」ブログの4月3日の記事。「4月から、新生児マススクリーニングを従来の6疾患から19疾患へと拡大したことを発表した自治体が多くあります」
http://muconet-t.jugem.jp/?eid=948118

【関連エントリー】
新生児スクリーニング、去年から24の病気に(WA州)(2009/12/19)
新生児スクリーニングは「精神遅滞のような重大な問題や死」を防ぎ「これからの世代を助ける」ため(2009/12/19)

BMI(脳とコンピューターをつなぐ技術)でALSの患者さんのコミュニケーションを可能とするNeuroVigilという会社のiBrainという装置がNYTの記事に。タイトルは A Little Device That’s Trying to Read Your Thoughts.

認知症高齢者への抗精神病薬に心臓発作のリスク。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/243651.php

CA州オークランドの大学で銃乱射事件。7人死亡。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/apr/02/oakland-shootings-gunman-opened-fire-california?CMP=EMCNEWEML1355

介護現場で民族学研究 準教授辞め特養職員の沼津・女性が本出版:これ、面白い。民俗学に関心を持つ人が介護の現場に入ることを期待している。ただ最後の「民俗学に関心を持つ人が介護の現場に入ることを期待」というのには、ちょっと戸惑う。
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120403/CK2012040302000204.h
2012.04.09 / Top↑
3月30日のこちらのエントリーにいただいた、
コメントのいくつかの流れがあり、その最後にhiromitiさんの
「せずにいられない」という言葉があったことから、
紀野一義「私の歎異抄」を思い出したので、
読んだ当時に手書きで書きうつした「読書ノート」から。


……何かをするのでも「ただ何々をする」。念仏を称えたら極楽へ行けるとか行けないとかいうことは問題にしておらぬ。念仏を称えたらどこへ行くやらわからぬ。わからなくてよい。要するに「ただ称える」のである。誰かのためにするとか、人類のためにする、とか、そういうめんどうくさいものではない。ただ親切にする。ただ愛する。風が吹くようにただただ行くのである。
もっとも、このただ称えるというのは、うしろにもう一つある。ただやりさえすればよいというのではない。やらずにおられぬということがかくれている。これが「ただ」の恐ろしさである。背後からその者におこなわしめるものがいる。促すものといってもよい。親切にせずにおられないから親切にする。愛さずにおれないから愛する。どういうことがあっても止まらぬ力。誰かが止めても止まらぬ力。どんなになってもせずにおれない力が、背後からいやおうなしに迫ってくる。その時に「ただ」という世界が始まる。
(p 52, 53).


……「自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」というが、実は外から来る力によってひるがえさしめられるのである。自分で自力のこころをひるがえすことなどできはせぬ。ひるがえったとしても、適当なところで妥協して、ひるがえしたような気になるだけではないのか。
 追い詰められ、恥を曝し、もはや自分で自分をどうしていいかわからぬところまでいってはじめて、自力のこころはひるがえるのである。自力のこころがひるがえらぬうちは、お念仏は出ぬのである。
(p.79,80)

(私は「リハビリの夜」を読んだ時に、ここを思い出した)


……やはり長い間、侘びさせられるという世界があり、手を合わせられる宿業があり、命をあずけられる師があってはじめて感謝のお念仏が出るのである。
(p.86)



同じく、紀野一義「『般若心経』を読む」 講談社現代新書

 自由などというものは、不自由に血の涙を流した人間だけが本当にそのありがたさを知るのである。たとえ分かったとしても、自由も、不自由も問題にしない「自在」のあることを知るわけがない。
 自在ということを本当に知っているのは、菩薩だけだと思う。
(p.71,72)


 おてんとさんは天に輝き、地に輝く。おてんとさんのような人生を歩きたいと、私は思う。
 どんなことをしたって、なくなりもしない減りもしない、この大生命の世界を、おてんとさんのように生きていく、いや、生かされていくとしたら、受・想・行・識にとらわれることもなく、眼・耳・鼻・舌・身・意にとらわれることもない。そうなれば、色・声・香・味・触・法にとらわれることもなく、眼界から意識界にいたるまで、まるっきりとらわれるということがなくなる。
 あるのはただ、「在る、在る」であり、「はっきり、はっきり」である。何が、どう、ではなく、ただ在るのであり、ただはっきり、はっきりなのである。そこに人間の分別思量の入り込む余地がない。ただ在るものが在り、はっきりしているだけのことである。
(p.154,155)


