先週火曜日に以下のエントリーを書きました。
生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医(MT州)(2013/3/26)
この事例をめぐって、某MLで
ALS患者の支援の専門家と緩和ケアの専門医の方の間で
興味深いやり取りがありました。
私はALSのことには全く疎いので
細かいことまでは分かりませんが、大筋としては、
日本でもモルヒネが保険適用となり、
ALS患者に使われるようになってきているが、
そこにはいくつかの疑問がある、という話。
門外漢の私がとりあえず、
そのやり取りから読み取ったのは以下の3点。
① がん患者の呼吸困難にモルヒネを使うことにはエビデンスがあるが、
鎮静のために、睡眠薬ではなく鎮痛剤であるモルヒネを使うことは疑問。
② 本人の苦痛緩和のためという名目で
実際は病棟の看護師の負担軽減のために使われている場合も?
③ ALS患者の緩和ケアとしてモルヒネの使用が広がるにつれて、
ALSの呼吸不全を終末期と捉える勘違いが起こり始め、
緩和ケア=終末期ケアという短絡的な構図ができていくのではないか。
私はすべての問題意識がアシュリー事件に端を発する門外漢なので
① と②はともかく、③の疑問がアシュリー事件での胃ろうをめぐる疑問に繋がった。
以下、それについて。
アシュリーには、
まだ口から食べられる状態だったにもかかわらず、
よく病気をして熱を出しては食べられなくなるので、
そのくらいだったら、いっそ普段から経管栄養にしておけばよい、との判断で
胃ろうが作られたと思われる節がある ↓
ヘンだよ、Ashleyの胃ろう(2008/12/20)
(私が当事メールをやり取りしていたのは、A療法論争にも登場する英語圏の学者の一人)
そして、実際、
アシュリーの手術を行ったシアトルこども病院の小児科医の一人、Wilfondは
重症児への健康以外の理由による侵襲をめぐる親の決定権を論じた論文で、
胃ろうについて、食事介助の時間を短縮するための技術としてのみ捉え説明している ↓
食事介助の時間短縮策としてのみ語られる胃ろう(Wilfond論文)4(2009/4/27)
ところが、
仮にアシュリーの胃ろうが、5歳の時に、
まだ口から食べられるにもかかわらず緊急時への対応のために導入されたのだとしても、
6歳時に実施された“アシュリー療法”が9歳で論争になった際には、
胃ろうであることが「飲み込みもできないほどの重症児である」ことの根拠に使われた。
上記の「ヘンだよ、アシュリーの胃ろう」エントリーに引用しているように、
08年のストーニー・ブルック大学の認知障害カンファ(Eva Kittayが企画したもの)で
ピーター・シンガーもアシュリー事件を論じた際に、アシュリーの状態について
「アシュリーには飲み込みすらできない」と発言している。
本来なら飲み込みに困難がある人だけが本人の利益判断で適用となるはずの技術が、
介護上の利便性によって、飲み込み可能な人にまで使われてしまう現実は存在している。
にもかかわらず、いったんその技術が使われてしまうと、
「利便性のために使われている現実がある」ことはカウント外となり、
「胃ろうになっている」
↓
「飲み込みができない」
↓
「飲み込みができないほど重症である」
↓
「したがって、他の障害児とは別基準を適用しても構わない」
と、みなされてしまう。
高齢者の場合だと、
「口から食べられなくなったら、もういい」と言われてしまう。
それは、ちょうどアリシア・ウ―レットが
アシュリー療法の正当化論について指摘した問題点の1つ、
「道徳上の害につながる社会的リスクが無視されている」に当たるような気がする。
ウ―レットが言っていることを私自身の言葉でまとめると、
本人の最善の利益というタテマエを装った「どうせ重症児だから」という論理で
本人以外の便宜のためにアシュリー療法が正当化されると
今度はアシュリー療法を実施された個々の子どもが周囲の人から
「どうせアシュリー療法をしてもかまわないような存在だから」とみなされ、
人としての敬意を値引きされることになる。
人が、人としての敬意を減じた扱いをされる時には
その扱いをされる存在であることがその扱いをさらに正当化することにつながり
その人は「道徳的な害」を被ることになる。
Ouellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判(2010/1/15)
(QuelletteはOuelletteの間違いです。あまりに多数なので、訂正できずにいます)
