まず、
法が大きな枠組みを決め、個別の解釈・適用についてはヒト受精・胚機構が判断を担うという
過去20年間の生殖補助医療とヒト胚の研究利用規制について、
このように急速に変化する時代に柔軟な対応を可能とする優れたやり方である、と
評価した上で、しかしながら法律の中には時代にそぐわなくなった部分もあると指摘。
特にBMAの関心がある改正法案のポイントとして
ES細胞研究、胚診断、認可された治療へのアクセスの3つの問題を挙げています。
法が大きな枠組みを決め、個別の解釈・適用についてはヒト受精・胚機構が判断を担うという
過去20年間の生殖補助医療とヒト胚の研究利用規制について、
このように急速に変化する時代に柔軟な対応を可能とする優れたやり方である、と
評価した上で、しかしながら法律の中には時代にそぐわなくなった部分もあると指摘。
特にBMAの関心がある改正法案のポイントとして
ES細胞研究、胚診断、認可された治療へのアクセスの3つの問題を挙げています。
以下、項目ごとにまとめてみます。
ここで気になるのは、ES細胞研究の成果としてあげられていることと、
そこに滲んでいる意識。
そこに滲んでいる意識。
「IVF(体外受精)の技術そのものも、その後の成功率やその他の生殖補助技術も、
70、80年代のES細胞研究がなければありえなかった」ことに次いで
以下のように書かれています。
70、80年代のES細胞研究がなければありえなかった」ことに次いで
以下のように書かれています。
ES細胞研究は遺伝病の理解を高め、90年代初頭に英国の研究者が特定の疾患について非常に早期に胚を診断する技術を開発することに繋がった。着床前診断(PGD)と呼ばれるこのテクニックにより、それらの病気を持った子どもが生まれるリスクの高い家族に何千もの健康な子どもが生まれてきた。
病気についての理解が高まると、治療技術が向上するのではなく、
その病気を持った人間を排除する技術が向上するわけですね。
その病気を持った人間を排除する技術が向上するわけですね。
着床前遺伝子診断
着床前遺伝子診断を求めるのは嚢胞性線維症やデュシェンヌ型筋ジストロフィーなど特定の遺伝病の子どもが生まれるリスクの高い夫婦である。BMAはこの目的での胚診断を支持し、深刻な病気のリスクが大きい場合のみPGDの使用を認めることに同意する。またこの節の文言が緩やかな(broad)ものとなっており、必ずしも出生時に発現していないもの(遅れて症状が出るハンチントン病)も、確実ではないが発病する確率が高いもの(家系的な乳がんと大腸がんのnon-gully penetrantな症状)も含まれることを歓迎するものである。
癌の遺伝子をもった胚を排除することも認めているわけで、
今後は新たな病気の遺伝子が特定されていくにつれ、
「重大な病気」に含められる対象も増えていくことでしょう。
BMAは、兄弟の病状が命を脅すものであったり深刻であり、この技術が最善の選択肢であるすべてのケースにおいて着床全遺伝子診断の使用を支持する。
こう書いた後で、主要な懸念として
ドナーになるべく選別されて生まれてくる子どもが
自分の生い立ちから心理的な害を被る可能性を指摘して見せているのですが、
例えば「おそらくは他の子どもと同じように愛されるであろうが」という前置きや、
生い立ちによって兄弟ほど愛されていない、尊重されないと感じる可能性を「仮想的な害」と称し、
病気の兄弟が苦しんだり死んだりする「リアルな害」と対置して
救済者兄弟を正当化することなどに、
私はうさんくさいものを感じてしまう。
ドナーになるべく選別されて生まれてくる子どもが
自分の生い立ちから心理的な害を被る可能性を指摘して見せているのですが、
例えば「おそらくは他の子どもと同じように愛されるであろうが」という前置きや、
生い立ちによって兄弟ほど愛されていない、尊重されないと感じる可能性を「仮想的な害」と称し、
病気の兄弟が苦しんだり死んだりする「リアルな害」と対置して
救済者兄弟を正当化することなどに、
私はうさんくさいものを感じてしまう。
「仮想的な害」だというならば、そんな仮想で態度を決めるよりも、
救済者兄弟にされた子どもが受ける心理的な影響についてまず予見なく詳細な調査を行い、
その結果が出るまで態度を保留するというのが真に科学的な態度ではないのでしょうか???
救済者兄弟にされた子どもが受ける心理的な影響についてまず予見なく詳細な調査を行い、
その結果が出るまで態度を保留するというのが真に科学的な態度ではないのでしょうか???