……仏様にうながされ、そのうながしのままに行動して、それがちゃんと道にかなっているという生き方をしたいと思う。そういう生き方を、「行もなく、行の尽きるところもなし」というのである。
(p.184)


実際に、こんな生き方ができる人間はたぶんいないだろうとは思うけれど、

そういう生き方をしたいと、せめて願いつつ日々を生きていくことで、
あるいは、時にこうした清々しい言葉に触れることによって、
少しでも清潔な生き方ができるのではないか、と

そのことを、せめて願ってみる。

そして

「科学とテクノの簡単解決文化」と、
その根っこにある能力偏重・操作主義とが一番欠いていて、
一番、そこから学ぶべきものがあるのも、
こうした日本のおおどかな宗教や哲学なのでは……と考えてみる。


【関連エントリー】
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
2012.04.09 / Top↑
米CA州で自殺幇助容疑でElizabeth Barrett(65)を逮捕。他にも報道多数。ヨーグルト殺人だかヨーグルト事件だか言われているので何かと思ったら、致死薬をヨーグルトに混ぜて飲ませた事件。弁護士は「死ぬような薬とは女性は知らなかった」。
http://abcnews.go.com/US/wireStory/calif-woman-65-charged-assisting-suicide-16022660#.T3VGa9mFByI

ミシガン大学が、死亡宣告した瞬間から心肺装置を作動させて血液を循環させて摘出までの臓器を新鮮に保つ新たなDCDプロトコルを作ったことで、デッド・ドナー・ルールめぐる議論が再燃。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10002

アイダホ州で、患者の同意なしに治療を差し控えることを禁じる反「無益な治療」法案、上下院を通過。
http://medicalfutility.blogspot.jp/2012/03/idaho-anti-futility-bill-passes-house.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed:+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29

Lancetが社説で「終末期医療はなおざりにされている。研修もっと必要」と。
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2812%2960490-5/fulltext?elsca1=ETOC-LANCET&elsca2=email&elsca3=Other

豪ヴィクトリア州の委員会報告が、生殖補助医療の精子ドナー情報の公開を義務付け提言。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10004

英国政府、再生医療に7500万ポンドを投入し、新たな方針打ちたてて邁進。
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2812%2960493-0/fulltext?elsca1=ETOC-LANCET&elsca2=email&elsca3=Other

ビル・ゲイツがジンバブエとかエチオピアへ行って「ワクチンを始め医療改革なかなか頑張っておる。誉めてつかわす」と、ゼニをバラまいてる。
http://allafrica.com/stories/201203300500.html http://allafrica.com/stories/201203300496.html

Physicians for Human Rightsって組織があるらしい。
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2812%2960499-1/fulltext?elsca1=ETOC-LANCET&elsca2=email&elsca3=Other
2012.04.09 / Top↑
③ Scott Mathewsのケース

1996年のNY、アルバニーのGH在住の重症重複障害者。当時28歳。

何度も脱水、栄養不良尾、感染、肺炎を起こして入院し、体重も非常に少ないことから、医師とGH側が胃ろう造設を検討するも、法定代理人である両親が抵抗し、裁判へ。

トライアルでは両親の訴えが却下されたが
NY上訴裁判所は口から食べることも可能とする医師の判断を受け入れ、
逆転判決を言い渡した。

本人が意思決定能力を欠いている以上
スコットの体重と健康状態を慎重にモニターしつつ、
本人の最善の利益判断を元に法定代理人の良心の決定が尊重されるべき、との立場。

これに対して、障害者運動は「法廷の友」としての意見書を出した。

最重要とすべきは本人の命の保障であり、
認められないなら障害者には医療の平等が保証されないことになるとして、
餓死のリスクがあるのに両親の決定権が尊重される生命倫理の論理を疑問視した。

一方の生命倫理では、
両親の立場を代弁した法学者のDale Mooreを始め、
その他の医療をめぐる意思決定と同様に
代理決定とリスク対利益の比較考量の問題と捉える。