個々の技術や薬それ自体は、
一定の状態の患者さんへの利益がある優れた医療介入である反面、
本人の利益を装いつつ本人以外への利便性のために
本来なら適用対象にならない患者さんにまで行われていくと、
どこかで周囲の捉え方に因果関係の逆転が起こり、
その技術や薬を適用されている人であることが
「生きるに値しない命を生きている人」であることの証と捉えられてしまう。
ALSの人へのモルヒネ投与にしても、高齢者への胃ろうにしても、そして新型遺伝子診断でも、
それと同じところがあるような気がする。
――――――
それから、もう一つ、
オピオイド鎮痛剤については、
以下のエントリーで紹介した「ファーマゲドン」スキャンダルが出てきており、
かつてのSSRIをめぐるスキャンダルとその構図がとても似ていることと
あながち無関係でもないのかも……?
“オピオイド鎮痛剤問題”の裏側(米)(2012/10/20)
ファーマゲドン: オピオイド鎮痛剤問題のさらなる裏側(2013/1/4)
……と、実はここまでは先週書いて、寝かせたままになっていたのですが、
昨日たまたま読んだ
九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学教授の外須美夫さんのインタビューで
(『談』2013 no.96 特集「痛みの声を聴く」)
この問題が ズバ―――ンと語られていて、
うおおおっ、日本の医師にもここまで見えていて
それをここまではっきりと言い切る人がいるんだ……と。
……現代の消費社会では「痛み」さえもが市場経済の道具となって、それで世界をコントロールしようとしたり、金もうけをしようとしたりする人たちもたくさんいます。
鎮痛剤は何億円、何千億円という市場を形成し、製薬会社にとっても大きな利益が期待できる分野です。どんどん薬を使ってもらいたいし、そのために患者さんにも宣伝もするし、医師にも使用を奨励する。それに歩調を合わせるように、政治家も国民の健康と幸福を謳い、「痛みのない社会」をスローガンに掲げるといったように、痛みを忌避する流れは、より大きく、早くなっています。
(p. 46)
外氏は
米国での2001年からの「痛みの10年」で
鎮痛以外の目的での麻薬性鎮痛剤の利用者が3倍くらいに膨れ上がったと、
上記リンクのエントリーで拾った記事などが報告している実態を明かす。
そうした動きに抗うためにも、
「私たち医者は、薬だけで痛みを治そうとしてはいけないのです」(p.47)と述べて、
痛みを4つに分断しれそれぞれに向かうのではなく、
「身体と精神と同じように生と死もやはり繋がっていて、」
そこにも境界はないと考えたい」(p.43)といった境目のない捉え方で
「全人的痛み」と向かい合う必要と、そうした医師としての対応という話に向かう。
それはたぶん、以下の部分に象徴される姿勢。
その人にはその人の人生があり、家族があり、子どもの頃からの経験があり、そうしたものを全部背負って今その人があるわけですから、その人の「痛み」には、そのすべてが含まれていると考えなければいけません。つまり、その人の幼児期の体験や育った場所や環境、親兄弟や友人との関係など、すべてがその人の痛みに投影されている。そういう「痛み」にこそ、向かい合っていかなければならないわけです。
(p. 42)
その一方で、外氏には現代社会について、
「「痛み」を排除して、快楽や便利さ、快適さの方へどんどん向かって」(p.45)いるとし、
さらに、
……痛み恐怖症になり過ぎて、痛みを避けるあまり、現に痛みをもつ人たちに手を差し伸べることができにくくなっている。痛みに対する配慮というものが欠けている。それは現代社会の病ではないかと思います。
(p.46)
生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医(MT州)(2013/3/26)
この事例をめぐって、某MLで
ALS患者の支援の専門家と緩和ケアの専門医の方の間で
興味深いやり取りがありました。
私はALSのことには全く疎いので
細かいことまでは分かりませんが、大筋としては、
日本でもモルヒネが保険適用となり、
ALS患者に使われるようになってきているが、
そこにはいくつかの疑問がある、という話。
門外漢の私がとりあえず、
そのやり取りから読み取ったのは以下の3点。
① がん患者の呼吸困難にモルヒネを使うことにはエビデンスがあるが、
鎮静のために、睡眠薬ではなく鎮痛剤であるモルヒネを使うことは疑問。
② 本人の苦痛緩和のためという名目で
実際は病棟の看護師の負担軽減のために使われている場合も?