これはBMA見解に書いてあるわけではありませんが、
シアトル子ども病院生命倫理カンファのPentz講演で紹介されていた
救済者兄弟の倫理問題の正当化の論理というのは、
「他の家族の利益または家族全体の利益」 vs 「本人の害」
などと、利益だけを家族に拡大して比較するというムチャな話で、
Pentzも特に子どもには拒否することが出来ないという点を問題視していました。
シアトル子ども病院生命倫理カンファのPentz講演で紹介されていた
救済者兄弟の倫理問題の正当化の論理というのは、
「他の家族の利益または家族全体の利益」 vs 「本人の害」
などと、利益だけを家族に拡大して比較するというムチャな話で、
Pentzも特に子どもには拒否することが出来ないという点を問題視していました。
BMAの見解はテクノロジーの利用と胚の選別は主として苦しみと損傷(impairment)を軽減する目的で行われるべきものとする。したがって、例えば親と同じ障害を持つ子どもを欲しがるケースのように、重度の障害、病気や健康問題のある子どもが生まれる確率を上げる目的で胚を選別することを禁じる14(4)(9)(10)節をBMAは支持する。
口蓋裂のような軽微な障害であっても体の変形がある胎児は中絶が認められていることを思えば、
「健康問題」まで含まれていることも気になるところです。
「健康問題」まで含まれていることも気になるところです。
それにテクノロジーと胚の選別の目的を「苦しみと損傷の軽減」だとする表現も、
上記の着床前遺伝子診断の項目にあった「ゆるやかな文言」を歓迎する姿勢そのもので、
これでは今後の解釈次第でなんだってアリになるのでは?
上記の着床前遺伝子診断の項目にあった「ゆるやかな文言」を歓迎する姿勢そのもので、
これでは今後の解釈次第でなんだってアリになるのでは?
レズビアンの夫婦に生殖補助医療を認めるために
「父親の必要」という法律の文言を
「支援的な子育て(supportive parenting)の必要」に変えようとする政府案に対して、
そういうのは一括に規制できるものではなくケース・バイ・ケースでしか判断できないとの
立場を表明しているのですが、
「父親の必要」という法律の文言を
「支援的な子育て(supportive parenting)の必要」に変えようとする政府案に対して、
そういうのは一括に規制できるものではなくケース・バイ・ケースでしか判断できないとの
立場を表明しているのですが、
その主張を導き出すために基本姿勢として提示されている
「生殖を補助する医療者は将来の子どもが予見可能な重大な害を被ることがないよう
保証する責任がある。
これは治療が提供されるとの前提に立つべきことを意味する。
子どもの将来の幸福が危ぶまれるという確かなエビデンスがある場合には
医療者はその治療を認めてはならない」という見解。
「生殖を補助する医療者は将来の子どもが予見可能な重大な害を被ることがないよう
保証する責任がある。
これは治療が提供されるとの前提に立つべきことを意味する。
子どもの将来の幸福が危ぶまれるという確かなエビデンスがある場合には
医療者はその治療を認めてはならない」という見解。
この見解そのものはレズビアンの夫婦への技術提供の問題を超えて、
広く生殖補助医療に関するBMAの倫理基準と思われますが、
これは例えばイリノイの上訴裁判所が知的障害女性の不妊手術を却下した論理の
ちょうど逆になっています。
広く生殖補助医療に関するBMAの倫理基準と思われますが、
これは例えばイリノイの上訴裁判所が知的障害女性の不妊手術を却下した論理の
ちょうど逆になっています。
社会として子どもを守るというスタンスで考えれば、
まず提供するという前提に立った上で明白な害のあるケースだけ拒むというのは
またえらく消極的なセーフガードではないのか。
まず提供するという前提に立った上で明白な害のあるケースだけ拒むというのは
またえらく消極的なセーフガードではないのか。
子どもに利益があるとのエビデンスがあり、
子どもに害がないことが明白なエビデンスによって証明されてのみ、
初めて認められるというほどの強く厚いセーフガードでは、何故いけないのか。
子どもに害がないことが明白なエビデンスによって証明されてのみ、
初めて認められるというほどの強く厚いセーフガードでは、何故いけないのか。
その子どもが受ける害に対する守りの消極性が
救済者兄弟への害の捉え方の消極性にも現われているのでしょうが、
昨今の医薬品や最新テクノロジーにも感じることですが、
(リスクや副作用について十分な検証をせずに利点だけを喧伝して使われている、など)
あるべき姿勢としては、これは逆なんじゃないでしょうか。
救済者兄弟への害の捉え方の消極性にも現われているのでしょうが、
昨今の医薬品や最新テクノロジーにも感じることですが、
(リスクや副作用について十分な検証をせずに利点だけを喧伝して使われている、など)
あるべき姿勢としては、これは逆なんじゃないでしょうか。
害やリスクに対する守りの意識が薄いことを感じるたびに、
どんなに患者のためだとか本人の利益だといわれても、
所詮はこの法案の目的に謳われているように
技術競争を意識して医療者・科学者が「やりたい」だけで
患者をその資材扱いしているからなんじゃないの? と思ってしまう。
どんなに患者のためだとか本人の利益だといわれても、
所詮はこの法案の目的に謳われているように
技術競争を意識して医療者・科学者が「やりたい」だけで
患者をその資材扱いしているからなんじゃないの? と思ってしまう。
それにしても、この文書に見られる文言の言い替えの数々。
コトの本質を見えにくくする方向での言い替えばかりです。
それこそが、「やりたい」人たちが実は倫理的な問題を意識しているという
証拠なんじゃないでしょうか。
コトの本質を見えにくくする方向での言い替えばかりです。
それこそが、「やりたい」人たちが実は倫理的な問題を意識しているという
証拠なんじゃないでしょうか。
2008.05.14 / Top↑
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