考察

これら3つの事件について考察しつつウ―レットが繰り返しているのは
全てのケースに当てはめられる解決などない、ということ。

Maryのケースが訴えているのは自己決定できることの重要さ。

その一方で、McAfeeのケースでは自己決定が重視されたあまり、
彼が訴えていたのが実はICUから出て暮らしたいという希望だということが
理解されなかった。

Scottのケースでは
ウ―レットはまず障害者運動側が医療の主張の側に立ったことに注目し、
胃ろうが介護負担軽減策として濫用されている事実に警告を発し、
認知症コミュニティからは口から食べることの重視が訴えられている事実を指摘する。

ウ―レットの結論は、

障害者の医療をめぐっては
障害者の側から出てきたものであれ、その逆であれ、
そこにあらゆるケースに当てはまるルールを求める姿勢には問題がある、ということ。


【「生命倫理と障害」関連エントリー】
Alicia Ouelletteの新刊「生命倫理と障害:障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)
Ouelletteの「生命倫理と障害」:G事件と“無益な治療”論について(2011/12/17)ここから3本。
Ouellette「生命倫理と障害」:人工内耳と“Ashley療法”について(2011/12/19)ここから2本。
Ouellette「生命倫理と障害」第5章:「アリソン・ラッパーの像」(2012/1/17)ここから3本。

Ouellette「生命倫理と障害」第6章 成年期: Maryのケース(2012/3/31)
Ouellette「生命倫理と障害」第6章 成年期:Larry McAfeeのケース(2012/3/31)
2012.04.09 / Top↑
② Larry McAfeeのケース

1984年に登山中の事故で呼吸器依存の全身麻痺状態となる。
その後5年間、ナーシング施設を転々とした後に
GA州89年にアトランタの病院に。

そのICUで3カ月過ごした後に、弁護士を呼び、
死にたいので呼吸器を止めてほしいと望んだ。
Fulton最高裁に請願書を提出。

判事は本人のベッドサイドで事情聴取を行い、
本人が何度も方法を工夫して自殺を試みたことを聞く。
家族も、州検察側が選任した医師も本人の決定を支持。

トライアル審は意思決定能力のある成人として本人の治療拒否の決定を認めた一方、
呼吸器停止の際に鎮静剤を打つことを医療職には求められないとしたが
上訴を受けた最高裁は、停止の際に苦しまなくてもよい権利は
望まない医療を受けなくてもよい権利の中に含まれる、と判断した。

これに対して、Paul Longmoreら障害者自立生活運動からは
法廷では語られることがなかった事実が明かされた。

1986年にMcAfeeはアトランタのアパートで自立生活を始め、
改造した車を運転して買い物に行ったり映画やバスケの試合にも出かけていたというのだ。

いずれはコンピューター・エンジニアとして仕事も、と希望を持っていたのに、
両親の保険契約が切れたことから彼はナーシングホームに入ることを余儀なくされた。

しかも受け入れてくれたのは
友人・家族のいるアトランタから遠いクリーブランドの施設だった。

高齢者ばかりの施設で、ネグレクトに等しいケア。

他に移りたいと希望すれば、あちこちをたらい回しにされた挙句に
急性期の病人でもないのに病院のICUでの暮らしを余儀なくされた。
彼が死にたいと望んだのは、そのICUでのことだったのだ。

その4年間に、自立生活を送れる支援さえあれば、
彼が死にたいと望むことはなかった。

実際米国には15000人の障害者が
人工呼吸器を使いながら病院から出て暮らしている。

McAfee訴訟は
Elizabeth Bouvia事件やDavid Rivlin事件と並べて
死の自己決定権の文脈で論じられるが、

個人の医療拒否の問題ではなく、
医師も判事も一般国民もが共有する重症障害のある生は生きるに値しないとの価値観、
すなわち社会の側にある障害バイアスの問題、と主張。