③ ALS患者の緩和ケアとしてモルヒネの使用が広がるにつれて、
ALSの呼吸不全を終末期と捉える勘違いが起こり始め、
緩和ケア=終末期ケアという短絡的な構図ができていくのではないか。
私はすべての問題意識がアシュリー事件に端を発する門外漢なので
① と②はともかく、③の疑問がアシュリー事件での胃ろうをめぐる疑問に繋がった。
以下、それについて。
アシュリーには、
まだ口から食べられる状態だったにもかかわらず、
よく病気をして熱を出しては食べられなくなるので、
そのくらいだったら、いっそ普段から経管栄養にしておけばよい、との判断で
胃ろうが作られたと思われる節がある ↓
ヘンだよ、Ashleyの胃ろう(2008/12/20)
(私が当事メールをやり取りしていたのは、A療法論争にも登場する英語圏の学者の一人)
そして、実際、
アシュリーの手術を行ったシアトルこども病院の小児科医の一人、Wilfondは
重症児への健康以外の理由による侵襲をめぐる親の決定権を論じた論文で、
胃ろうについて、食事介助の時間を短縮するための技術としてのみ捉え説明している ↓
食事介助の時間短縮策としてのみ語られる胃ろう(Wilfond論文)4(2009/4/27)
ところが、
仮にアシュリーの胃ろうが、5歳の時に、
まだ口から食べられるにもかかわらず緊急時への対応のために導入されたのだとしても、
6歳時に実施された“アシュリー療法”が9歳で論争になった際には、
胃ろうであることが「飲み込みもできないほどの重症児である」ことの根拠に使われた。
上記の「ヘンだよ、アシュリーの胃ろう」エントリーに引用しているように、
08年のストーニー・ブルック大学の認知障害カンファ(Eva Kittayが企画したもの)で
ピーター・シンガーもアシュリー事件を論じた際に、アシュリーの状態について
「アシュリーには飲み込みすらできない」と発言している。
本来なら飲み込みに困難がある人だけが本人の利益判断で適用となるはずの技術が、
介護上の利便性によって、飲み込み可能な人にまで使われてしまう現実は存在している。
にもかかわらず、いったんその技術が使われてしまうと、
「利便性のために使われている現実がある」ことはカウント外となり、
「胃ろうになっている」
↓
「飲み込みができない」
↓
「飲み込みができないほど重症である」
↓
「したがって、他の障害児とは別基準を適用しても構わない」
と、みなされてしまう。
高齢者の場合だと、
「口から食べられなくなったら、もういい」と言われてしまう。
それは、ちょうどアリシア・ウ―レットが
アシュリー療法の正当化論について指摘した問題点の1つ、
「道徳上の害につながる社会的リスクが無視されている」に当たるような気がする。
ウ―レットが言っていることを私自身の言葉でまとめると、
本人の最善の利益というタテマエを装った「どうせ重症児だから」という論理で
本人以外の便宜のためにアシュリー療法が正当化されると
今度はアシュリー療法を実施された個々の子どもが周囲の人から
「どうせアシュリー療法をしてもかまわないような存在だから」とみなされ、
人としての敬意を値引きされることになる。
人が、人としての敬意を減じた扱いをされる時には
その扱いをされる存在であることがその扱いをさらに正当化することにつながり
その人は「道徳的な害」を被ることになる。
Ouellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判(2010/1/15)
(QuelletteはOuelletteの間違いです。あまりに多数なので、訂正できずにいます)
個々の技術や薬それ自体は、
一定の状態の患者さんへの利益がある優れた医療介入である反面、
