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原発反対運動の一部から出てきている「障害児を産まないために」という声について

3月29日の補遺でtu_ta9さんの掲示板を拾って、
次のように書いて以来、ずっと頭に引っかかったまま、うまく考えをまとめられずにいる。

tu_ta9さんが原発事故に関連して「障害児を産みたくない」というような言説について興味深い掲示板的エントリーを立ち上げている。: そのやりとりで出ている「癌のリスクを言うのはよくて障害リスクを言うのはいけないというのも差別的ではないか」という指摘を、グルグル考えている。反論する理屈が見いだせないまま、ふっと頭が飛躍して、そのうち出生前遺伝子診断で発がんリスクの高い胚は障害リスクの高い胚と同じようにはじかれていく時代 がくるかもしれない……みたいなことを、先に考えてしまった。
http://tu-ta.at.webry.info/201103/article_12.html




この問題について
8月10日にSOSHIRENがアジア女性資料センターと共催で
以下のおしゃべり会を開いている。

8/10おしゃべり会 脱原発! どう考える?
「母だから」「子どもに障害が……」

おしゃべり会では最初に
福島原発事故の後おおしばよしこさんらが原発の危険性を訴えるために制作した
アニメーション「みえないばくだん」を鑑賞。

「みえないばくだん」のYouTubeはこちら(約10分)

その後のおしゃべり会の内容から印象に残った部分を、
最新号のSOSHIRENニュース(9月29日発行NO.298)から以下に。

そもそも、障害の負のイメージは真実でしょうか。脱原発運動は「原発は安全」を疑って、神話だと見抜きました。「障害は不幸」「障害はあってはならない」も、疑ってみるべきだと思います。いつの時代にも障害児は生まれるし、生まれてからの障害もゼロにはならない。でもそれは、汚染物質やウィルスで傷ついても生き延びる、人間の適応力、生命力ではないでしょうか。私はむしろ希望だと思います。
脱原発の言説に障害者差別の意図がなくても、原発の怖さを障害児の出生で表現することは、結果として差別を深める恐れがあることを知ってほしい、またそうならない方法を考えたい。障害者について、実際に障害をもち暮らす人についての情報、障害者が生きやすい状況をどうやってつくるかという情報が発信されるといいと思います。実際の障害者は泣き続けてはいません。
米津知子さん(SOSHIREN)



私が反発を覚える「お母さんだから」というのは、「母だから」と言っている当のお母さんたちではなく、それを利用してレッテル貼りをしている周りの存在に違和感があるんだと思います。
母親を持ち上げるマスコミや脱原発の人は、自分の想定内の母親像だと耳を貸しますが、そのステレオタイプから外れると急に否定的な評価をします。子どもを守る美しい母というイメージと、わがまま、感情的、難しいことは分からないというネガティブなイメージとは鏡の両面です。
大橋由香子さん(SOSHIREN)



タンポポ舎も「お母さんにもよく分かる放射能講座」を提案している。お母さんはそんなバカなのか。お父さんは何をやっているのかと言いたくなるくらい意識が20年前と変わらない。中山千夏さんが「原発推進派はみんな男、反対派も男、女はみんなお母さん」と書いていたが、男の運動はお母さんを利用している。
会場からの発言



支援活動と共に当時者運動に詳しい男性保護者の方と話をしているときに「不当に健康被害を受けないために」と言われ、自分でも腑に落ちた。
(中略)
子どもの生存に関して、行政が責任をとらず社会が関心を払わないという根本的な問題があり、今回保護者(とくに女性)が「子どもを守る」役割を無理やり担わされているのだなと思った。
(中略)
いま、必要なことは対話だと思う。表面上対立しているように見える意見でも、よくよく話していったら根本は「生きる価値がない人なんていない」「何かを押し付けられることが嫌だ」という思いで共通しているかもしれない。
そうして最低限共有して、弱者にしわ寄せがこない社会の仕組みをつくっていきたい。
疋田香澄さん(子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク福島支援部門)





この中で語られている「"母"が利用されている」ということ、
利用されているだけだから「都合のよいステレオタイプに当てはまらないと
即座に否定の対象になる」ということが

「にもかかわらず明るく生きる姿に勇気をもらいました、ありがとう」などの言葉に象徴されるように、
メディアがそのように描き、世の中が暗黙のうちに障害児・者と家族に求めている
「社会のオアシス」役割のステレオタイプと、その鏡の表裏として、
権利を要求するや一転して叩かれる障害者。

Ashley事件、Katie事件、Angela事件などで繰り返された
「どんな苦労もいとわず、ここまでしても子を家でケアしようとする美しい親の愛」ステレオタイプと
それを批判するや、叩きに利用された「それをイデオロギーで邪魔立てする障害者運動」ステレオタイプ。

さらにいえば、臓器移植医療や生殖補助医療の分野の医師らばかりが
「苦悩する患者」にやたらと共感的であること、

その一方で
脳卒中の後遺症や重い障害に「苦悩する患者」の「苦悩」は
医療の世界から世論に向かって共感を大きな声で説かれることがないまま
そうした患者の命や生活を支えるリハビリテーションが切り捨てられ、
十分に支えることが可能な医療介入までが「無駄な延命」であるかのように
メディアに言いなされていくことにも、

これは通じていく構図なのだと思う。

強い者が強い側の利益をゴリ押ししていくために
利用するのが「美しい愛」という情緒のマジックであるならば、

それに対して弱い者の立場で異議を申し立てていく時には
いかにそれが魅力的で即効あらたかに思える戦術であったとしても、
それが問題を摩り替え、問題のありかを不分明にしてしまう手口である以上、
易々と手を出さない節度を持つこと。

その単純な分かりやすさ、伝わりやすさに安易に飛びつくのではなく、

そこにある、複雑でいろいろと絡まり合った問題のありかに
苦労して分け入り、手間をかけてあれとこれとを丁寧に選り分けて
それぞれの所在をきっちりと整理する努力が必要なのだろう、と思う。

そうした努力から出てきたのが
ここでは「不当な健康被害を受けないために」という表現なのだろうし、

コトの本質を突いて問題のありかを分明にする表現というものは
たぶん、いつだって、こんなふうに余分な湿り気を寄せ付けず、
さらりとシンプルに爽やかなんだなぁ……とも。
2011.10.12 / Top↑
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