Longmoreは
「こんな自由はフィクションに過ぎない。偽物の自己決定。
選択というレトリックが強制の現実を隠ぺいしている」と。


この後、ウ―レットが解説している
生命倫理学でのMcAfee事件への反応またはその変遷は非常に興味深い。

まず、
大御所 Beauchamp とChildressは09年の著書Principles of Bioethicsで
McAfee事件を「正当化された医師による自殺幇助」の事例として取り上げ、
彼は裁判所にまで行かずとも医師の判断で死なされて然りだったと説いた。

ところが興味深いことに、その後の改訂版(PASをより深く正当化する)からは
何の説明もなく、この事件は姿を消した。

さらに最新版では2人は障害者運動の言い分に一定の理解を示し、
多様な支援を整備することの必要を認めつつ、
しかし最後の手段としてPASを認めるべきだと主張している。

次に最も社会的文脈を重視する生命倫理学者として
ウ―レットが言及するのが Art Caplan。

Caplanはメディケアの財源を連邦政府に一元化し安定的なものとすることで
州によって障害者が受けられる支援のばらつきを解消すべきだと主張しつつも、
McAfee訴訟での裁判所の判断自体は問題としない。

非常に興味深いのは
障害者らからの批判を受けて、
この事件に対する考えを変える倫理学者も出てきていること。

Howard Brodyは、
この事件で裁判所の判断を支持したことを謝罪する文書を出した。
Brodyはまた、ほぼ同じ内容だったRivlin事件で書いたことについても
考えを翻して、以下のように書いている。

I am now embarrassed to realize how limited was the basis on which I made my decisions about David Rivlin. In hindsight, it has been very well documented that there was no medical need for Rivlin to be effectively incarcerated in a nursing home. If Rivlin had been given access to a reasonable amount of community resources, of the sort that other persons with disabilities were making use of at the time, he could have been moved out of the nursing home and probably could have had his own apartment. …(中略)… The reasons he gave for wanting to die were precisely how boring and meaningless life was for him.
There’s every reason to believe in hindsight that David Rivlin died unnecessarily, ……(以下略)

David Rivlinについて自分の考えを決める際にいかに限られた情報を根拠にしていたかを知り、今の私は恥じている。改めて振り返ってみれば、Rivlinがナーシング・ホームに閉じ込められていなければならない医療上の必要などどこにもなかったことは文書で明らか。当時ほかの障害者らが利用できていた地域サービスがRivlinにも使えていたならば、彼はナーシングホームを出て自分自身のアパートに住むことができた可能性がある。……死にたい理由として挙げたのは、まさに生活が退屈で無意味だということだったのだ。
いま振り返れば、David Rivlinはどう考えても死ぬ必要はなかったのだとしか思えない。

しかし、もちろんBrodyのような倫理学者はマイノリティだ、とウ―レット。
2012.04.09 / Top↑
ウ―レットが成年期の問題を扱う第6章の導入部で取り上げるのは
事故で中途障害を負って全身麻痺となり、死ぬまでの9年間ずっと
再び歩けるようになる治療法の開発に全てをかけた
スーパーマン俳優のクリストファー・リーヴ。

「歩道の段差をなくしたり、車いすを改良することには興味はない」と語り、
あくまでも経って歩けるようになることにこだわったリーヴは
障害者運動との間に溝が深かった。

リーヴについてはこちらに日本語で詳しい。

ウ―レットは障害者運動のMary JohnsonとMichael Schwartzからの批判を引きつつ、
成人期になって中途障害を負った人にはありがちな姿勢であるとも述べて、

障害の体験は人により、障害を負った時期や障害像や
その他多くの要因によって多様である、として、

この章では3人のケースを取り上げる。


① Maryのケース

知的障害を伴わない重症脳性マヒで
子どもの頃から30年間施設で暮らしてきた48歳女性。
コミュニケーションは文字盤で可能。
家族がおらず日々のケアが手配できないため
知的能力に問題がないと分かった後もグループホームに。

グループホームでの定期健診の際に、
浣腸か内視鏡検査を命じられて、本人が拒否。
受けさせようとするGHの管理者と本人意思を尊重する家庭医とが対立したが
最終的にはGH側が本人意思を尊重することで決着した。

Maryには自己決定能力があることが明白なので
障害者の権利運動も、生命倫理の側も、事件の顛末に問題を感じない。


(次のエントリーに続きます)
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