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出産時のアクシデントによる無酸素脳症で
重症重複障害のあるウチの娘は言葉を持たないが
指差し、目つき、顔つき、さまざまな音声とトーンのバリエーションで
たいていのことは、はっきりと自己主張する。

そして実は、相当に理屈ばったヤツでもある。

たとえば、彼女は「おかあさんといっしょ」ファミリーコンサートの中毒なので
我が家では午前に1回朝食後と、午後に一回昼食後に
「おかあさんといっしょ」ファミリーコンサートのDVDタイムがある。

朝食、昼食ともに「食べ終わったらDVD」というのがルールになっている。

というのも、なにしろ文字通り”3度の飯より大好き”なファミリーコンサート。
食事中に「お、この後はDVDだ……」と、ふと頭をよぎったりすると、
もうゴハンなんか、どうでもよくなってしまうらしい。

そういう時、ミュウはふいに両手を合わせて「ごちそうさま」をする。

ろくに食べてないくせに
「はい、ごちそうさま。だから……DVDだよね?」
目がとっておきの甘え方で探りを入れる。

「えー、なに言ってんだよ。まだ、そんなに食べてないじゃん」
「ダメだよ。DVDはご飯が終わってからっ」
「もうちょっと食べようよ。ほら、まぁ、これを一口」などと
両側の親から口々に言われ、改めてスプーンを口元へ運ばれると
「しょうがないなぁ……」と口を開ける。

が、たいてい、その一口を飲み込むや、しれっと「ごちそうさま」をする。
「親の言うとおりに一口だけは食べたぞ。だから……DVDね?」

「なに屁理屈いってんだよ。DVDはご飯を食べ終わってから!」
「だから食べ終わりました。はい、ごちそうさま」

あとは父のスプーンが口元にやって来ようが母の箸が誘おうが
もはや頑として口を開けず、何度でも「ごちそうさま」を繰り返す。

その頑固さは
「だって、あたしは食べ終わったんだからDVDを見る権利がある」と言い張るが如し。

そんな調子だから、我が家では
「このミュウに言葉があったら、我が家にはどんな修羅場が起きていたことか」というのが
夫婦で繰り返すジョークになっている。

言葉がなくてもこれだけ理屈っぽい娘と、同じく理屈ばった母親との間で
壮絶な論争が繰り広げられたであろうことは想像に難くない。

思春期など、きっと、その挙句に
「うっせぇ、このくそババア!」「なにィ、親に向かって、なんだ、それはッ!」と
さぞかし激烈な修羅場が毎日繰り返されていたことだろう。
その間に挟まれて、心優しく口下手の父親は、さぞ右往左往していたことだろう……。

我が家では「もしミュウに障害がなかったら」という他愛無い仮想は
だいたい、こんな展開をたどり、夫婦が大笑いして終わる。

そんな「もしミュウに障害がなかったら、さぞや喧しいおしゃべりで……」と
いつものヨタ話に夫婦で笑いあっていた数ヶ月前、

ふっと「もしもミュウのクローンが……」という言葉が頭に浮かんだ。

ねぇ、お父さん。
もしもミュウのクローンが作れるとしたら……それって……
障害のないミュウに……私たち、出会えるってこと……?

そんなことが頭に浮かんだのは、もちろん初めてで、

町を歩いていて、ふいにどこかから花の香りが漂ってきた時のように、
ふわっと思いがけず柔らかく胸に広がった夢想は、またたくまに
ミュウを裏切ったみたいな微かな罪悪感とともに霧散していった。

