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前のエントリー
「認知症の人の痛み」という医療でも介護でも見過ごされている問題に
正面から取り組むプロジェクトを紹介したので、

ついでに、今度は「コミュニケーションの廃用性」という、
これもまた、知的障害や認知障害のある人について見過ごされがちな問題について。

「介護保険情報」誌がこのところシリーズでリハビリテーションの対談をやっていて、
8月号では全国老人保健施設協会会長の川合秀治氏と
日本言語聴覚士協会会長の深浦順一氏が対談している。

「コミュニケーションの廃用性」というのは
そこで深浦氏の発言に出てきた言葉で、

コミュニケーションに障害がある方の場合、引きこもり状態になると、
コミュニケーション面での廃用性が生じるようになります。
コミュニケーションをする楽しさ。それから食べる、味わうという楽しみ。
それらがやはりいつまでも保持されるということが大変重要だと思います。
(p.25)

コミュニケーションの廃用性──。

それは物理的な引きこもりだけでなく、
精神的な引きこもりでも起こると思う。

抵抗するすべがない身となり、
尊厳のない扱いをされたり機械的な介護を受け続けたような時に、
表情を失い、しゃべらなくなる高齢者や重症障害者は少なくない。

それが認知機能や身体機能の衰えだと誤って判断されているようにも思うのだけど、
実は自分の尊厳をせめて守ろうとする精神的な閉じこもりであったり、
または人として扱われ、人として他者とかかわることに対する諦めであったり、
……ということだってあるはずだ。

それは外から来る刺激に対して心を閉ざし、
自分の中に引きこもってしまうことなのだから、
ここでも、いわば、心の動きに廃用が起こってきてもおかしくはないという気がする。

「廃用性」ということとは、ちょっと違うのだけれど、
言葉を持たない重症重複障害児を見ていても、
コミュニケーションを諦めてしまっている子どもは少なくない。

早いうちから微妙で繊細な信号を周囲にしっかり受け止めてもらえる子どもは
受け止めてもらえることに自信を得て、「分かってもらえる」と周囲への信頼を育て、
どんどん自分から声を出したり、目や顔の表情や手や足で意思を発信していくし、
周囲とのやり取りの中で徐々にその方法にも工夫がされ、
その子なりの意思表示の方法ができていくのだけど、

逆に、
弱いながら自分なりに信号を発しているのに受け止めてもらえない体験を重ねると、
その子はだんだんと思いを表現したり、意思を訴えることをしなくなる。
表情が乏しくなり、一方的にされるがままに甘んじて
周囲は、それによって、本当に何も分かっていない子どもだとの誤解を深くするという
とても不幸な状況だ。

身体障害のない、あるいは軽い子どもであれば、
言葉がなくても自分で行動して思いを実現させようとすることもできるのだけど、
寝たきりの重症児では、誰かがまず近くに来てくれて、
自分とちゃんと向き合ってくれなければ何も始まらない。

せっかく側に来てくれても、
ちゃっちゃっと無言でオムツを替えて去っていかれたのでは
誰もこなかったのと同じこと。

彼らは、それほど、はなはだしく受身で“あなた次第”の状況に置かれている。

様々な職員のケアを受ける入所施設の重症児・者たちを見ていると、
彼らが職員一人ひとりの姿勢を実に見事に見抜き、
相手によって的確に対応を変えることに
私はいつも舌を巻いてしまう。

「この人は自分のことを“どうせ何もわからない”と思っているから、
この人には言っても伝わらない」と読むと、
彼らは何も求めず、何も訴えず、ただされるがままになって、
本当に“何も分からない重症児・者”という役どころに甘んじるのだけど、

「この人なら、言えば分かろうとしてくれる」と思えるスタッフがやってきた時には、
にわかに顔や目に生き生きとした表情を浮かべて、
そのスタッフに向かって、大いに声を出し、手を振って訴え始める。

面白いのは、後者のスタッフは前者のスタッフが見えていないことに気づいているけど、
前者のスタッフは、自分が見えていないことにも、
自分が見えていないことを見ている人がいることにも気づいていないこと。

「どうせこの子は何も分からない」と決め付けているために、
呼んでいる声にも、周囲の会話に応じている目の動きにも気がつかない人は
親の中にだっていないわけではない。


アルベルタ大学のBrown準教授のワークショップ
認知症の人の痛みのわかりにくさについて指摘されていることは
障害のために言葉を持たない人のコミュニケーション能力についても
実はそのまま当てはまる。

重症児を対象にホルモン大量投与による成長抑制療法を
一般化しようと目論んでいるDiekema医師やFost医師らは、
対象児の条件の中にコミュニケーションが取れないことを含めているし、

シャイボ事件の判断においても、パーソン論においても
言葉を持たないことが、あまりにも安易に
意識がないことのエビデンスに使われてしまっているけど、

言葉がないから、どうせ分からないから、
人格ではないとか、殺してもいいとか議論する前に、
障害ために言葉を持たない人のコミュニケーション能力や意識状態について、
その廃用性の懸念も含めて、もっとしっかりと調査・研究されるべきではないんでしょうか。

ここでもまた、
行われることのない研究は、それが“ない”という事実が見えにくいために、
それが、“何故ないのか”まで覆い隠されてしまっているけれども──。




【関連エントリー・A事件でのコミュニケーションの問題】
Ashleyの眼差し
Ashleyのカメラ目線
Anne McDonaldさんの記事
Singerへの、ある母親の反論
2009.09.10 / Top↑
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