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Ashley事件を機に英米の障害児・者関連のニュースを追いかけながら
ずっと気になっているのは
実際の支援がどの程度行われているのかが
断片的にしかうかがえず、全貌がなかなか掴めないこと。

いずれの国でも
福祉サービスを求める声に日本とはまるで違う権利意識の強さがにじむために
ニュースでは「ない」ことばかりが強く印象付けられてしまうのですが、

時々ニュースから断片的に見える具体的なサービス像からすると、
英米の障害当事者や家族にとっては大いに不足であっても、
彼らにとって利用可能なサービスは案外
日本では考えられないくらいに充実していると想像されたりも。

例えば2年前に
娘Katie Thorpeの子宮摘出を求めた母親Alisonが
介護負担をしきりにメディアに訴えていた際にも、

Katieは福祉サービスとして自宅から養護学校へタクシーで送迎されていたし、
週に1度は「ティーンズクラブ」に通って、
そこでは定期的にお出かけに連れて行ってもらい、
Alisonも時々レスパイトのためにKatieを預かってもらっていたことには驚いた。

日本の在宅の重症児なら、
親が毎日、養護学校まで、または通学バスのバス停まで親が送迎していて
そのために親は午前と午後の一定時間を拘束されて暮らしています。

また養護学校以外に親と離れて過ごせる子どものための場所があって、
しかも親の付き添いなしに“お出かけ”までさせてくれるというのは
日本では考えられないし、

レスパイトは最近やっと整備されてはきましたが、
受け皿がまだまだ少ないのと
親が休息のために子どもを手放すことへの罪悪感からも
まだ定期的といえるほど利用していない家族も多いのではないでしょうか。


先日、そんなこととは知らず軽い気持ちで
イギリスではなぜ散歩が楽しいのか?」という本を読んでいたら
英国在住の金融アナリストである日本人の著者は思いがけず自閉症児の父親でした。

副題に「人にやさしい社会の叡智」とあるように、
社会的弱者を支える多様できめ細かなネットワークが何重にも張り巡らされた
英国社会のあり方を紹介している中で、


イギリスでは、障害児への対応だけでなく、障害児を持つ親への対応にも気を配っている。そのひとつが、レスパイト・ハウスの制度である。……中略……日本では、「自分の子供なのだから、親が面倒を見るのは当たり前」という風潮があり、障害児をもつ親の心身まで誰も配慮してくれない。そのための疲労と将来への悲観から、親子無理心中というような悲惨な出来事が起きている。
イギリス社会には、「障害児も、その親も独立した一人の人間であり、個人として生活を楽しむ権利がある」との考え方が浸透しており、障害を持つ子どもだけでなく、その親も休息の時間が取れるよう配慮している。そのため、レスパイト・ハウスは学校と協力して、子供たちがレスパイト・ハウスに親しみがもてるように、ふだんから子供とハウスのスタッフが交流する機会を設けている。そうすることで子供たちは、自然にレスパイト・ハウスに滞在できるようになる。こうした配慮が障害児を持つ親たちを支援している。なお、これとは別に、障害児と暮らしているために就業ができない母親には、国から手当が支給される。(p59-60)


例えば、レスパイトが整備されてきたとしても、
著者がいう「自分の子なのだから親が面倒を見るのは当たり前」という規範意識とか
「愛情があれば介護などものともしない美しい親の姿」といった美意識が
いつのまにか親自身にも根深く内在化されていて、
思い切って利用に踏み出せないブレーキとなっていたりする。

去年の福岡の事件の時に、
「支援が必要なら、待っていないで自分から求めなさい」といった支援の専門家がいたけれど、
日本人のメンタリティはそこまで権威意識で強固に固められていない上に
少なくとも子どもが一定の年齢になるまでは
「親なんだから頑張れ」「愛さえあれば」と無意識のメッセージを送られていれば、
子どもが一定の年齢になったからといって、
そこでスパッと頭を切り替えられるというものでもなく、

また介護に手がかかればかかるほど、そうして暮らしてきた年月は
親と子をどうしても密接に結び付けてしまうものでもあるのだから、
年齢が高くなるまで抱え込んでいればいるだけ、
手のかかる子であればあるだけ、手を離すのは心配にもなろうし、

だからといって子どもの介護を苦しいと感じれば感じるほど
自分に親として十分なことをしてやれないハンディや事情があれば、また余計に
親は自分を責めて気持ちが内向していくのだから、

そういうダブルバインドで身動きできずに苦しんでいる心理を
せめて支援の専門家くらいには理解してもらえないものか……。

周りから親をまず縛っておいて、
自分でその縄を抜けてくる力を持たないのは親がいけないと責めるのではなく、

親が社会規範や美意識で縛られて子どもを抱え込まなくてもいいように
「いくら親だって生身の人間なのだから、できることには限界がある」
「子どもに対するケアと同時に親を直接支援することも必要」という認識をこそ
社会に拡げていくこともまた、必要な支援なんじゃないんだろうか。

どういう支援が整備されているかということと同時に、その支援が
「障害児の子育てには親が支援を受けて当たり前」
「介護者にだって人間らしい生活を送る権利がある」という
社会全体の了解の中にあるかどうかの違いも大きい。


障害者や老人は、どの国でも社会的弱者だ。しかし、イギリスの弱者たちは、社会の片隅でひっそりと暮らしてはいない。彼らは「人間としての誇りをもって生きる権利」を主張し、そのために必要な公的な制度や資金を堂々と要求する。イギリスの社会は、彼らの声に真剣に耳を傾け、その実現に力を貸す。彼らを支える全国的な民間組織が存在する事実に、弱者に対するイギリス人の姿勢が表れている。(P.83-84)


著者が挙げている「彼らを支える全国的な民間組織」とは
高齢者チャリティAge Concern と 知的障害者チャリティーのMencap。

私も仕事の関係でAge Concern その他のチャリティの活動についてはよく目にするのですが、
高齢者チャリティだけでなく介護者支援チャリティも1つや2つではなく、
アン王女が始めたステータスの高い介護者支援チャリティもある。

いつも面白いと思って眺めているのが
「全英約600万人(成人10人に1人)の介護者が
自分を犠牲にして介護を担っているおかげで、
英国政府は年間570億ポンドの予算を削減させてもらっている」などという試算が
しょっちゅう出されてくること。

もともと医療が無料で当たり前の国だから、
その中に介護も含まれていて無料でやってもらって当たり前なのに、
家族介護者がその負担を不当に引き受けさせられている、という感覚が
英国人にはあるんだろうなぁ……とは思うのですが、

それにしても、これ、
日本では、いまのところ、まずありえない発想で、

むしろ厚労省から
「今後高齢者人口はこんなに急増するんだぞ、
それに伴って介護に必要な金額はこんなにうなぎのぼりなのだぞ」と
そういうグラフや統計で脅されて、なんだか
生きていては申し訳ないような気分にさせられたり、
「やっぱり家族で頑張るしか……」と肩を落としてしまいそうになる。

ここでも、大きいのはやっぱり
社会全体の中に弱者が権利を求めることを当たり前と了解する文化があるかないか……ということ?
2009.03.09 / Top↑
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