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ずっと前に
現代思想でロボット工学の山海嘉之氏と生命倫理学者の松原洋子氏が対談しているよと、
人から教えてもらった時に、

読んでみる前に思ったのは
「なんで、そこに介護の現場の人を加えないのかなぁ」ということで、
「三好春樹とかが加わったら面白そうなのになぁ」
と具体的な名前まで頭に浮かんだ。

ただ三好春樹氏の書き物を集中的に読んだ時期は
もうずいぶん前のことになってしまって、
「身体だけをみる医療はじいさんばあさんをあっという間に寝たきりにする、
じいさんばあさんを元気にするのは関係性をみる介護の力だ」
ということをいろんな角度から強烈に主張している人だという程度の
漠然とした理解しか残っていないのが情けなかった。

そしたら先週読んだ本の中に
たまたま三好春樹氏が書いた「ブリコラージュとしてのケア」という文章が入っていて、

その中にはやっぱり
ロボットで介護現場が助かるはずだという発想に覚える違和感に
ぴったり来る文章があった。

かつて施設で「寮母さん」と呼ばれていたのは
専門的な教育を受けてもいないし意識が高くもない無資格の近所の主婦で
でも、彼女たちは差別用語同然の言葉を使いながら優れた介護をしていたと三好氏は言う。
言葉が意味ではなく、その人が向き合う姿勢を口調のうちに伝える介護現場の関係性と
そういう優れた介護者の1人Wさんの姿を描いた後で、

医療やリハビリのような人体を相手にする世界なら私のようなタイプが求められ、Wさんは資格すらもらえないだろう。しかし介護は違う。人体ではなく人間を相手にする。人生を相手にする。そこにはWさんのような資質は不可欠だ。

……現場は老人を研究対象として観察しているわけではないし、老人も客観的に存在しているのでもない。関わる人によって言うことも精神状態も多様に変わる関係的な存在なのだ。なにしろ、今夜の夜勤は誰かによって老人が変わるのだから。

ブリコラージュというのは
工業化社会の画一的な大量生産の方法に対して
未開や原始社会の生産方法としてレヴィ・ストロースが提出した「手づくり」仕事。

ブリコラージュはサイエンスにはなりえない。しかし、アートにはなりうる(大橋保夫訳、『野生の思想』、1976、みすず書房)」ということばは、介護のあり方の方向性を示している。

        ―――――――

うちの娘も、例えば
食事を食べさせてくれる相手によって露骨に態度を変える。

「業務」として「食事介助」に入って機械的に口に詰め込んでくる人と、
「食事」を食べさせてくれる人とを彼女は見事にはっきり見極めて
前者の相手には何も期待せず、
余計なことはせず、言わず、相手のペースに合わせて黙々と飲み込みを続ける。
(相手は娘が自分のペースに合わせてくれているとは夢にも気付かないけれども)

相手が声をかけ自分と関わりながら「食事」をさせてくれる人であれば、
やれ「そのおかずはイヤだ」の「もう一回ゴハンがいい」だのとワガママを言う。
お茶を飲む時にボコボコ吹いてふざけては
「こら、またミウちゃんがっ」とわざと叱られてみたりもする。
自分には相当に甘い相手だと読むと、
言葉もないくせに「おむすびが食べたい」と我を張って、
ついにおむすびを作らせたというエピソードもある。

一生懸命に食べさせてくれている相手のエプロンに
こっそり手を伸ばして紐の結び目をほどき、
いたずらを仕掛けてニマニマしていることもある。

栄養とカロリーが確実に摂取されるのは
せっせと口に詰め込んでは機械的に飲み込ませる前者の人の介助かもしれないけれども
どちらが娘の身体と心をより元気にするか、どちらがより養分となるかといえば
もちろん後者の人の介助による食事に決まっている。

そんな食事介助をするのが“介護現場に革命を起こす便利な”ロボットだったら、
娘の方があっという間にロボットのような無表情になってしまうに違いない。
2008.10.02 / Top↑
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