霧散していった後に思い出したのは
Steven Kingの“Pet Sematary”。

それからドッペルゲンガー
この世に存在するもう1人の自分――。
ドッペルゲンガーを見た人は死ぬ、という話──。

それはやっぱり見てはならないものだから……なんだよね。

        ――――――

あの時の「もしもミュウのクローンが……」という想念について、
クローンのことを考えるたびに思い出している。

あの時、私はなぜ、障害のないミュウと「出会う」ではなく、
障害のないミュウと「出会える」と、考えたのだろう。

私は、障害がなかったらこういう子だった……というミュウに
本当は出会いたいのだろうか……。

それは、仮に「障害のあるミュウ」と「障害のないミュウ」とが選べるとしたら、
私が「障害のないミュウ」を選ぶということなのだろうか……。

しかし、これは違う、と思う。

「障害のないミュウ」を選ぶということはありえない。
ウチの子は今ここにいるミュウ以外にはいない。
そのこと自体に障害は全く無関係だ。

だから、障害があろうとなかろうと
「もう一人のミュウ」というものがこの世にいるとしたら、
それはウチの娘と同じ容姿をした得体の知れないナニモノカでしかない。

それに、本当のところ、「障害のないミュウ」とは
いま私たちの目の前にいるミュウから障害だけをマイナスした存在なのだろうか。

それも違う、と思う。

いま私たちの目の前にいるミュウは
生まれた時から重い障害を持ち、そのために病気ばかりして
できないことや思い通りにならないことに取り囲まれて、
つらい思い・さびしい思い、悔しい思いもいっぱいしながら
それでも親や通園施設、養護学校、重心施設で出会った多くの人たちに愛されて、
もちろん時に傷つけられもしながら、
楽しい体験や嬉しいこと、誇らしいこともいっぱい積み重ねて
言葉がなくても自分をちゃんと主張し“駆け引き”や“取引き”までする
ミュウであってミュウでしかない今の彼女に成長してきたのだから。

だから、今のミュウから障害だけをマイナスすることは不可能だ。


じゃぁ、なぜ私はあの時、
娘のクローンとは「障害のないミュウと出会える」ことだと捉えたのだろう。
なぜ、あの一瞬、ほのかに甘いものが胸に広がったのだろう。

そのことをずっと考えて、今なんとなく思うのは、
「できることなら障害のないミュウを一度見てみたい」とでもいった思いだったんじゃないのかな、
娘が持っていたはずの可能性をいとおしむような気持ちだったんじゃないかな、と。

だけど、それは、もともと他愛ない夢想に過ぎないのだから、実際に目の前に出てこられたら
「あなたがそうですか。へぇ」と言わせてもらう以外にすることがない。

その後はもう用がないので消えてくれていいし、
万が一にも消えずに実際に存在し続けられては
邪魔くさいし気色悪いし、そんなの困るんだよ……と。


今の誰かとは別の可能性を体現した、もう1人の誰かなんて、きっと
「もし、あの時、あの人に出会わなかったら」とか
「もし、あの時、あの仕事を辞めていたら」とか
「もしも別の人と結婚していたら」など
いくらでも無数にある人生の「もしも」と同じだ。

たまに頭に想像して楽しんだら次の瞬間には忘れ去っているくらいがちょうどいい。
大事なのは、目の前にある自分の人生と格闘しつつ生きていくことなのだから。

目の前にある自分の人生は、誰にとっても、
自分が選んだことや、自分にはそうしかできなかったことや、偶然そうなってしまったこと、
誰のせいでもなくそうなってしまったこと……などなどの積み重ねであって、

それは、どんなに科学が進んでも、そういうもののままなんじゃないだろうか。

どんなに科学が進んだとしても、
人にできることは、そういうものでしかない人生を生きることだけなんじゃないだろうか。

それに、そういう人生を生きるのだって、
そんなに悪いものじゃないよね。

娘と一緒に生きてきた、これまでの人生の中に
「もうこれ以上生きていけない……」と思い詰める日がなかったわけではないけれど、

例えば、DVD見たさで勝手に「ごちそうさま」をする娘に
「ご飯を食べてからっ」
「まだ“ごちそうさま”じゃないんだってばっ」と
夫婦で振り回されてジタバタしている我が家のゴハン時が
そういう22年間を過ごしてきた今、なかなか悪くない時間であるように。
2009.01.18 / Top↑
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