「こんなときどうする? 臨床の中の問い」を読んだ。
付箋だらけだし、書きたいことが山のようにあるのだけど
Ashley事件の新たな動きでバタバタしてエントリーにできないでいるうちに
図書館の返却期限が迫ってきたので、
当ブログで考えてきたことの関連で、どうしてもこれだけは、ということだけ、
自分のメモの意味で抜き書き。
“本人の意思”というと、水戸黄門の印籠のようで、「これが目に入らぬか~」だが、それがどれだけのもん、と言うスタンスも必要かもしれない。
本人の意思は、本人のわがままであっていいいのだけれど、顔族の意思、共同体の意思、他の生命体の意思、地球の意思、宇宙の意思のことを超えて、本人の意志こそが大切、とは思いにくいところがあるからだ。
……(中略)……
本人の意思は人によってさまざま。同じ人でも状況によってさまざま。その意思を受け取る家族やわれわれ医療者の気持ちもさまざま。解決の方法はない。私たちは、共に戸惑い続けるしかない。“変わる本人の意思”に耳をすましながら。
……(中略)……
在宅ホスピスが一番いい、と決めつけることは慎まなければならない。ホスピスで死を迎えるのが一番いい、とこちら側が決めつけることも、である。時々に人の気持ちは変わる。医療者の一言や態度の一片で、患者・家族の気持ちは変わりうる。そういうものだと思う。
(p.37-42)
……医療や看護、そして介護は、どちらかというと、生命延長や生命維持、生命危機からの脱出、生命継続などを生命尊重と考えているところがあるので、「死なして」という言葉を直接浴びせられると、生命尊重でないと直感し、どう反応したらいいのか戸惑う。そういう時、どうすればいいか。一つ言えることは背景に病状の重さ、辛さや、家族関係のトラブルがあるのだろうかと思いを馳せてみること。あるいは私たち医療者の対応の悪さはないかと考えてみること。でも、そんな言葉を発せられた場合、言いたくない人に向かっては発せられないものであり、言われたのは、選ばれてと考えてみてもいいのかも知れない。
……(中略)……
「死なして」と患者さんに言われた時、どうするか。答えはない。言った人の年齢、病気、病状、言われた人の年齢、立場、声の大きさ、声のトーンなどによって、同じ言葉でも違う世界を抱えている。その言葉は、時にはユーモアさえ秘め、時には人の身動きさえ奪う。私たち臨床で働く者にできることは、聞き辛いその言葉の前で、頭を少し下げ、その言葉を否定せずただ聞き、聞きとめ、その後に続くその後の日々から逃げ出さないことを誓うことくらいだろうか。
(p.60-63)
……在宅ホスピスのよさ、医療者にとってのよさの1つは、患者さんに暮らしの場で会えることだろう。喩が適切かどうかは分からないが、動物園でゴリラに出会うか、森の中で出会うかの違いのような気がする。
(p.101)
著者は、本書の後半で、
なぜ多くの患者さんが死を目の前にしながら発狂せずにいられるのか
様々な患者さんとの出会いから、考察していく。
心の混乱や不安を表出しないで亡くなった患者さんたちで思い当たることとして
まずは高齢であったこと、次に戦争死や動物の死を経験していたこと、に続いて、
……さらにもう一つ大切なことは、身体が、死ぬよという信号を送っていることをキャッチし、それを自然なこととして受け止められるか、ということだと思う。その境地になるには、固執することから離れ、「あきらむ」という態度を取り戻すことのように思う。〈自然なことだから〉、〈友人は既に亡くなっている〉、〈自分も罪なことをしてきたし〉、などなどによって、あきらめていく。
……【中略】……
この章の患者さんたちから教えられぼくが言いたかったことは、人は〈あきらむ〉という力をひめているということ、〈身〉と〈心〉を〈宇宙〉に放る力を隠し持っているようだ、ということ。
(p.152)
……告げるか告げないかが大切なのではなく、その答えに辿り着くまでに共に苦労したのかどうかの方が、大切だろう。苦労を共にしていると、告げていても告げていなくても波はなんとか乗り越えていける。苦労を共にしていないと、正しく告げていても、正しく隠していても、波に飲まれてしまうことがある。
(p.196)
最後に、徳永医師は、生命倫理を考えるのに
以下の13の和語を原点に据えてみることを提言している。
それぞれに解説があるのだけれど、ここでは言葉のみを。
たっとぶ
いつくしむ
さする
はぐくむ
つつしむ
ひらく
わらう
とまどう
あやまる
ゆるしあう
いのる
ほろびる
ユイマール(助け合う)
平仮名に開いただけで、和語? と思うものも多いけど、
著者が言いたいことは伝わってくる。
私も去年、「納棺夫日記」と吉村昭の最期のエントリーで
以下のような言葉を並べたことがある。
ほどく、ほどける
ゆるめる、ゆるむ
解く、解ける
離す、離れる
開く、開ける
ばらく、ばらける
広げる、広がる
ほぐす、ほぐれる、
放す
任せる
預ける
ゆだねる
内に向かって硬く固まった、ゆるぎない言葉で、一筋に主張し、
己に執着し、欲望を満たすことに執着するのではなく、
かといって、逃げたり投げたりするのでもなく、
様々な人やモノや環境や世界に取り巻かれて在る自分の人生の一回性の中で
どろどろ・ぐるぐるしながら生きる自分を受け入れること。
どろどろ、ぐるぐるしつつ生きることを引き受けながら、
願わくば、それにとらわれずにいること――。
人がそんなふうに生きて、やがて〈身〉と〈心〉を〈宇宙〉に放ることを、
目の前の患者さんの人生の一回性から逃げることなく、支えていくこと――。
それは、たぶん、共にぐるぐる、どろどろしながら、
小さくて地味で、数え切れないほど次々に出てくる、それぞれ、それなりにぎりぎりだったりもする選択を
静かに淡々と引き受け続けることじゃないのかなぁ。
そして、それは日本の多くの地域で、
徳永医師に限らず、「森の中のゴリラ」を知っている多くの医師が
実際にやっていることでもあるんじゃないのかなぁ……。
逆に、現在、野火のような勢いで世界中に広がっていこうとしている
「死の自己決定権」議論や自殺幇助合法化の主張の先に見え隠れするのは、
そういう姿勢を放棄し、死にゆく人や病んで苦しむ人の人生の一回性から敵前逃亡して、
機械的に人を死へのベルトコンベアーに乗せていく、思考停止の医療なのではないか、と
改めて考えながら、読んだ。
こういう本が英訳されて、英語圏の生命倫理の議論の中に投げ込まれたらいいのに。
てか、日本の生命倫理学者さんたち、
欧米の議論を紹介しては日本の狭いアカデミアでシコシコ業績を作るばっかりじゃなくて
日本の医療人のこういう深い人間洞察を世界に発信し、問題提起してくれればいいのに。
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