カナダの生命倫理学者、カルガリー大の Walter Glennonが
Cambridge Journal of Healthcare Ethics 4月号で
デッド・ドナー・ルール(死亡提供ルール)に疑問を呈している。
アブストラクトはなく、最初の1ページは以下。 ↓
The Moral Insignificance of Death in Organ Donation
Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, Volume22 Issue 02, April 2013
BioEdgeによれば、Glennonは、
重症脳損傷の患者のケースを論じて、以下のように書いている。
What matters is not that the donor is or is not dead, or when death is declared, but that the donor or a surrogate consents, that the donor has an irreversible condition with no hope of meaningful recovery, that procurement does not cause the donor to experience pain and suffering, and that the donor’s intention is realized in a successful transplant.
問題なのはドナーが死んでいるかいないかとか、いつ死が宣告されるかではなく、ドナーまたは代理決定者が同意しており、ドナーが意味のある回復の見込みがまったくない不可逆な状態にあって、臓器摘出がドナーに痛みも苦しみも与えず、成功裏に移植が行われてドナーの意思が実現されることである。
むしろ、ドナーに臓器提供の意思があるにもかかわらず、
提供が認められなかったり、死亡提供ルールで死ぬまで待って臓器が使えなくなれば、
ドナーの利益が損なわれるのだ、と主張し、
臓器不足解消のため、
デッド・ドナー・ルールの撤廃を説いている。
ここまでは、これまでも説かれてきたデッド・ドナー・ルールの撤廃論とも
ほとんど同じ路線だろうと思うのだけど、
この後でBioEdgeがまとめている最後の段落はすごく気になる。
そうすると
健康な人が自殺の手段として臓器提供をすることも認めるのか? という問いに
Glennonは、否。全然そうではない、と答える。
そういう人は理性にもとづいた標準的な自己決定をしていないから
そういう臓器提供は認められない。
通常は、人が自分の生はもはや生きるに値しないと結論するのは
不可逆で望みのない状態を経験しているからだから。
Why wait until death for organ donation, asks Canadian bioethicist
BioEdge, March 23, 2013
提供意思があるのに提供がかなわないなら
それは提供意思があった人が可哀そうだから、
ちゃんとその意思を尊重してあげるために、
生きているうちから採ってもいいことにしよう、という理屈は
SavulescuとWilkinsonの臓器提供安楽死の論理でもあったけど ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
こういうのって、
実は犠牲に供しようとするターゲットの人達に
犠牲にする/なることについての倫理判断の所在を転嫁するという意味では、
安楽死や自殺幇助の合法化にエマニュエルが指摘していた患者への責任転嫁と
同じカラクリなんでは――?
もう一つ、そういえばAshley療法論争でも、
議論の主要テーマは「重症障害児への成長抑制は倫理的に妥当か」だったはずが、
議論が繰り返され、
「重症児だからやってもかまわない」という自分たちの主張に
世論が一定の影響を受けたところまでくると、
シアトルこども病院成長抑制ワーキング・グループという妙な組織の煙幕に隠れて
FostやDiekemaらが書いたHCRの10年の正当化論文では、
「重症児にしかやらないのだから成長抑制療法は正当化できる」と
議論の論点そのものを正当化の論拠に使う、という
論理のアクロバットが演じられていた。
“科学とテクノの簡単解決バンザイ”文化の旗振り役の生命倫理学者って、
同じマヤカシの手口を使うんだろうか。
「意味のある回復の見込みのない不可逆な状態は
生きるに値しない命だから
殺しても構わない……
死なせても構わない……
臓器をとっても構わない……」
という議論を
自分たちで展開してきておいて、
その論理が正当化されたわけでも受け入れられたわけでもなくとも、、
そろそろ世論に一定の影響が広がってきたとみると、
「回復の見込みのない不可逆な状態の人が
生きるに値しないと自己決定するのは、筋の通った判断だけど」と
それを今度は別の論点の論拠として逆転してみせることで
あたかもそれ自体は既に正当化・合意されたステートメントであるかのように――。
そうして
既に受け入れられた判断であるかのような錯覚・洗脳が
さらに広げられていく――。
それにしても「意味のある回復」とか
「人と意味のあるやり取りができる」とか、
アシュリー療法論争でも繰り返されていたけど、
あの、meaningful ってな、一体何なんです?
