病院での医療という限定された議論になることへの懸念について書き、
その中で、当日会場からあった、緩和ケアと在宅医療の医師の方の発言に触れました。
その後、エントリーを読んでくださった、その方からご連絡をいただき、
胃ろうやセデーションを巡って、余りにも多くの事実が知られないまま
安楽死が議論されているのではないかと、いろいろ教えていただきました。
大変貴重な情報なので、お願いして、以下に紹介させていただくことにしました。
快く掲載を了解してくださったばかりでなく、
わざわざ書き直してくださったY先生、ありがとうございました。
① 少なくとも自分の目に触れる範囲では、誤嚥で肺炎を繰り返す人などその時点ではやむを得ない理由があることがほとんど。経口摂取できない人に安易に造設されている、という前提に基づいて胃瘻について否定的に語られることがある。その前提には誇張があると思う。
② 認知症の人が最終的に食べられなくなった(嚥下反射が消失する段階)ときの胃瘻造設については議論がある。胃瘻にはリスクを伴うし胃瘻を行わないで皮下輸液という選択肢もある。胃瘻の場合は半年程度の「延命」になると考えられている。それは無意味な延命と言えるのか?「現場」にいる者としては必ずしもそうとは言えないと感じている。
物も言わず「何も分からない」ように見える認知症の最終ステージでも喜怒哀楽のような表出がない訳ではない。もしかしたら勝手な思いこみかと思いつつも介護者(ときに我々)はそれを感じている。その人の生を無意味だなどとは私にはとても言えない。(もちろんこれは、何の表出もない人の生は無意味と言っているのではない。)
③「胃瘻でいつまでも生きる」と取れる発言が複数のシンポジストからあったがそれは誤解である。ALSやパーキンソン病のような特に嚥下が障害される場合は確かに相当長く生きることができる。その場合の議論はALSの人工呼吸器の場合と同じ。おそらく胃瘻のネガティブなイメージはそこではなく認知症の場合だろう。だとすると(残念ながら?)「いつまでも生きる」ということはない。
④耐え難い苦痛に対するセデーションについて、緩和医療学会ガイドライン作成に携わったS氏などが論じていた。しかし、次の点はどうだろう。
病棟(緩和ケア病棟も含めて)では確かに無視できない問題ではあるものの、実は在宅ではそれが必要なことはめったにない。せん妄のコントロールに難渋することもめったにない。在宅医療に携わる者はたいてい知っているが、病院の医師やスタッフには不思議と知られていない。
セデーションについて、特にその尊厳死との異同を論じるのはそれはそれでよい。しかし、そもそもそれはなくすことのできるものかもしれない。その方向での努力が何より必要なのではないか。
⑤ 尊厳死協会の人たちが終末期について言うとき、「6ヶ月」という区切りがよく持ち出される。そもそも終末期が「6ヶ月」というのは、アメリカでホスピスケアの対象になる、という制度的な線引きの側面がある。改めて「6ヶ月」が特権的である理由を問い返したい。
そもそも「予後が6ヶ月」の予測ができるか、という疑問もある。「予後N(年、月)」と言われる場合は通常は中央値であるが、6ヶ月の場合は分散が大きい。2年以上の長期生存者までを含むことはあるが、それを終末期と言えるだろうか。
しかもがんの場合は最後の1ヶ月までは自立して日常生活を送れる人が多い。仕事を続けている人も珍しくない。世間の終末期のイメージとは異なるのではないだろうか。
ほぼ正確に予後予測ができ、世間の終末期のイメージに近いことをもって終末期と言うとすれば、「予後数日」特に「予後48時間以内」。(手足のチアノーゼや「死前喘鳴」と言われる症状が現れる)である。
⑥ 仮に「死ぬのを止められない」すなわち自殺をやむを得ないことと認めざるを得ない場合が仮にあるとしよう。しかしそのことと積極的に安楽死させることとは全然違うことだ。にもかかわらず、混同されて議論されることに危惧を覚える。特に医師は、自らが関与する可能性がある以上そこを区別せずに語ってはならない。