本人の利益を装いつつ本人以外への利便性のために
本来なら適用対象にならない患者さんにまで行われていくと、
どこかで周囲の捉え方に因果関係の逆転が起こり、
その技術や薬を適用されている人であることが
「生きるに値しない命を生きている人」であることの証と捉えられてしまう。
ALSの人へのモルヒネ投与にしても、高齢者への胃ろうにしても、そして新型遺伝子診断でも、
それと同じところがあるような気がする。
――――――
それから、もう一つ、
オピオイド鎮痛剤については、
以下のエントリーで紹介した「ファーマゲドン」スキャンダルが出てきており、
かつてのSSRIをめぐるスキャンダルとその構図がとても似ていることと
あながち無関係でもないのかも……?
“オピオイド鎮痛剤問題”の裏側(米)(2012/10/20)
ファーマゲドン: オピオイド鎮痛剤問題のさらなる裏側(2013/1/4)
……と、実はここまでは先週書いて、寝かせたままになっていたのですが、
昨日たまたま読んだ
九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学教授の外須美夫さんのインタビューで
(『談』2013 no.96 特集「痛みの声を聴く」)
この問題が ズバ―――ンと語られていて、
うおおおっ、日本の医師にもここまで見えていて
それをここまではっきりと言い切る人がいるんだ……と。
……現代の消費社会では「痛み」さえもが市場経済の道具となって、それで世界をコントロールしようとしたり、金もうけをしようとしたりする人たちもたくさんいます。
鎮痛剤は何億円、何千億円という市場を形成し、製薬会社にとっても大きな利益が期待できる分野です。どんどん薬を使ってもらいたいし、そのために患者さんにも宣伝もするし、医師にも使用を奨励する。それに歩調を合わせるように、政治家も国民の健康と幸福を謳い、「痛みのない社会」をスローガンに掲げるといったように、痛みを忌避する流れは、より大きく、早くなっています。
(p. 46)
外氏は
米国での2001年からの「痛みの10年」で
鎮痛以外の目的での麻薬性鎮痛剤の利用者が3倍くらいに膨れ上がったと、
上記リンクのエントリーで拾った記事などが報告している実態を明かす。
そうした動きに抗うためにも、
「私たち医者は、薬だけで痛みを治そうとしてはいけないのです」(p.47)と述べて、
痛みを4つに分断しれそれぞれに向かうのではなく、
「身体と精神と同じように生と死もやはり繋がっていて、」
そこにも境界はないと考えたい」(p.43)といった境目のない捉え方で
「全人的痛み」と向かい合う必要と、そうした医師としての対応という話に向かう。
それはたぶん、以下の部分に象徴される姿勢。
その人にはその人の人生があり、家族があり、子どもの頃からの経験があり、そうしたものを全部背負って今その人があるわけですから、その人の「痛み」には、そのすべてが含まれていると考えなければいけません。つまり、その人の幼児期の体験や育った場所や環境、親兄弟や友人との関係など、すべてがその人の痛みに投影されている。そういう「痛み」にこそ、向かい合っていかなければならないわけです。
(p. 42)
その一方で、外氏には現代社会について、
「「痛み」を排除して、快楽や便利さ、快適さの方へどんどん向かって」(p.45)いるとし、
さらに、
……痛み恐怖症になり過ぎて、痛みを避けるあまり、現に痛みをもつ人たちに手を差し伸べることができにくくなっている。痛みに対する配慮というものが欠けている。それは現代社会の病ではないかと思います。
(p.46)
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