米国医師会誌に
Douglas B. White医師とお馴染み「無益な治療ブログ」の法学者Thaddeus M. Popeが
「無益な治療争議は裁判所へ」と主張する論文を書いたとのこと。
タイトルは”the Courts, Futility, and the Ends of Medicine”。
それに対してWesley Smithがブログで部分的に反論している。
Smithによると、
著者らは無益な治療争議でぶつかる利益を以下の3つとして整理しているらしい。
① 自らの価値観に沿った医療を受ける患者の利益。
② 終末期の患者の尊厳の尊重を巡って自分の信条にそぐわない行為を強制されない医師の利益。
③ 個々人の権利の保護と、少ない医療資源の公平な分配の保障という社会の利益。
それに対して、Smithの批判の中心は、
著者らがこれら3つに均等な重要性を持たせていること。
Smithは最重要なのは第一の患者の利益である、と言い、
②の医師の利益は、患者の利益と同じ比重で考えられるべきではない、と。
これは私も同じにできないと思うのは、
特定の医師の思想信条に合わないからやれないというだけなら、
引き受けるという別の医師に引き継げばいいことに過ぎないという気がするから、
医師の思想信条と治療の無益性判断は直接には無関係のはず。
Smithは基本的には医師の思想信条の権利を主張するスタンスだけれど、
医師に生命維持の無益性を決定させるのは患者の無益性を決めさせることになるので
無益な治療争議においては、その例外だと考える、と。
3つ目の社会の利益のうち、後者についてSmithは
医師が社会の利益を守りつつ患者に最善の医療を行うことは両立するとは限らない、と指摘。
もともと“無益な治療”論が登場した当初、カネは関係ないと言っていたではないか。
これは私も何度かこのブログでも書いたし、
Gonzales事件の頃には誰もが口をそろえてそう言っていたのに
いつのまにか既成事実が重ねられるにつれて
なし崩しにカネが言われるようになってきたことは
拙著「アシュリー事件」でも書いた。
Smithは、
むろん、カネが関係ないはずはないと誰もが思ってはいたけれど、
両者の利益が衝突する場合に医師が守るべきは患者の利益である、と。
この後でSmithが言っていることが
私がこのエントリーを書いておこうと思った動機なのだけど、とても良い。
Besides, it is “fair” that some patients receive far more expensive interventions than most of the rest of us. Yes, such patients are receiving a disproportionate share. But that is due the vicissitudes of life. Indeed, that “expensive” patient could be any one of us. Thus, I disagree that it is unjust that the very few unfortunates among us involved in futility disputes are receiving an unjust benefit.
それに、患者の中にその他の多くの患者よりもはるかにカネのかかる医療介入を受ける人がいるのは“公平”なのだ。確かに、けた外れに費用のかかる患者はいる。しかし、それは人生というのがそういうものだからであって、私だって誰だっていつ“カネのかかる”患者になるか分からない。そう考えると、無益な治療争議の対象となっている数少ない悪運に見舞われた人たちが不当な利益を享受しているから公正ではないと主張することに私は同意できない。
Futile Care Disputes Belong in Court
Secondhand Smoke, January 14, 2012
私も「限られた医療資源の平等な分配」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶのは
自立支援法がまだ法案だった段階で御用学者さんたちが言い廻っていた、
あの妙な「不公平論」。
施設で暮らしている障害者には一人当たりこれだけのカネが使われている。
一方、在宅で暮らしている障害者は一人当たりこれだけしか使ってもらっていない。
これは不公平である。在宅で暮らしている障害者にも
施設で暮らしている障害者と同じだけのカネが使われないと損だ、
今の制度は不公平だ、と。
当時そういうことを言っていた人の一人に、
「でも、“公平”と言うのは誰もが同じ金額を使えることではなくて、
誰もが必要になった時に必要なだけのサービスを使えること。
それが“公平”ではないんでしょうか」と反論してみたことがあった。
黙ってスル―されたけれどね。
“無益な治療”論で言われる「医療資源の公平な分配」だって、
みんなが同じカネを使わせてもらえることではなく、
必要となった人なら誰もが必要に応じて使わせてもらえることのはずなのでは?
