連載「世界の介護と医療の情報を読む」の第60回として
以下の文章を書きました。
ハリケーン・カトリーナ「安楽死」事件
東日本大震災では、多くの施設入所の高齢者や病院の入院患者が逃げ遅れ、津波にさらわれた。過酷な避難生活の中で亡くなった人もある。患者の避難に病院職員が付き添わなかったケースが問題となり、スタッフの避難で手薄になった病院や施設の窮状も報道された。そこには、これから考えていくべき難しい課題がたくさんあるのだろう。
当欄では、2005年に米国ルイジアナ州を襲ったハリケーン・カトリーナの際の安楽死事件と「避難死evacuation death」について、06年9月号と10月号で取り上げた。後者は日本では「災害関連死」と呼ばれている状況に関する報道を、いくつかの角度から眺めてみたものだ。前者は、避難が困難な4人の入院患者に致死量の薬物を注射して死なせたとして医師と看護師が逮捕された事件。逮捕されたアナ・ポウ医師(事件当時49歳)は患者が苦しまないよう手助けしただけだと主張し、07年に不起訴となった。極限状態の病院に最後まで残って患者のために尽力した人道的医師として、その後も英雄視され、災害時のトリアージの専門家として発言を続けている。
この事件について、ネットメディアProPublicaが09年に長文の記事「死の選択:カトリーナ後のメモリアル医療センター(Deadly Chices: Memorial Medical Center After Katrina)」を書き、作年のピューリッツァ賞を受賞した。非公開記録を入手し、ポウ医師を含む多くの関係者にインタビューを重ねるなど、詳細な調査を行って事件の全容解明を試みたもの。8月29日のカトリーナ襲来を乗り切ったはずのメモリアル医療センターに、洪水が押し寄せ病院が電気を失い、やがて予備の発電機も停止する中、患者の避難を巡って病院スタッフはどのように行動したのか――。最後の患者がヘリコプターに乗せられた9月1日午後9時までの4日間が詳細に検証されている。
この記事を読むと、この事件が世間で思われているほど単純な性格のものではないことがよくわかる。詳細は拙ブログの関連エントリー(このエントリーの末尾にリンク)を見ていただきたいのだが、安楽死は明らかに4人以外にも行われているし、その中にはポウ医師が言う「苦痛」を感じていなかった患者が含まれている。
多くの要因が複合的に絡まり合って起きた事件ではあるが、その中で最も大きな要因となったのは、メモリアルの7階がいわば療養型の病棟として外部の会社ライフケアに貸し出されていたことだと思われる。メモリアルの幹部が集まって立てた患者の避難計画から、7階の患者は漏れていたのだ。それに気付いたスタッフが自分たちの患者も病院の避難体制に含めてもらうためには、ライフケア本部を通じて病院を経営する会社に交渉してもらわなければならなかった。
さらに、重症者を丁寧にケアして呼吸器外しや在宅復帰に取り組むライフケアの方針は、メモリアルの一部の医師に理解されず、「望みのない患者への資源の無駄遣い」との批判と共に、「7階の患者は意識のない重症者ばかり」と事実と異なる偏見があった。それもまた、誰もが混乱し疲弊し情報が錯綜する混沌の中で大きな誘因として働いたのではなかろうか。記事によると、自発的行動というよりも病院幹部の一人クック医師からの指示による行動だったとも思われるのだが、ポウ医師が致死薬を注射した4人は全員がライフケアの患者だった。注射の直前「ここの患者は意識がないか、あっても低い人たちだから」と言い、看護師からそうではない事実を教えられて医師が衝撃を受けた際のやりとりを、7階スタッフが記憶している。
もう1つの問題は、自力歩行のできない肥満した患者を移動させる困難だったようだ。クック医師は3日目にICUに残っていた患者に安楽死目的でモルヒネ投与を指示したことを告白しているが、その患者は体重200キロほどの進行がん患者だった。メモリアルの幹部は患者を3つのカテゴリーに分けた。自力歩行可能な患者が最優先で避難させる第1カテゴリー。移動に助けが必要な患者が第2カテゴリー。最後に避難させる第3カテゴリーは重症者やDNR(蘇生無用)指定の患者とされ、2階ロビーに集められた。そこに150キロはありそうな心臓手術後の患者を見た時にも、クック医師は自力歩行ができない彼を避難させることは不可能だと考えた。もっとも「人目があったので」安楽死はさせなかった。
9月1日午後9時、生きて病院を出る最後の患者として車椅子ごとヘリに乗せられたのは、その男性だった。もしも彼が7階の患者だったり人目のないところに寝かされていたら、彼も生きて病院を出ることはなかっただろう。
災害時のトリアージや安楽死を議論する前に、ぜひとも一読してもらいたい記事である。
文中で触れた拙ブログのエントリは以下です。
ハリケーン・カトリーナ:メモリアル病院での“安楽死”事件 1/5: 概要(2010/10/25)
ハリケーン・カトリーナ:メモリアル病院での“安楽死”事件 2/5: Day 1 とDay 2(2010/10/25)
ハリケーン・カトリーナ:メモリアル病院での“安楽死”事件 3/5 : Day 3(2010/10/25)
ハリケーン・カトリーナ:メモリアル病院での“安楽死”事件 4/5 : Day 4(2010/10/25)
ハリケーン・カトリーナ:メモリアル病院での“安楽死”事件 5/5 : その後・考察(2010/10/25)