8月12日付でbigthink.comというサイトにアップされた
Peter Singerのインタビュー・ビデオを
お馴染みBad Crippleさんが見つけてブログに取り上げてくれています。
Bad Crippleさんが特に批判しているのは
二分脊椎を例に挙げて、
救命しても、何度も手術を受けることになるし、
いろいろな重症障害を負うだけだから、
親が救命を望まないことを当然だとしてシンガーは語っているが
二分脊椎の子どもは実際にはそれほど重症化する子ばかりじゃない、
その障害像をSingerは本当に分かっているのか、という点。
(Singerもトランスヒューマニストも、障害について無知すぎる、と私もいつも思う)
自分は障害像として二分脊椎に近いが、
誰も「この子は死ぬべきだ」とも言わなかったし、
自分を「重症障害者」だと思ったこともない、と。
それから、シンガーが障害者運動をmilitant (戦闘的)と形容していることについて、
(これ、militantなのはアンタだよ、と、たいていの人は思うと思うよ)
1999年にプリンストン大学がSingerを雇った際に
Not Dead Yetの人たちが自分の身体や車いすを大学のドアに縛り付けてまでピケを張り
警察によって排除される騒ぎがあったエピソードを語っていて、
あの時のことが頭にあるからmilitantなんて言うんだろう、と。
で、結論として、
シンガーは単なる危険人物ではないか、と。
Peter Singer: Moral Iconoclast or Just Dangerous
BAD CRIPPLE, August 18, 2010
問題のビデオはこちら。
(トランスクリプト全文がついています。)
で、私自身も聞いてみて、読んでみて、大声で笑い出してしまいそうだった。
だって、これ、ほとんどセコイ言い訳レベルなんだもの。
質問は「なぜ、あなたは、
病気の赤ん坊は安楽死させても許されると考えるのですか」
それに対してSingerの論理展開は、概ね、こんな感じ。
まず、とても単純な問題として、バカな……と思うのは、
ここでシンガーが、いかにも存在するがごとくに見せかけているジレンマは、
実は存在していない、ということ。
医師らから相談を受けた時点で、
「では、緩和ケアをしっかり」と答えれば済むことなのだから。
これは、つい先頃、
彼の弟子のSavulescuが臓器提供案楽死の正当化に使っていた
「延命治療の停止で安楽死を選ぶ人は脱水死の苦しみを味わうことになるけど、
臓器提供という方法で安楽死するなら麻酔をかけてもらえるから苦しくない」という
子どもだましみたいなバカバカしい屁理屈と全く同じ。
しかし、本当のマヤカシは、
そのジレンマのもう一段前の、もう少し見えにくいところにあって、
大統領生命倫理評議会の報告書でSchulmanがやっていたのと同じく、
答えを先取りして、既に前提に織り込んだ問いが立てられている、ということ。
問いの中で、既に答えが是認されてしまっている、というか。
インタビューで問われたのは
「病気の乳児の安楽死がなぜ許されると考えるのか」であるにもかかわらず、
Singerは
「親が救命しないと決定した子どもを
死ぬまでの長い間苦しむままに放置しておくことは倫理的であるか否か」
という問いが立てられているかのように装い、
その実、「親が救命しないと決定した子ども」の部分には
ちゃっかりと「一定の状態の子どもは死なせても構わない」という答えが織り込み済み。
つまりSingerはここで、
「安楽死の是非」ではなく、「望ましい安楽死の方法」の議論にすり替え、
「安楽死させる際に苦しめることは倫理的かどうか」という後者の問いに答えることによって、
安楽死そのものが倫理的だという前者の問いの結論を導いてみせるという
盗人猛々しい大マヤカシを演じている。
そんなバカな話があるか、と思う。
そんなの「人の財布を盗ることは許されるか」と問われて、
「目的は中の金なのに財布まで盗ることは許されるか」という問いにすり替えて、
「どうせ盗ると意思決定した以上、財布ごともって行っても同じだから、
他人の財布を盗ってもよい」と答えるようなものでは?