それならば、「医療資源の公平な分配」という物差しそのものが
ある一定の状態にある患者の場合にだけ持ち出されること自体が
とんでもなく不公平、不公正なことではないかと私は思うのだけれど。
【関連エントリー】
朝日新聞の“損得勘定”からアメリカの医療改革議論、“英語圏イデオロギー”を考える(2009/9/11)
Douglas B. White医師とお馴染み「無益な治療ブログ」の法学者Thaddeus M. Popeが
「無益な治療争議は裁判所へ」と主張する論文を書いたとのこと。
タイトルは”the Courts, Futility, and the Ends of Medicine”。
それに対してWesley Smithがブログで部分的に反論している。
Smithによると、
著者らは無益な治療争議でぶつかる利益を以下の3つとして整理しているらしい。
① 自らの価値観に沿った医療を受ける患者の利益。
② 終末期の患者の尊厳の尊重を巡って自分の信条にそぐわない行為を強制されない医師の利益。
③ 個々人の権利の保護と、少ない医療資源の公平な分配の保障という社会の利益。
それに対して、Smithの批判の中心は、
著者らがこれら3つに均等な重要性を持たせていること。
Smithは最重要なのは第一の患者の利益である、と言い、
②の医師の利益は、患者の利益と同じ比重で考えられるべきではない、と。
これは私も同じにできないと思うのは、
特定の医師の思想信条に合わないからやれないというだけなら、
引き受けるという別の医師に引き継げばいいことに過ぎないという気がするから、
医師の思想信条と治療の無益性判断は直接には無関係のはず。
Smithは基本的には医師の思想信条の権利を主張するスタンスだけれど、
医師に生命維持の無益性を決定させるのは患者の無益性を決めさせることになるので
無益な治療争議においては、その例外だと考える、と。
3つ目の社会の利益のうち、後者についてSmithは
医師が社会の利益を守りつつ患者に最善の医療を行うことは両立するとは限らない、と指摘。
もともと“無益な治療”論が登場した当初、カネは関係ないと言っていたではないか。
これは私も何度かこのブログでも書いたし、
Gonzales事件の頃には誰もが口をそろえてそう言っていたのに
いつのまにか既成事実が重ねられるにつれて
なし崩しにカネが言われるようになってきたことは
拙著「アシュリー事件」でも書いた。
Smithは、
むろん、カネが関係ないはずはないと誰もが思ってはいたけれど、
両者の利益が衝突する場合に医師が守るべきは患者の利益である、と。
この後でSmithが言っていることが
私がこのエントリーを書いておこうと思った動機なのだけど、とても良い。
Besides, it is “fair” that some patients receive far more expensive interventions than most of the rest of us. Yes, such patients are receiving a disproportionate share. But that is due the vicissitudes of life. Indeed, that “expensive” patient could be any one of us. Thus, I disagree that it is unjust that the very few unfortunates among us involved in futility disputes are receiving an unjust benefit.
それに、患者の中にその他の多くの患者よりもはるかにカネのかかる医療介入を受ける人がいるのは“公平”なのだ。確かに、けた外れに費用のかかる患者はいる。しかし、それは人生というのがそういうものだからであって、私だって誰だっていつ“カネのかかる”患者になるか分からない。そう考えると、無益な治療争議の対象となっている数少ない悪運に見舞われた人たちが不当な利益を享受しているから公正ではないと主張することに私は同意できない。
Futile Care Disputes Belong in Court
Secondhand Smoke, January 14, 2012
私も「限られた医療資源の平等な分配」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶのは
自立支援法がまだ法案だった段階で御用学者さんたちが言い廻っていた、
あの妙な「不公平論」。
施設で暮らしている障害者には一人当たりこれだけのカネが使われている。
一方、在宅で暮らしている障害者は一人当たりこれだけしか使ってもらっていない。
これは不公平である。在宅で暮らしている障害者にも
施設で暮らしている障害者と同じだけのカネが使われないと損だ、
今の制度は不公平だ、と。
当時そういうことを言っていた人の一人に、
「でも、“公平”と言うのは誰もが同じ金額を使えることではなくて、
誰もが必要になった時に必要なだけのサービスを使えること。
それが“公平”ではないんでしょうか」と反論してみたことがあった。
黙ってスル―されたけれどね。
“無益な治療”論で言われる「医療資源の公平な分配」だって、
みんなが同じカネを使わせてもらえることではなく、
必要となった人なら誰もが必要に応じて使わせてもらえることのはずなのでは?
それならば、「医療資源の公平な分配」という物差しそのものが
ある一定の状態にある患者の場合にだけ持ち出されること自体が
とんでもなく不公平、不公正なことではないかと私は思うのだけれど。
【関連エントリー】
朝日新聞の“損得勘定”からアメリカの医療改革議論、“英語圏イデオロギー”を考える(2009/9/11)
2012.02.03 / Top↑
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