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以下は、文系頭がごく大雑把に考えることなので、
部分的には「違うよ」ということも沢山あるとは思いますが、
ずっと疑問に思っていることなので、
とりあえず、その素朴な疑問のままに──。


科学者がAとBの相関を調査・研究するという時には
AとBの間には相関関係があるはずだという仮説をまず立てるのだろうけれど、

AとBの相関を調べると決めた段階で、その科学者は同時に、
Aに対して実は無限に存在するB以外の組み合わせを無視したことになるわけだから、

そのことを踏まえたうえで考えれば、
仮にAとBとの間に相関が見られたとしても
それ以外の組み合わせも関与している可能性は当然あるのだし
一定の制約と条件のもので見られた相関に過ぎないのだから
それは、あくまで1つの可能性であって、それ以上でも以下でもないとするのが
科学的な理解の仕方というか、正しい解釈の姿勢というものなんじゃないんだろうか。

だから、「科学者がAとBの間には相関が見られたと言っている」と報道されたとしても
それは「AがBを決める。これぞ科学が証明した真実!」ということではないし、
仮にメディアがそういうトーンで騒いだとしても、
ちょっと距離を置いて「ふ~ん」くらいに受け止めておくくらいで
ちょうどいいんじゃないか、と。

例えば、ワトソン博士が「知能と人種」の間に相関があるはずだという仮説を立て
仮に「相関があった」という、どこかの「研究結果」を持ち出したとしても、
ワトソン博士はその仮説を立てた時点で、
「知能と背の高さ」とか
「知能と若ハゲ」
「知能と好みの色」
「知能と1日の排便回数」などなど
その他に数限りなくある組み合わせを無視したことになるのだという事実と共に
その研究結果は受け止めたほうがよいものなんじゃないかという気がして、

さらに、もしかしたら
「人種によって知能レベルに違いがある」という仮説やどこかの研究結果の信憑性よりも、
ワトソン博士はなぜそんな仮説を立ててみたかったのだろう、ということの方に
考えるべき興味深い問題があるのかもしれないし、

なぜ、そっちの方が興味深い問題なのかということは
私には科学的に証明することなど出来なくて
もう、「だって洞察ってそういうことでしょう」みたいな
雲か霞みたいな掴みどころのないことでも言って誤魔化すしかなくなるのだけど。


それに、
介護にロボットを使って人手を節約する研究は進んでも、
例えば、人間の看護師が手を握ってあげていた患者と
「患者の手を取り励ます人造の手ロボット」を利用した患者とでは
痛みに耐えられる度合いや回復の度合いが違うのかどうかを調べる研究というのは、
ないか、あっても非常に少ないだろうと思われるのは、

きっと商売になる研究には投資する企業があるけど、
商売にならない研究、または商売に都合の悪い結果が出そうな研究には
誰もお金を出さないからだろうし、

……といったことは
本当はゴロゴロしているのだけど、
「ある」ものの情報しか出てこないから、
ただ単に「ない」ものは見えにくくて
特定の研究だけが「ある」のだということが分かりにくくなっているだけなのかもしれず。

だから、多分、いわゆる科学的な研究や調査の結果というものが報道される時には、
そういう背景というか、カラクリというか、いろいろ雑多な可能性も念頭に
「ある」ものの陰で何が「ない」のか
それは何故「ない」のかということにも、ちょっと気を回して
ただ「ある」から「見える」だけの研究結果に踊らされないように
気をつけた方がいいんじゃないのかなぁ。

違うかなぁ……。
2008.11.07 / Top↑
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