問われているのは、
「なぜ、二分脊椎の子どもなら救命しない決断が許されるのか」なんだよッ。
そういうところだけ頭が悪いフリ、するなよ。それとも本当に悪いのかよッ。
いや、悪いのは、頭はともかく、やっぱり人間性なのかもしれない。
だって、よくよく読むと、この人、
救命治療をせず赤ん坊が苦しんで死ぬのを見ている親と医師が消耗するから
さっさと安楽死させるのがいいと言っているのであって、
別に苦しむ赤ん坊がかわいそうだから、と言っているわけでもないみたいな……。
ちなみに日本の厚労省の研究班のサイトはこちら。
二分脊椎って何?
この最後のところに以下のように書かれている。
最後の2行、どうして次のように書けないかな。
【当ブログのSinger関連エントリー】
P.Singerの「知的障害者」、中身は?(2007/9/3)
Singerの“アシュリー療法”論評1(2007/9/4)
Singerの“アシュリー療法”論評2(2007/9/5)
Singerへのある母親の反論(2007/9/13)
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
認知障害カンファレンス巡り論評シリーズがスタート:初回はSinger批判(2008/12/17)
知的障害者における「尊厳」と「最善の利益」の違い議論(2008/12/18)
What Sorts のSinger 批判第2弾(2008/12/22)
「障害児については親に決定権を」とSinger講演(2008/12/26)
Singerが障害当事者の活動家に追悼エッセイ(2008/12/29)
Sobsey氏、「知的障害者に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)
Peter SingerがQOL指標に配給医療を導入せよ、と(2009/7/18)
Peter Singerのインタビュー・ビデオを
お馴染みBad Crippleさんが見つけてブログに取り上げてくれています。
Bad Crippleさんが特に批判しているのは
二分脊椎を例に挙げて、
救命しても、何度も手術を受けることになるし、
いろいろな重症障害を負うだけだから、
親が救命を望まないことを当然だとしてシンガーは語っているが
二分脊椎の子どもは実際にはそれほど重症化する子ばかりじゃない、
その障害像をSingerは本当に分かっているのか、という点。
(Singerもトランスヒューマニストも、障害について無知すぎる、と私もいつも思う)
自分は障害像として二分脊椎に近いが、
誰も「この子は死ぬべきだ」とも言わなかったし、
自分を「重症障害者」だと思ったこともない、と。
それから、シンガーが障害者運動をmilitant (戦闘的)と形容していることについて、
(これ、militantなのはアンタだよ、と、たいていの人は思うと思うよ)
1999年にプリンストン大学がSingerを雇った際に
Not Dead Yetの人たちが自分の身体や車いすを大学のドアに縛り付けてまでピケを張り
警察によって排除される騒ぎがあったエピソードを語っていて、
あの時のことが頭にあるからmilitantなんて言うんだろう、と。
で、結論として、
シンガーは単なる危険人物ではないか、と。
Peter Singer: Moral Iconoclast or Just Dangerous
BAD CRIPPLE, August 18, 2010
問題のビデオはこちら。
(トランスクリプト全文がついています。)
で、私自身も聞いてみて、読んでみて、大声で笑い出してしまいそうだった。
だって、これ、ほとんどセコイ言い訳レベルなんだもの。
質問は「なぜ、あなたは、
病気の赤ん坊は安楽死させても許されると考えるのですか」
それに対してSingerの論理展開は、概ね、こんな感じ。
オーストラリアで生命倫理センターのディレクターをやっている時に、
医師からよく相談を受けた。
病気や障害のある子どもたちは、例えば二分脊椎だと、
救命されても何度も手術を受けることになるし、いろんな重い障害を負うことになるから、
それを説明されると、親も生き延びるのがいいことだと思わないわけで、
そこで基本的にこういう子どもたちには治療が行われていなかった。
しかし、その結果、子どもたちは死ぬまで延々と苦しむし、
治療をしないと決めた親にとっても医師や看護師にとっても、
そういう状態で子どもが苦しんでいるのを見ているのはとても消耗的である。
そこで悩む医師の相談を受け、Helga Kuhseと検討して、
こういう状態の子は生きない方が良かろうと医師と親とで決めるのはアリ、
それは親が決定することだろうということになった。
