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Quebec州のAndre Dionさん(67歳)は
もはや手術できない前立腺がんが全身に転移している。

毎朝40錠もの薬を飲んでいるが特に骨の痛みが耐えがたく、
尊厳のある死をさせてほしいとQuebec州の保健相にあてた手紙を
Quebec州内の新聞数社に送った。

スイスに行って死ぬよりも
ここQuebecで愛する者たちに囲まれて
死をできるだけ人間的なものにしてくれる医師の助けを借りて死にたい、

心は既に決まって平静であり、
むしろ、これは正しいことだとのキリスト教徒としての信念に慰めを得ている、と。

手紙は
尊厳死合法化活動団体のソーシャルワーカーの支援で書かれたもの。

Quebec州のBolduc保健相は政治家になる前は25年も医師をしていた人物で、
現役時代には「尊厳のある死」という共著がある。

保健相のスポークスマンは
この問題は連邦政府の管轄なので州として法律を変えることはできないが
議論の必要については他州にも働きかけていく、と。



キリスト教では自殺は罪だったと思うので、
「これは正しいことだというキリスト教徒としての信念」というところは
ちょっと理解不能……。

それから、もう1つ、この人の言葉、
特に「尊厳と誇りを持って死にたい」という言葉を
このところFENなどの「死の自由」文化から出てくる理屈と重ねて読むと、
ちょっと気になってきたのは、

「尊厳」の意味がこれまでとは違ってきているのではないか、と思われること。 

「人間にはどんな状態になっても尊厳を侵されない権利がある」というふうに
尊厳とは主に「他者から侵されない」という形で守られるべきものとして
考えられ云々されていたし、

尊厳自体はその人の状態とは無関係にすべからく人に内在しているものとして
捉えられていたと思うのだけど、

自殺幇助の合法化を求めている人たちに共通しているのは
いつのまにか「一定の状態になることには誇りがもてない、
だからその状態には尊厳がない」という捉え方で、

この捉え方は私にはAshley事件での
「Ashleyはどうせ重症の知的障害で何も分からないのだから
成長する権利を奪っても、臓器をとっても構わないし、
それが尊厳や体の全体性を侵すことにはならない」
という正当化の論理と重なって感じられます。

すなわち、ここにあるのは、
英語で helpless と形容される状態であることは
尊厳に値しない状態なのであり、

だからこそ、そうでなかった自分がそういう状態になることは
誇りを傷つけられ耐え難い……という感覚ではないでしょうか。

この男性が「尊厳」だけでなく「尊厳と誇り」という言葉を使っていることが
私にはとても象徴的だと感じられるのですが、

人間が自分に誇りをもてるのは
自分で自分をコントロールできる能力を有しているからであり、
自分で自分をどうるすこともできないhelplessな状態になることは
誇りを傷つけられ、尊厳を失うことであり、
自分がそんな存在でしかなくなることは耐え難く、許しがたいこと……。

無意識にせよ、いや、無意識だからこそ、
幇助自殺を希望し、また合法化を求める人たちの使う言葉に
どこかPeter Singerやトランスヒューマニストたちの
一定の知的能力・認知能力を持たない人間は動物と変わらないか、それ以下の存在であるとする
パーソン論的価値判断が匂っていることに、ものすごく恐ろしいものを感じてしまう。

人間の能力は限りなく伸びて可能性は無限に広がると夢を見る科学とテクノロジー万能信仰が
総じて人間の自己イメージを非常に高いところに据えてしまって、

それに伴って、
自分が自分で思うようにならない状態や、
能力の低い状態に対する許容度が低くなってきている……ということはないのでしょうか。


例えば去年の英国でのこちらの事件などは象徴的かも。

ラグビーの選手だった23才の青年は事故で障害を負った時に
そんな自分をsecond-class citizen としか感じられず、
そんな劣った存在として生きるくらいなら死にたいと望み、
両親の手を借りてスイスのDignitasで自殺したのですが、

運動能力が高いことが誇りであった彼のような人にとっては
一定の身体機能を失うことが、それだけで、もはや誇りをもてない事態であり、
そんな自分はもはや尊厳のない存在としか感じられないのだとしたら、

それはその人の誇りのもち方や尊厳の考え方に問題があるのであって
実は尊厳の問題とは違うのではないでしょうか。

誇りは、人により勝手にその対象や誇りの持ちようが違っても仕方がないかもしれないけれど、
(間違った誇りの持ちようというものがあるとしても)

しかし、尊厳はその人の状態によって「ある」とか「ない」とか判断するものではなく、
どんな状態になろうと最後まで守られるべきものが尊厳ではないのでしょうか。
2009.03.09 / Top↑
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