ずいぶん前に書いたので、
てっきりエントリーにしているものとばかり思い込んでいたら
まだだったみたいなので、早速、以下に――。
「バイオ化する社会 『核時代』の生命と身体」 粥川準二
私が「バイオ化」という言葉を知ったのは、去年「現代思想」2月号で粥川氏による「バイオ化する社会 うつ病とその治療を例として」という記事を読んだ時だった。その言葉には、連載「世界の介護と医療の情報を読む」を通して見えてきた世界のありように私自身が感じる懸念や疑問が、より専門的な視点から見事な的確さで捉えられており、読みながら興奮を覚えた。
本書は、著者が同誌に寄せた4本の論考を大幅に加筆・修正したものに、書き下ろし原稿を加え、さらに関連書籍と映画のガイドを添付したもの。昨年の東北大震災以降、被災地に何度も足を運び、原発事故の影響についても詳細に追い掛けながら考察を深めてきたジャーナリストの視点が、最先端科学研究の発展に伴ってバイオ化する社会と、そこに潜む問題点の分析に、深い奥行きを与えている。
副題の「核時代」の「核」もまた、原子力の「核」と、分子生物学の研究・操作の対象となる遺伝子のありか、細胞の「核」の2つを意味して重なりあう。それもそのはずだ。著者によれば、ヒトゲノム計画そのものが原爆投下後に生存者の細胞への放射能の影響を調べたことに端を発したものだという。
著者は冒頭「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」と表現されたミッシェル・フーコーの「生‐権力」という概念を紹介する。生きるべきものと死ぬべきものの間に切れ目を入れて支配する権力だ。それは序章でくっきりと描き出される、東北で津波によって引かれた被害を区切る線、高い放射能が検出される地域を区切る線にも象徴されている。
著者はその後、生殖補助医療技術による「家族のバイオ化」、遺伝子医療と出生前診断による「未来のバイオ化」、幹細胞科学による「資源のバイオ化」その他、先端科学の各領域を経巡りながら、そこで何が起こっているかを詳細に検証していく。そして「富む国々と貧しい国々、その中での富む人々と貧しい人々、男性と女性、健康なものと病む者との間に」線が引かれている一方で、バイオ化する社会が「人々を苦しめる社会的因子、いや社会問題を、単なる生物学的な現象へと矮小化」させ、それらの線が見えにくくなってしまう危険性を浮き彫りにする。
最後に、著者は再びチェルノブイリと福島の原発事故に戻ってくる。最終章「市民のバイオ化」だ。バイオ化された市民とは、社会のバイオ化によって人体が資源化されるにつれ、「資源としての価値を生物学的に測られ、品質管理される」存在であることを自らに引き受けていく我々一般市民の姿に他ならない。
全体を通じて最も興味深かったのは、科学の発達によって社会にひずみが起こるのではなく、元々あった問題が顕在化させられていくのだ、との視点。そこに社会の「痛点」があることは最初から分かっていたはずなのだ。ヒトクローン胚作製研究が韓国のスキャンダルの後にiPS細胞という代替え案によって凍結されたり、津波や地震が原発を止め、いずれ脱原発に向かったとしても、それらは粘り強い議論と検討による結果ではない、との指摘は重い。
代替え案に飛びつく過ちを繰り返さないために、著者は警告する。「バイオ化する社会の『痛点』から目をそむけてはならない」と。
「介護保険情報」2012年6月号
てっきりエントリーにしているものとばかり思い込んでいたら
まだだったみたいなので、早速、以下に――。
「バイオ化する社会 『核時代』の生命と身体」 粥川準二
私が「バイオ化」という言葉を知ったのは、去年「現代思想」2月号で粥川氏による「バイオ化する社会 うつ病とその治療を例として」という記事を読んだ時だった。その言葉には、連載「世界の介護と医療の情報を読む」を通して見えてきた世界のありように私自身が感じる懸念や疑問が、より専門的な視点から見事な的確さで捉えられており、読みながら興奮を覚えた。
本書は、著者が同誌に寄せた4本の論考を大幅に加筆・修正したものに、書き下ろし原稿を加え、さらに関連書籍と映画のガイドを添付したもの。昨年の東北大震災以降、被災地に何度も足を運び、原発事故の影響についても詳細に追い掛けながら考察を深めてきたジャーナリストの視点が、最先端科学研究の発展に伴ってバイオ化する社会と、そこに潜む問題点の分析に、深い奥行きを与えている。
副題の「核時代」の「核」もまた、原子力の「核」と、分子生物学の研究・操作の対象となる遺伝子のありか、細胞の「核」の2つを意味して重なりあう。それもそのはずだ。著者によれば、ヒトゲノム計画そのものが原爆投下後に生存者の細胞への放射能の影響を調べたことに端を発したものだという。
著者は冒頭「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」と表現されたミッシェル・フーコーの「生‐権力」という概念を紹介する。生きるべきものと死ぬべきものの間に切れ目を入れて支配する権力だ。それは序章でくっきりと描き出される、東北で津波によって引かれた被害を区切る線、高い放射能が検出される地域を区切る線にも象徴されている。
著者はその後、生殖補助医療技術による「家族のバイオ化」、遺伝子医療と出生前診断による「未来のバイオ化」、幹細胞科学による「資源のバイオ化」その他、先端科学の各領域を経巡りながら、そこで何が起こっているかを詳細に検証していく。そして「富む国々と貧しい国々、その中での富む人々と貧しい人々、男性と女性、健康なものと病む者との間に」線が引かれている一方で、バイオ化する社会が「人々を苦しめる社会的因子、いや社会問題を、単なる生物学的な現象へと矮小化」させ、それらの線が見えにくくなってしまう危険性を浮き彫りにする。
最後に、著者は再びチェルノブイリと福島の原発事故に戻ってくる。最終章「市民のバイオ化」だ。バイオ化された市民とは、社会のバイオ化によって人体が資源化されるにつれ、「資源としての価値を生物学的に測られ、品質管理される」存在であることを自らに引き受けていく我々一般市民の姿に他ならない。
全体を通じて最も興味深かったのは、科学の発達によって社会にひずみが起こるのではなく、元々あった問題が顕在化させられていくのだ、との視点。そこに社会の「痛点」があることは最初から分かっていたはずなのだ。ヒトクローン胚作製研究が韓国のスキャンダルの後にiPS細胞という代替え案によって凍結されたり、津波や地震が原発を止め、いずれ脱原発に向かったとしても、それらは粘り強い議論と検討による結果ではない、との指摘は重い。
代替え案に飛びつく過ちを繰り返さないために、著者は警告する。「バイオ化する社会の『痛点』から目をそむけてはならない」と。
「介護保険情報」2012年6月号
2012.10.24 / Top↑
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