それなら、親がちゃんとしたインフォームドコンセントを受けて死なせると決定した以上、
その子どもは迅速かつ人間的に死なせてやるのが人道的なのではないか、と考え始めた。
まず、とても単純な問題として、バカな……と思うのは、
ここでシンガーが、いかにも存在するがごとくに見せかけているジレンマは、
実は存在していない、ということ。
医師らから相談を受けた時点で、
「では、緩和ケアをしっかり」と答えれば済むことなのだから。
これは、つい先頃、
彼の弟子のSavulescuが臓器提供案楽死の正当化に使っていた
「延命治療の停止で安楽死を選ぶ人は脱水死の苦しみを味わうことになるけど、
臓器提供という方法で安楽死するなら麻酔をかけてもらえるから苦しくない」という
子どもだましみたいなバカバカしい屁理屈と全く同じ。
しかし、本当のマヤカシは、
そのジレンマのもう一段前の、もう少し見えにくいところにあって、
大統領生命倫理評議会の報告書でSchulmanがやっていたのと同じく、
答えを先取りして、既に前提に織り込んだ問いが立てられている、ということ。
問いの中で、既に答えが是認されてしまっている、というか。
インタビューで問われたのは
「病気の乳児の安楽死がなぜ許されると考えるのか」であるにもかかわらず、
Singerは
「親が救命しないと決定した子どもを
死ぬまでの長い間苦しむままに放置しておくことは倫理的であるか否か」
という問いが立てられているかのように装い、
その実、「親が救命しないと決定した子ども」の部分には
ちゃっかりと「一定の状態の子どもは死なせても構わない」という答えが織り込み済み。
つまりSingerはここで、
「安楽死の是非」ではなく、「望ましい安楽死の方法」の議論にすり替え、
「安楽死させる際に苦しめることは倫理的かどうか」という後者の問いに答えることによって、
安楽死そのものが倫理的だという前者の問いの結論を導いてみせるという
盗人猛々しい大マヤカシを演じている。
そんなバカな話があるか、と思う。
そんなの「人の財布を盗ることは許されるか」と問われて、
「目的は中の金なのに財布まで盗ることは許されるか」という問いにすり替えて、
「どうせ盗ると意思決定した以上、財布ごともって行っても同じだから、
他人の財布を盗ってもよい」と答えるようなものでは?
問われているのは、
「なぜ、二分脊椎の子どもなら救命しない決断が許されるのか」なんだよッ。
そういうところだけ頭が悪いフリ、するなよ。それとも本当に悪いのかよッ。
いや、悪いのは、頭はともかく、やっぱり人間性なのかもしれない。
だって、よくよく読むと、この人、
救命治療をせず赤ん坊が苦しんで死ぬのを見ている親と医師が消耗するから
さっさと安楽死させるのがいいと言っているのであって、
別に苦しむ赤ん坊がかわいそうだから、と言っているわけでもないみたいな……。
ちなみに日本の厚労省の研究班のサイトはこちら。
二分脊椎って何?
この最後のところに以下のように書かれている。
従って、二分脊椎症の治療には脳神経外科、小児科、小児外科、泌尿器科、整形外科、リハビシテーション科などを中心に共同チーム医療が必要とされます。さらには適切な医療の他に教育、就職、結婚等の問題まで総合的なケアが必要です。
最後の2行、どうして次のように書けないかな。
適切な医療、教育その他の支援による総合的なケアがあれば、
人により就職も結婚も可能な障害です。
【当ブログのSinger関連エントリー】
P.Singerの「知的障害者」、中身は?(2007/9/3)
Singerの“アシュリー療法”論評1(2007/9/4)
Singerの“アシュリー療法”論評2(2007/9/5)
Singerへのある母親の反論(2007/9/13)
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
認知障害カンファレンス巡り論評シリーズがスタート:初回はSinger批判(2008/12/17)
知的障害者における「尊厳」と「最善の利益」の違い議論(2008/12/18)
What Sorts のSinger 批判第2弾(2008/12/22)
「障害児については親に決定権を」とSinger講演(2008/12/26)
Singerが障害当事者の活動家に追悼エッセイ(2008/12/29)
Sobsey氏、「知的障害者に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)
Peter SingerがQOL指標に配給医療を導入せよ、と(2009/7/18)
2010.08.24 / Top↑
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