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蘇生拒否の指示を明確にして養護学校に通っている超重症児Katie Jonesのケースと、
親に対してあがった非難の声について、これまで紹介してきました。

それらの批判に反論する声の中には、
事実誤認を正そうと蘇生拒否(DNR)の意味やDNRで起こりうる状況を説明するものや、
学校とKatieに関する情報提供もありますが、

そのほかに「日本では支援も意識もまだまだだなぁ……」と
考えさせられるコメントもいろいろあったので、
(私の認識が「まだまだ」なだけかもしれませんが)
その一部を抜粋・要約して以下に。

・誰にでも人と接したいという欲求はある。たとえわずかでも“普通”の暮らしをさせてやりたいと思う両親の気持は理解できるし、尊重してあげるべき。

・教育は特権(privilege)ではなく権利(right)。アメリカ障害者法(ADA)はすべての子どもたちに教育を保障し、障害者が他の人に嫌な思いをさせるからと家に閉じ込められることがないように、と書かれたもの。「トイレにも自分で行けない子だなんて、おおイヤだ」といったリアクションは一般にあるが、そういう人がいるからこそ、法律による介入が必要ともいえる。

・障害者教育法(IDEA)のもとでKatieにはニーズに応じて最も制約の少ない環境での無償教育が保障されており、両親が学校へ行かせるのはその保障の範囲。


もと公立普通小学校の先生だった人のコメントがとても印象的だったので、
長くなりますが、一部を省略して以下に訳してみます。

普通学級で重症の子どもを受け入れた経験がありますが、
こういう場合には必ず1対1でフルタイムの介助者がつきます。

具合が悪くなったらすぐに保健室に移しますが、もし亡くなった場合には、
もちろん他の子どもに知らせて皆でクラスメイトの死を悼みます。
交通事故などで亡くなった子どもの場合と全く同じです。

“ノーマルな”子どもたちがそのために先生に放っておかれるということはないし、
子どもたちには違いを受け入れられるようになるという機会になります。
ちょうど、あなた方の反対ですね。

障害のある子どもたちの姿を知ることは、
この国の“ノーマルな”子どもたちを理解と共感の持てる大人へと成長させてくれることなのです。

脳性まひも他の障害もとても多様な現われ方をします。
身障が非常に重くても知能は全く普通ということもあれば、その逆もあります。
体を全く動かすことができない子どもが私には解けない数学を解いて見せたり、
体は全く普通の人がアルファベットを覚えられなかったりするのが、低酸素脳症の世界です。

我々にはインプットとアウトプットとの関係を判断できる専門家ではないのだから、
せめて法を尊重しましょう。

法は、インプットとアウトプットのいずれの能力もできるだけ伸ばす権利を、
すべての子どもに認めています。

教室には様々なトラブルを抱えた子どもたちがいます。どのような解決があるでしょう?
こういう教育はなくしますか? 体のトラブルが表に現われた時に皆が嫌な思いをするから? 
それは、ちょっと違うのではないかと思うのです。

仮にKatieが普通学級に通っていたとしても、
食事介助が要る子どもの隣に自分の子どもが座らせられると
大騒ぎする親というのはどのクラスにも確かにいますが、
しかし大半の親は賢明で、
自分の子どもが障害のある子どもと接することには害よりも利点が大きいと理解してくれるものです。

学校関係者からのコメントが多かったことも
影響しているかもしれませんが、

ネット上でこうした論争が起きた時に
すぐに法律的な理念がこれほど丁寧に説かれるというのには
ちょっとびっくりしました。

その意味では
この論争で浮き彫りになっているのは
法律についての理解と、そこで保障される権利について意識が浸透している教育の世界と、
そこまで浸透していない世界とのギャップなのかもしれません。

このギャップは”Ashley療法”論争でも感じられました。
批判論文を何度も発表しているHank Bersaniが知的障害者の教育畑の人であることが
私にはとても象徴的に思えます。

英国のKatie Thorpeのケースでも
大きな疑問を感じてしまう点です。
2008.01.10 / Top↑
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