【関連エントリー】
Navarro事件の移植医に無罪:いよいよ「死亡提供ルール」撤廃へ?(2008/12/19)
臓器移植で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)
「重症障害者は雑草と同じだから殺しても構わない」と、生命倫理学者らが「死亡提供ルール」撤廃を説く(2012/1/28)
Cambridge Journal of Healthcare Ethics 4月号で
デッド・ドナー・ルール(死亡提供ルール)に疑問を呈している。
アブストラクトはなく、最初の1ページは以下。 ↓
The Moral Insignificance of Death in Organ Donation
Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, Volume22 Issue 02, April 2013
BioEdgeによれば、Glennonは、
重症脳損傷の患者のケースを論じて、以下のように書いている。
What matters is not that the donor is or is not dead, or when death is declared, but that the donor or a surrogate consents, that the donor has an irreversible condition with no hope of meaningful recovery, that procurement does not cause the donor to experience pain and suffering, and that the donor’s intention is realized in a successful transplant.
問題なのはドナーが死んでいるかいないかとか、いつ死が宣告されるかではなく、ドナーまたは代理決定者が同意しており、ドナーが意味のある回復の見込みがまったくない不可逆な状態にあって、臓器摘出がドナーに痛みも苦しみも与えず、成功裏に移植が行われてドナーの意思が実現されることである。
むしろ、ドナーに臓器提供の意思があるにもかかわらず、
提供が認められなかったり、死亡提供ルールで死ぬまで待って臓器が使えなくなれば、
ドナーの利益が損なわれるのだ、と主張し、
臓器不足解消のため、
デッド・ドナー・ルールの撤廃を説いている。
ここまでは、これまでも説かれてきたデッド・ドナー・ルールの撤廃論とも
ほとんど同じ路線だろうと思うのだけど、
この後でBioEdgeがまとめている最後の段落はすごく気になる。
そうすると
健康な人が自殺の手段として臓器提供をすることも認めるのか? という問いに
Glennonは、否。全然そうではない、と答える。
そういう人は理性にもとづいた標準的な自己決定をしていないから
そういう臓器提供は認められない。
通常は、人が自分の生はもはや生きるに値しないと結論するのは
不可逆で望みのない状態を経験しているからだから。
Why wait until death for organ donation, asks Canadian bioethicist
BioEdge, March 23, 2013
提供意思があるのに提供がかなわないなら
それは提供意思があった人が可哀そうだから、
ちゃんとその意思を尊重してあげるために、
生きているうちから採ってもいいことにしよう、という理屈は
SavulescuとWilkinsonの臓器提供安楽死の論理でもあったけど ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
こういうのって、
実は犠牲に供しようとするターゲットの人達に
犠牲にする/なることについての倫理判断の所在を転嫁するという意味では、
安楽死や自殺幇助の合法化にエマニュエルが指摘していた患者への責任転嫁と
同じカラクリなんでは――?
もう一つ、そういえばAshley療法論争でも、
議論の主要テーマは「重症障害児への成長抑制は倫理的に妥当か」だったはずが、
議論が繰り返され、
「重症児だからやってもかまわない」という自分たちの主張に
世論が一定の影響を受けたところまでくると、
シアトルこども病院成長抑制ワーキング・グループという妙な組織の煙幕に隠れて
FostやDiekemaらが書いたHCRの10年の正当化論文では、
「重症児にしかやらないのだから成長抑制療法は正当化できる」と
議論の論点そのものを正当化の論拠に使う、という
論理のアクロバットが演じられていた。
“科学とテクノの簡単解決バンザイ”文化の旗振り役の生命倫理学者って、
同じマヤカシの手口を使うんだろうか。
「意味のある回復の見込みのない不可逆な状態は
生きるに値しない命だから
殺しても構わない……
死なせても構わない……
臓器をとっても構わない……」
という議論を
自分たちで展開してきておいて、
その論理が正当化されたわけでも受け入れられたわけでもなくとも、、
そろそろ世論に一定の影響が広がってきたとみると、
「回復の見込みのない不可逆な状態の人が
生きるに値しないと自己決定するのは、筋の通った判断だけど」と
それを今度は別の論点の論拠として逆転してみせることで
あたかもそれ自体は既に正当化・合意されたステートメントであるかのように――。
そうして
既に受け入れられた判断であるかのような錯覚・洗脳が
さらに広げられていく――。
それにしても「意味のある回復」とか
「人と意味のあるやり取りができる」とか、
アシュリー療法論争でも繰り返されていたけど、
あの、meaningful ってな、一体何なんです?
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2013.03.29 / Top↑
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