前のエントリー「ない」研究は「ない」ことが見えないだけという科学のカラクリ?を書いているうちに、
頭に引っかかっていながら、どうしても言葉にできず、
ずうっと、もどかしかったAshley療法論争の問題点が
ふっと言葉になったような気がする。
ずうっと、もどかしかったAshley療法論争の問題点が
ふっと言葉になったような気がする。
あの論争の間、私にとって、たいそう苛立たしかったのは
多くの人が「語られること」だけに目を奪われてしまって
「語られていないこと」の存在に気付こうとしなかったこと。
多くの人が「語られること」だけに目を奪われてしまって
「語られていないこと」の存在に気付こうとしなかったこと。
Diekema医師が饒舌に「語る」言葉だけに引きずられ、そればかりを追いかけて
彼が「語らない」ことに耳を済ませることをしなかったこと。
彼が「語らない」ことに耳を済ませることをしなかったこと。
そうして「語られたこと」だけが事実なのだと信じた人たちは、
Ashleyのような子どもたちのことに詳しく直接体験があるために気付くことができる人たちが
「ある」のに「ない」ことにされているものの存在(欠落)を指摘しても、
自分の目には見えないというだけで
または、もはや見たいものだけを見たいというだけの理由から、
それを信じようとしなかったこと。
Ashleyのような子どもたちのことに詳しく直接体験があるために気付くことができる人たちが
「ある」のに「ない」ことにされているものの存在(欠落)を指摘しても、
自分の目には見えないというだけで
または、もはや見たいものだけを見たいというだけの理由から、
それを信じようとしなかったこと。
そうして、「ある」から「見えやすい」し「分かりやすい」情報だけで
多くの人があの事件を理解しようとしたために
多くの人があの事件を理解しようとしたために
どういう情報が「ない」のか、つまり「隠されている」のか
それはなぜ「ない」のか、なぜ「隠されなければならなかったのか」が不問に付されてしまったこと。
それはなぜ「ない」のか、なぜ「隠されなければならなかったのか」が不問に付されてしまったこと。
コトの本質は「ない」から「見えない」情報にこそ隠されているというのは
Ashley事件に限らないのだろうけれど。
Ashley事件に限らないのだろうけれど。
2008.11.07 / Top↑
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