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初めて「自死」という言葉を見たのは
もうずいぶん前に柳田邦夫の「サクリファイス」を読んだ時。

「サクリファイス」からはいろいろ深く考えさせられたのだけれど、
ちょっと引っかかりを覚えたのが「自死」という見慣れない言葉。
まぁ、その時は親の気持ちとして読み過ごした。

しかしその直後に、
同時期にこの本を読んだ友人と会った際に、
彼女が「自死」と何度も口にするのを聞いていると、
ものすごい違和感を覚えた。

親が「自殺」という陰惨で生々しい表現を避けたい気持ちは分からないでもない。
親にとっては我が子の人生はどの他人の人生とも違う特別なものと感じられただろうとも思う。
しかし、いくら柳田ファンで、この本に感銘を受けたとはいえ、
なぜ他人である私の友人までが
柳田邦夫の息子の自殺を「自殺」と言わないのだろう──?

せっかく熱く語っている彼女に水を差すようで遠慮したのだけれど、
あの時「あなたは何故『自殺』と言わないの?」と聞いてみればよかった……
というのがずっと頭に残った。

次に「自死」という言葉を頻繁に目にしたのは江藤淳が自殺した時。
追悼の文章を書いた多くの人たちはこぞって「自死」と書いた。
この時の「自死」には
江藤氏ほどの知性も教養も持たない一般人の「自殺」とはモノが違うのだという
明確なメッセージがこめられているようで、
「サクリファイス」の時とは比べ物にならない大きな抵抗感があった。

江藤氏の死をどのように解釈するかは一人ひとりの主観だから
無教養な一般人の自殺とはモノが違うと考える人がいても不思議はないし、
配偶者の死や自らの老いと直面した際の苦悩の仕方には
それぞれの人のそれまでの生き方や知性・教養によっても違いがあるというのは
一面では真実かもしれないとは思うのだけれど、
配偶者に先立たれる孤独や自分の老いに直面する苦悩そのものは
本質的には誰でも同じだということもまた一面の真実だと考えるので、

誰も彼もが江藤氏の自殺をよってたかって「自死」、「自死」と呼ばわるのは
人の死に勝手な格付けをする、なんだかずいぶん嫌らしい行為じゃないのか、と。

それ以来
いったい「自殺」と「自死」とはどう使い分けられているのだろう、
使い分けている人は自分の線引きをどのように自覚しているのだろう、
というのが私の疑問なのですが、

ここしばらくの間に何度か新聞の広告欄で目にして気になりながら
かといって、読むことにもちょっと抵抗を感じる……という本があって、
それは「自死という生き方」というタイトルの本。
哲学者の自殺に至る生き方を書いた本らしいのですが、

この本の広告を目にするたびに最近頭に思い浮かぶのは
オレゴン州の尊厳死法によって死んだ多くは
(それが可能なだけ富裕な)白人高齢がん患者であるという話。

これから「自死」という言葉は広まっていくのかもしれないなぁ……。

【追記】
「自死という生き方」を読まれた方の記事があったので、
トラックバックさせていただきました。
2008.03.24 / Top↑
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