2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
(前のエントリーからの続きです)

② 食べ物として誰かのために誰も死ななくても良い世界は

これも、誰も動物を食べないことにしましょう、と決めることで実現できる。
人間がいっさい動物を食べてはいけない世界を作って種差別を解消しようと
主張することは可能なはず。

皆で合意して、種差別をしないために
世界中みんな納豆や豆腐を食べましょう、というなら、
私は、まぁ、それでもいいよ。

でも、それはできんわ、ということで
食べ物として誰かのために誰かが死ななければならない世界を前提に
その世界において、人間は特別ではないとしたら、どうなるのだろう?

上の実験動物での論理を、この問いにそっくり当てはめて、
予測されているように人類の将来に深刻な食糧不足が訪れた時には、
人間と動物が生きるために、一部の人間は人間にも動物にも食べられてもよい、と
主張しなければならないことになるのでは?

じゃぁ、シンガーは
「中絶胎児や障害新生児や脳死者を食べましょう」と
その場合には言うのだろうか? 

「ゴリラにも食べてもらいましょう」って?

そう言わないと一貫性がないことになると思うんだけど
ただ、そうすると、イワシはイワシを食べない、
ライオンはライオンを食べない、けど、
人間は人間を食べることになって、やっぱり人間が特別になってしまう?

……てなことを考えて

「われわれはこうして豚を殺して食べているが、
なぜ人間にはそれが許されているのか、なぜ人間は特別なのか」という問いに対して、
「特別でないとすると、人間の角煮を食べなければならないことになるから。
それは、私は嫌だから」と答えるのは?  ダメダメ?

まぁ、誰も私に問うたわけではないし、
立岩先生が「よい読み手ではないから」というなら
私は「もともと何も知らない、ただの素人だから」と言うしかないから、
最初から無知なオバサンのザレ言なんだけど。


ザレ言ついでに、もう1つ、ここまで書きながら考えたこと。

我々が素ッ裸の未開の人間として、動物と一緒にサバンナのど真ん中で(関東平野でもいいけど)
これから何らかのシステムを1から作り上げようとしているのならともかく、

既に複雑・高度に出来上がってしまった社会システムの中に、
人間も動物も囚われてしまっていて、我々がその中で生きている現実は変えられないのに、

我々を取り囲むそういう世界とか社会システムとは無縁に、その問いが
ただ抽象的な種としての人間と抽象的な種としての動物について問えるものなんだろうか。

種差別を解消するために我々にできることがあるとしたら、それは、せいぜい
我々の社会システムが人間だけに都合のよいように出来上がっているのは事実だから、
人間だけに都合よくできているそのシステムを、
動物にも都合のよいシステムへと修正することくらいじゃないんだろうか。

人間を特別だとする前提で出来上がっている社会システムから
誰も逃れることなどできないのに、あたかも、そこから逃れ出ることができたり、
人間と動物がそういう環境とは無縁に存在できるかのようなフリをして
人間は特別ではないと主張することで、

そこから導き出される結論が、
だからシステムを見直して、動物にも生きやすい社会システムに、という方向に向かうのではなく
だから一部の人間だけをそのシステムから(特にその一部である医療から)弾き出そうという方向に
向かっていくというのは、やっぱり、どこかが、おかしくない?

それ、ゲイツ財団の私設WHOと言われるIHMEが
「健康で5年生きる」のと「重症障害を負って15年生きる」のとどっちがいい?って、
本当は誰にも選べないことを、あたかも選べるかのようなフリをして問うて、
その答えを何らかの施策を正当化する論拠に使おうとするのと
どこか似通ったマヤカシがあるような気がする。

ちがうかなぁ。
これ、けっこう、健全なフツー人の感覚だと思うんだけどなぁ。
2010.10.07 / Top↑
Secret

TrackBackURL
→http://spitzibara.blog.2nt.com/tb.php/2108-45446049